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アメノウズメによる福音書 1

◆ 非常な日常


 [*]

 こんな、夢を見た。

 僕は砂漠地帯に派遣された一兵士で、戦争の第一線にいる。砂漠の熱が体を蝕む灼熱地帯だ。

 当然のように軍服は分厚い迷彩柄だが、サボテンさえ植物がない黄土の土地では、かえって目立つ。いくら伏せていたとしても、こんな拓けた空間で、そこにいる敵軍の兵士に気づかれていないハズがなかった。

 現に、ライフルの銃口は僕に向いている。ただ向こうも迷彩服で腹ばいに伏せている。

 隙を見て、僕も同じようにライフルを相手に向ける。すると、まるで西部劇のような『先に撃った方が生き延びる』という雰囲気になった。匍匐前進(ほふくぜんしん)を続けていた敵兵も動きを止め、唾を飲む。

 まさに、一触即発。

 緊張が張り詰める。今しかないというタイミングで引き金を引こうとした、その瞬間、

「バズーカだー!!」

 後方から、仲間とおぼしき者の声。切羽詰まった様子から察するに、敵軍の砲撃が始まったか。

 しまった。

 あまりに敵兵に気を取られてしまったが為に、他の追撃から身を守るコマンドを怠ってしまった。

 後悔するにしても、それは遅すぎる。結果、僕はライフルを手にしたまま硬直し、

「うわあぁ!」 耳元で、凄まじい轟音を聞いた。


 [*]

「うわあぁ!」

 僕は素っ頓狂な声を出して飛び起き、ベッドから床へと盛大にずっこけた。

 そして直後にそこが自宅であることに気付く。頭をフローリングにぶつけたのもさることながら、間抜けに声を上げて飛び起きたのは片腹痛い。

「いてて……」

 寝ぼけ眼ながら頭を押さえつつ、周囲を見渡す。

 モノのない室内に、唯一あるのは質素なベッド。白い壁に掛けられた時計だけが、忙しそうに針を動かしている。確実に、いつもの僕の部屋で間違いなかった。いつもと違うのは、転げたままの僕の側に立つ、『ひとりの少女』だけ。

「お目覚めでしょうか? 殿下。」

 僕が眉を潜めて見上げても、その少女は表情を一粍(みり)も崩さない。ただ屹立している。

 高校の制服を着て、右手に筒らしきものを握っていた。

「なんだソレは」

「バズーカ砲です。朝の起こし方を検証した所、最もθ(シータ)の分泌が顕著に認められた手法がこれでした。先週テレビでやっていましたので、早速通販で購入した次第です。」

「馬鹿かお前は……」

 やはり、あのバズーカの轟音は、夢ではなかったらしい。

 確かに頭は覚醒したが、心臓に悪すぎる。しかも耳元で発砲したらしく、耳の奥がジンジンとする。銃口からは白い煙が発ち、火薬の臭いが鼻につく。

「毎日起こしに来てくれるのはいいけど、もうちょっと方法を考えろ」

「……お言葉ですが、殿下」

 半身を起こし、深く息を吐く。僕を『殿下』と呼ぶ彼女は、やはり無表情で僕を見る。

「その台詞(せりふ)を先週お聞きしましたので、私は創意工夫を繰り返し、バズーカ砲に行き着いたのです。テレビ番組内でも十割の確率で人を強制的に起こすのに成功していました。何か間違っていますか?」

 小さな体の彼女は、わざとらしく首を傾げる。

「常識を考えろ」と言おうとするが、その挙動が余りに機械的なのを見て、その気が萎える。彼女に、常識などないのだ。そう諦めて、立ち上がる。

「分かった。僕が悪かったよ。」

「分かれば良いのです。分かれば。」

 こくり、と、やはり規律よく首を上下に振る。

 僕が立つと、やはり彼女は小さかった。見下げられていた今さっきとは違い、今度は彼女が僕を見上げなくてはならない。

 その髪は細く、長い。艶のあるそれは腰まで続いていて、体の小ささとは実に不釣り合いだった。制服を着て、髪が梳かれているのを見ると、既に彼女の支度は終わっているらしい。

「では明日からも、この方法で起こすことにします」

「それは勘弁してくれ……。朝から気分は最悪だ」

 全くどうにかならないかと思う。彼女に朝起こして貰うようになってから、優雅な朝は無くなったに等しい。

 ある朝は「起きてよー、お兄ちゃん(棒読み)」と無表情でのしかかかれ、ある朝は「寝ちゃダメだ、雪山で寝たら死んじまうぞー(棒読み)」と無表情で只管(ひたすら)に揺さぶられた。

 そして今朝はバズーカ砲。これでは安心して眠れない。

 もう仕方ないのは分かっているのだけど、僕の体が持たない。

「朝ご飯を食べましょう、殿下」

「ん、作ってくれたのか?」

「朝ご飯を作って下さい、殿下」

「やっぱりか……」

 苦笑しつつ、背伸びをしてから彼女に尋ねる。

「何が食べたい、梅子?」

 ――梅子。

 梅の花を思わす容姿と重なり、印象通りの名前だとは思う。しかし、本来それが連想させるおしとやかさと、梅子のそれは相当な齟齬がある。

 『軽い自閉症だ』と医者が言う梅子には、常識がない。言い換えれば、常識を構築するだけの人生経験がないのだ。こいつには、そんな事情がある。

「殿下が作って下さるのなら、私は何でも構いません。ただ、トーストにハムエッグとミルクがあれば。」

「がっつり要求してるじゃねぇか」

 ポンと頭に手を乗せると、そのまま台所へと向かう。準備万端で手持ち無沙汰らしい梅子の為に、パジャマのまま冷蔵庫に手を伸ばす。卵が無かったから適当に肉なんかを焼き、トーストを焼いてチーズなんかを乗せてみる。対して料理が上手い訳ではないが、手際だけは自慢できる。

 皿を持ってリビングに行くと、梅子が椅子に律儀に座り、テレビを見ていた。

「出来たぞ……ってナニ見てんだ?」

「『モンスタ』です」

「いや、それは見れば分かる」

 『モンスタ』とは、ニュースが席巻している朝の時間帯に、唯一放送している子供向けの番組だ。

 確かモーニングスタジオの略で、有名声優が司会を務める長寿番組だった。僕も小学生の頃は見ていた記憶があるが、高校生にもなって見るような番組ではない。

「見てんのか? 何が面白いんだか……」

「たまたまテレビを起動したところ、流れていただけです。私にはこんな無意味な情報番組の存在価値が分かりません。」

「そうか」

 番組を一刀両断する梅子。

 僕は皿を机に置き、同じく置いてあったテレビリモコンを手にとる。丁度占いがやる頃だと思って、普通のニュース番組にチャンネルを変え、椅子に座る。

「お、丁度占い始まった」

「……殿下」

 途端に呼ばれて見ると、梅子はテレビ画面ではなく、今度は僕の目をじっと見据えていた。

 相変わらず無表情だが、何か言いたいんだろうことは分かった。トーストに伸ばした手を止め「なんだ?」と尋ねる。

「占いほど、無駄なモノはありません」

「は?」

 何が言いたいのか分からず、たまらず聞き返す。

すると舌がまるで烈火の如く廻りだす。もちろん無表情で。

「占いは、大別するとめいぼくそうの三種類に分かれています。それを使い分けて、組み合わせることで人の未来を判別します。占いは「統計」によるものと説明する者もいますが、占いは独自の理論と個人の経験で構成されていて、統計や統計学、科学としての研究からは由来してはいなく、まったく異なるものです。つまり何の根拠もない、実態のない戯れ事であるのです。占いは。」

 透き通った瞳を一度も逸らすことはない。表情は作らず、ただ口を動かし、僕に主張を続ける。

 常人がこの話を聞いたならば、きっと梅子の意図することに気付けず疑問符が浮かぶことだろう。もう長い付き合いの僕だから、そのことに気付けた。

「対して児童番組というものは未来世代の担い手達に多大な影響を与えうる番組です。親や学校が腐敗し、教育方法が問題になる中、子供達に一定の道徳観や規範意識を自然に教えることの出来る有効な手段でもあります。恐らくは近い将来、この国の財産となるような人材の幾分かも、あのようなテレビ番組を見て育つことでしょう。だとすれば私は見届けなくてはなりません。」

 要するに、『チャンネル勝手に変えるな。モンスタ見せろ、低脳野郎。』と言いたいらしい。

直接言えばいいのに、理屈から言ってくるから鬱陶しい。そんなところは何故か日本人的だ。

「見たいなら見たいって素直に言え!」

 なんだか素直に変えてやるのも癪だったから、手元のリモコンを梅子の前に音をたてて押し置いてやった。梅子は人差し指だけでチャンネルを変え、再びテレビ画面を見据える。「いただきます」と呟きトーストをかじった。

「バター塗らないのか?」

「はい。朝食に必要なカロリーはトーストだけで十分摂取可能です。豚肉があれば脂質過少になることもありません。」

「なんだ、うまいのに」

「バタートースト一枚は、素のトースト三枚分のエネルギーを持っています」

「味がよければいいじゃん」

「それだから殿下は肥満気味なのです。女々しいことに、殿下が毎日入浴後に体重計に乗っていることを知っています。そんなに気になるのなら摂取制限することをオススメします。」

「っ……! 悪かったな、女々しくて!」

 腹いせにバター塗って三枚食べてやった。


「お花にお水を与えてきます」

 食事を終えると、開口一番梅子は自宅にある花壇を指して言う。

皿洗いを僕にさせようという思惑は見え見えだが、言い争っても仕方ない。梅子はそのまま椅子から立ち、ベランダの花壇へと向かった。

「また増えてる……」

 僕ら二人は、とあるマンションの四階に住んでいる。1LKの間取りで、ベランダ付き。なぜか真南ではないが、十分日当たりは良い。ちなみに僕らはよく同居しているのかと間違えられるが、それは違う。僕は401号室。梅子は402号室と、いわば隣人の関係だ。

 『増えてる』のは、梅子の育てている植物のこと。ベランダには部屋ごとに境はなく、僕の部屋のベランダへ侵入を防ぐ手立てはなかった。

 今やすき放題占領され、二部屋分のベランダは植物園と化している。夏に虫が寄ってこないか心配だ。

「まあ仕方ないけどな……」

 梅子は元々、それほど植物に興味を示してはいなかった。ガーデニングを趣味としていたのは、死んだ彼女の母親だ。

『どこかで母はまだ生きています。だから私は、母の大切なこの花壇を守り抜かねばなりません。』と言ったのは、つい最近のこと。母親が死んでから、既に七年以上経っているのに、だ。

 いつもロジックな梅子が、非科学的なことを言ったことは、僕にとっても衝撃的だったのを覚えている。

 皿洗いをしつつ、上臈(じょうろ)を手にする梅子を眺める。決まった秒数ずつ水を掛けてる様子だ。

「お皿洗いは終了しましたか?」

「ああ」

「ではいきましょう」

「ああ」

 金曜日の午前八時前。

 僕らはいつも通りの朝を過ごし、通学のため家を出た。


[*]

 僕らの通う葦原(あしはら)高校は、県内有数の進学実績を誇る特進科を持つ、いわば進学校だ。

生徒数は八百五十人ほど。各学年は七つのクラスで構成され、その内ひとつが特別進学クラスの特進科である。

かつて全国的に名を馳せた頃と比べると、大分落ちぶれたというが、今でも県内では敵なしだ。

 しかし進学校と言っても、その全てが有名大学に進むのではなくって、本当に偏差値が高いのは特進科の生徒だけ。

 もっと言えば、特進科の中でも指折りの生徒しか、全国に通用するだけの学力を持ち合わせていない。僅かな人数で、葦原高校の偏差値を大きく上げている状況だ。

 だから特進科といえど、その大体がまともに勉強する訳でもなく、自由奔放な高校生活を送っている。

 『特進科は言わなくても勉強しているハズだ』という勝手な先入観からか、余程成績が悪くならなければ、教師からの圧力もほぼ無い。大して熱心に勉学に勤しむつもりのない特進科生は、実に平穏で怠惰な生活を送っている。

 幸か不幸か、僕と梅子も、その怠惰な特進科生の生活を送っていた。

そして僕たちを取り巻くクラスメイトもまた、怠惰な人間たちばっかしだ。

「おー、君仁(きみひと)。今日もギリギリに来たなー。良い身分だな帰宅部は、朝練とかなくって。」

 君仁(きみひと)

 教室に着いて鞄を置くなり僕の名を呼ぶ男子生徒は、遠慮することなく机に腰かける。その髪は茶色く染められている。

「やっぱアレか? 朝は毎日、浅間とイチャイチャしてから来るのか? お互いにいってらっしゃいのキスとかすんのか? いやあ、いいねぇ帰宅部は。」

「お前も朝は帰宅部みたいなもんだろ……。それに梅子とはそんな関係じゃない」

 やけに帰宅部であることを揶喩してくる彼は、腕を組み、難しいような顔をする。

 彼は高校球児のクセに茶髪でチャラ男という、極めてふざけた野郎だ。野球を始めたキッカケは『女の子にモテるから』。

 あたかも『毎日練習ばかりで疲れてる』雰囲気で話し掛けてくるが、しょっちゅう練習をサボっては監督に怒鳴られているのを、誰もが知っている。

 やるせないのは、こんな為体(ていたらく)なチャラ球児が、多才で天才であるということだ。

 県内トップの特進科に合格するだけの学力があるのは勿論、野球ではショートを守る名手である。ロクに練習に出ないのに、一年生で既にスタメンらしい。

 そんな彼の名を、遠山日向(とおやまひゅうが)という。

「またまた嘘ばっか言うねぇ、君仁くんは。みんな知ってるぜ、浅間と同棲生活してるってことは。」

「だから違うって言ってるだろ……」

「全く、放課後に何してんだか。これだから帰宅部は。」 

「うるせぇ。お前は野球部なら朝練ちゃんと行けよ。またあの監督に叱られるぞ」

「朝から汗かきたくねーんだよ。汗くさいまま授業なんて、女の子に嫌われちまうだろ?」

 ニカニカ笑う日向の制服は、これでもかという程に着崩されている。ネクタイは緩んでるし、腰パンだし、ユニフォームの呈をなしていない。特進科生でなければ、とっくに生活指導が与えられていただろう。

 神は二物を与えないというのは嘘だ。

 このクラスには、二物どころか三つも四つも持ってる奴がわんさか居る。日向がその例だ。

「君仁も野球部入るか?」

「何でそうなるんだよ……。経験値ゼロな僕じゃ戦力外過ぎるだろ」

「運動神経さえあれば何とかなるかもだぞ。君仁中学でテニスやってたんだろ? モテたくて。……って、浅間がいたから意味ないか」

「そんな不純な理由でスポーツ始める人間はお前くらいだ」

 日向は教室の時計をチラ見すると、机から立って頭をかく。もうすぐ始業の時間だった。

 教室のあちこちで起こっていた喧騒も収まりつつある。会話しているにしても、一限目は何だとか、教科書忘れただとか、事務的な言葉ばかりが飛び交っている。

「いや、そうでもねえぜ? 広崎(ひろさき)先輩なんか、ジムのコーチの娘さんと付き合いたくってボクシング始めたらしい。それで全国大会まで行ったんだぜ。すげくね?」

「広崎って……あのゴツい先輩か? ボクシング止めて不良になったっていう噂の。」

「ああ、確か傷害事件起こして止めちまったらしいな。でも根は優しい人だぜ。俺が保証する。最近よく遊びに誘ってくれるしな。」

「そんな危険人物と付き合いあるのか」

 呆れて息を吐くと、チャイムが鳴り響いた。「じゃあな」と言い後ろの席に向かう日向を目で追ってから、ようやく座る。

 窓際の席。

春一番か、窓から強風が吹き付けてくる。それを厭に思い閉める。

 直後に、横から声。

「何で閉めんのよ! あっついでしょ!」

 隣の席には、声の発信源の女子。

眉を潜め、貧乏揺すりをしている。机を巻き込んでガタガタ煩い。そんなにあからさまにムカつかないで欲しい。

「そんなに暑いか? まだ春だぞ、岩永(いわなが)さんよ」

「アタシが暑いって言ったら暑いのよ! いちいち口答えしたら承知しないわよ!」

「お前声でかいっ。もうすぐ先生来ちまうぞ」

 指を口元で立てつつ、そっと窓を開ける。あまりにガミガミと五月蝿くて、クラス中の視線がどっと集まってしまった。梅子を除いて。

 岩永和泉(いわながいずみ)

 ショートカットの彼女は、いつも不機嫌そうに顔を歪めている。その口元から顎にかけては名刺くらいの大きさの絆創膏が貼られている。これは一時的なものではない。現に僕が初めて会ってから一度も顎の絆創膏を剥がした彼女の顔を見たことがない。

 舌打ちをされ、そっぽを向かれる。

日向が遠くから、「おー浮気かー、君仁」と僕を冷やかす。

 無視しておいたが、クラスメイトの連中の反応は様々だ。「えっ、日高と浅間って付き合ってんの?」「いや、もう半同棲らしいぜ」と勝手に誤った情報を広める奴もいれば、「死ね」と単刀直入に誹謗してくる奴もいる。

「なに見てんのよ」

「いや、何でもない」

 しかし当人の反応は薄い。

 岩永越しに、廊下側の梅子を見ても、ただ無表情で座っているだけ。黒板上の時計を見据えてるから、一限目の担当教師が遅れた時間を計ってでもいるのだろう。

 また今日も、退屈な授業が始まる。

先生が出来る限り遅れてくるのを願いつつ、教科書の角で机を叩く。


[*]

 昼休み。

 四限目の終業を聞き慣れたチャイムの音が知らせると、途端に教師は授業を切り上げ、そそくさと教室を後にします。そうして、いつも通りのお昼が始まるのです。

 授業中とは違い、教室は心地好い喧騒と『寝息』に包まれています。直前の倫理の授業が余りに起伏のない、盛り上がりのかける内容だったのが一因でしょう。

 いまだに私には昼に睡眠を摂る理由が理解できません。夜に寝ておけば、質も良く合理的なハズですから、夜起きて昼に寝るというのは、無駄の極みです。ですが、殿下が『気にするな』とおっしゃっていましたので、それを私は真理として把握しています。

 とあるクラスメイト曰く、暖かな春先の陽気は、高校生にとって最大の敵であるそうです。

 不快指数の低い気候が人類、それも若人にとって脅威というのは、些か矛盾で納得のいかないことです。しかし睡魔に襲われているその実例を見ると、やはり正しいようでもあります。

 矛盾だらけの光景。

 効率を求め文明を築いた人間自身が、なんて能率の悪い生活を営んでいるのか。今、私を悩ます最大の疑問です。

 ふと時計を見ると、既に長針の角度が見るからに変わっていました。危ないところでした。思索に耽って、少ないランチタイムを無下に過ごす訳にはいきません。お手製の弁当を食べるとしましょう。

小梅(こうめ)ちゃん! 抜け駆けは禁止でありますよっ」

 しかし。

 殿下が作ってくださった弁当――もとい冷凍食品の詰め合わせ――に箸をのばそうとした途端、指差され咎められます。

 その声だけで、仁王立ちするツインテールな彼女の姿が容易に想像されます。念のため視線をあげると、思い描いた通り、背の低いツインテール頭が騒いでいました。

「このベストフレンドなタマちゃんを差し置いてランチとは、愚の骨頂なりっ。折角のお隣りなんだから、合体して一緒に食べるのですっ!」

 自らを『タマちゃん』と呼称する彼女は、隣の机を私のものとくっつけ「ミッションクリアであります!」と敬礼をしています。

ぴょんぴょんと小刻みに跳ねた後、ドスンと椅子の上に体を落としました。

 奇妙な行為を繰り返す珠ちゃんですが、教室にいる誰もがあまり気にしていません。もう慣れてしまっているのでしょう。殿下曰く、『そういうキャラだからな』。

「今日も小梅ちゃんは、ジンくんの愛妻弁当なりか? アツアツですのう。ニヤニヤ」

「珠ちゃん」

 豊田珠子(とよだたまこ)

 常に元気いっぱいのハイテンションガールの珠ちゃんは、破天荒をそっくり絵に表したような女の子です。無駄な動きが多い、もしくは無駄な動きしかしない彼女は、私の隣の席のクラスメイトです。

日高君仁(ひだかきみひと)は、社会的にも生物的にも男性ですので、『愛妻』の表情は不適格かと思われます。そしてちなみに言っておきますが、私たちは決してそのような仲ではありません。」

「なんだって! じゃあ一体どんな関係が……。ハッ! も、もしかして、ジンくんはコッチだったりしちゃうなりか!? もしくはアッチだったり!? そして綱渡り~!!」

「『コッチ』……?」

 珠ちゃんは手の平を反らして、口元を隠すように頬に当てることを左右で繰り返し、顔を赤らめています。イヤイヤという風に、手で頬を抱えて首を左右に振ると、ツインテールがぶんぶんと回りました。

 『コッチ』とは、何のことでしょうか? 

珠ちゃんが赤面してる様子から察するに、隠語か俗語の類でしょうか。隠語や俗語が多くて困ります。あとで殿下に聞いてみましょう。

「ワタシも混ぜて貰っていい? 小梅」

 珠ちゃんがお箸で剣の舞だという謎のダンスを始めだします。

正直どう対応すべきか未熟者の私には分からず、ただ眺めている最中に、また一人の女生徒に肩を叩かれました。

「今日も無駄にテンション高いね、珠子は。毎日が楽しそうで良いなぁ。」

「何を言うか大伴(おおとも)大佐っ。珠ちゃんは、無駄なことは一切しないパーフェクトキューティーガールなのでありますぞ」

「お、大佐。昨日より昇格してるじゃん。」

 彼女の席は遠く最前列にありますので、椅子だけ持って私たちと輪を作ります。

 黒い手提げに入れたランチボックスを取り出し、蓋を開けます。

「おぉっ! 今日も麻婆茄子が入っているなりっ。タマちゃんに御馳走する為に入れてくれたのですねっ。」

「手を伸ばさないの。単に得意だから入れてるんだよ。」

千草(ちぐさ)さんは自分で作っているのですか?」

「まぁね。お蔭様で料理も手慣れてきたよ。ほら、ひとつあげるから突くのやめる」

 大伴千草(おおともちぐさ)

 背は高く、私や珠ちゃんより頭一つ秀でています。姐さん気質の、面倒見のいい人です。同級生から相談を受けたり、雑用を進んで引き受けたりと、みなに頼られる存在であります。

 葦原高校の中で最も忙しいといわれる、バスケ部の司令塔の役割を担っているとのことです。ですから、人を統べる能力に長けているのかもしれません。

 今もフェンシングのように箸を突き出し、おかずを狙う珠ちゃんを冷静にあしらいました。

「小梅も食べる?」

「いえ、私は」

 自分の分で必要なエネルギーは摂取できる打算がありましたので断りましたが、千草さんのそれはカラフルで、栄養価も高そうです。

 私は自分の弁当を見て、改善の必要性を実感します。

……殿下にはもっとお料理を勉強して貰わねば。

「およよ。そういえば、いずみちゃんが居ないであります」

「自分の席で寝てるよ。倫理の時間から爆睡中」

「いえ、その前の数学から眠りに堕ちています」

 いずみさんは机に突伏し、二時間近く微動だにしていません。その向こうで殿下と日向くんが騒がしくしていてもお構いなしな様子です。

「そんな前から……。よく寝れるね、みんな。ワタシは昼眠れないんだよねー」

「私には意味がわかりません」

「あ、起きたなりよっ」

 珠ちゃんが手を振っているのを見て視線を遣ると、いずみさんはムクリと起き顔をあげます。

 不機嫌そうに顔をしかめ、頭をガシガシと掻いていました。

ややあって、珠ちゃんのラブコールに気付いたようでビニール袋を持ってやってきます。

「今日もコンビニ?」

「何よ、悪い? 美味しいからいいのよ、別に」

「日高くんも同じことをおっしゃいました。少なくとも栄養素的には評価出来ません」

「栄養とか健康とか、アタシには関係ないわ。ほらアンタも食べるでしょ、メロンパン」

「貰ったあ!」

 一口サイズで六つ入りのプチメロンパンで珠ちゃんを手なずけると、自らはサンドイッチをかじります。まだ寝ぼけ眼です。この調子では、食後に再び眠りに落ちる事でしょう。

 珠ちゃんに、千草さんに、いずみさん。

今日もいつもどおりのお昼を過ごせそうです。

「今日さ、帰りにケーキ食べいかない?」

「珍しいわね、千草から誘ってくるなんて。部活は?」

「珍しく休み。折角だから、この前開店したカフェ行きたいなー、って思って。なんか予定ある?」

「アタシはないわよ」

「タマちゃんもないのであります」

「小梅は?」

「すみません。私は予定があります。」

 お弁当をあらかた食べ終わった後は、たわいもない話に花が咲きます。

 みんなで遊びに行く展開でしたが、私は午後『ある人』に呼ばれているので、やむなくお断りしました。

「あ、もしかして日高とデート?」

「なんですって?」

「いえ、そんなものではないです。とある女の人に呼ばれているだけで」

「小梅ちゃんにはそういう趣味があるなりかっ。はうっ! 明かされる衝撃真実!」

「『そういう趣味』……?」

「珠子が考えてるようなことは、全くないと思うけど……」

 また珠ちゃんの理解不能な発言に困惑しつつ、穏和な時間が流れていきます。

 

[*]

 放課後。その帰途。

 『あいつ』に呼ばれていた僕たちは――実は忘れていたのだが――昨日電話で約束した場所へと向かっていた。

 閑静な住宅街。

 およそ二十年前に住宅地開拓の名目で埋め立てられた田園地帯一帯は、もはやその面影を残していない。

 所狭しと二階建ての一軒家が立ち並び、申し訳程度の幅の小道が張り巡らされている。高い両脇のブロック塀が延々と続いているのを見ると、迷宮の中をさ迷ってるみたいだ。

 今や思惑通りすっかり住宅街と化しているが、そのなかにも異端児的な存在が残っている。

 住宅が建ち並ぶより遥か前からある建物。

それが大垣(おおがき)神社であり、僕らの目的地だった。

「見えてきたな」

「何がでしょうか、殿下?」

「いや、神社の鳥居だよ。遠くに見えるだろ。」

「私には到底見えません。……視力だけは秀逸ですね、殿下。」

「視力『だけ』って何だよ。お前はテレビ見すぎなんだよ」

 路地は長い一本道で、遠方にうっすらと鳥居の姿が見えた。それが大垣神社の入口だ。

 梅子は見えていないようだったが、僕には色褪せた弁柄色を確かに見ることが出来た。

「げっ……」

「? どうしましたか、殿下」

 そして同時に。

 鳥居にもたれ掛かり、大きく欠伸する『あいつ』の姿を見た。

 ……いや、見てしまった。『あいつ』が僕らの方を見て、ニヤリとほくそ笑んだ顔を。

(あかり)だ」

「紅さん……ですか」

 紅という名の『あいつ』は満面の笑みを浮かべつつ、僕達の方へ歩みだす。その笑顔には明らかに不純な感情が見て取れたのだが、逃げる理由も通路もない。よって間もなく、道で顔を合わせる。

「やーやー、これはこれは。お馴染みのカップルではないですカ」

 ……最悪だ。

 図らずも顔が引き攣った。嫌いなんだ。僕はこいつが。

 身長は165くらいだろう。僕と同じ位で、キリリとした目元からボーイッシュな印象がある。一見スカートをはいているのに違和感を覚えるほどだ。鼻筋の通った顔に、二重の目が愛敬の念を持たせる。

でも、人は見た目によらない。

「今日も小梅は可愛いにゃー」

「……」

「触んな!」

 ふいに彼女は梅子を抱きしめた。梅子はされるがままに、頭をくしゃくしゃに撫でられている。もしくは撫で回されている。

 不意なその行為に、迷惑極まりない。でも無表情の梅子が少し嬉しそうに見えるのは思い違いか。

「なんでさ? ヒダカ君もしかして妬いちゃた?」

「違う! お前のトコの爺さんに会いに行く途中なんだよ。この同性愛者が。」

「おっとヒダカ君。先輩にそれはないなぁ……。それにこれはそんな性的なものじゃないんだよ。」

「……じゃあ何なんだよ」

「愛。」

「なおさら嫌だわ!」

「何を熱くなっているのですか?」

「お前らのせいだよ!」

 全く何なんだ、コイツらは。

 構ってられん。

 僕は『こいつ』――海部紅(かいぶあかり)と梅子を置き去りにして、先に神社の内裏へ向かった。靴の先を定めて徒する。

 さっさと話を聞いて帰ろう。ついでに神主に文句言ってやる。あんたの孫が困り者だと。

「あ、ちょっと待ってよヒダカ君」

 ひとり抜け駆けして先に進むと、紅が声の調子を真面目にして僕を制止する。

「今日おじいちゃん居ないよ」

「え、いないの?」

 今日、大垣神社を訪ねるに至ったのは、この海部紅の祖父に呼ばれたからだ。なのに本人不在とはどういうことか。

「おじいちゃんさ、何か急に用事が出来ちゃったみたいでさ。明日にしてくれって」

「急に用事?」

「うん。てかさー、ヒダカ君に何度も電話してんのに、一度も出ないってどーゆーこと?」

 聞いて、携帯を取り出すと、画面には『着信あり3件』の文字。授業中に鳴らないように、サイレントマナーにしていたせいで気付かなかった。悪い気付かなかった、と謝る。

「全く酷い男だにゃー、ヒダカ君は。おんにゃの子からの電話を再三無視するなんて。こんな男に小梅ちゃんは任せられないぞ」

 お前は梅子の何なんだ。思わず口走るが、紅は手を緩めない。

後ろから梅子を抱きしめている。

「いやぁ。もうチューしたいわぁ。」

「頬であれば構いません」

「いいのかよ!」

 紅の道化ぶりはともかく、それを受け入れる梅子も梅子だ。紅は音を立てて唇を当て、またベタベタと抱き着く。やはり少しだけ梅子が嬉しそうだ。

「もういい。用がないなら帰るぞ。ほら、梅子もいくぞ。」

「あれ、もう帰っちゃうの? 寂しいにゃあ……」

 名残惜しそうに口を尖らす。

だからお前は梅子の何なんだ。ややあって、ようやく離れる。

「じゃあな。明日放課後に来ればいいか?」

「うん。……って、明日土曜だから学校ないんじゃないの?」

「特進科ナメるな。土曜も毎週課外なんだよ。」

「うえ、面倒臭そ」

 紅は一つ年上で、近所の私立高校に通っている。

 こういっちゃあ悪いが、地元じゃあスポーツをするために進学する学校で、勉強に関しては最低クラス。帰宅部の紅は馬鹿という他ない。

誇れるのはこの性格の独創性だけ。いや、この道化ぶりは単なる短所だが。

「そんじゃあいいや、ばいばいヒダカ君。たまには小梅を抱きしめてやんなよ。」

「いつも一言余計だな、お前は」

「余計じゃないさ」

 苦笑すると、紅はスッと僕の懐に入ってくる。怯んでる合間に、去り際に紅は耳元で小さく囁く。

 本当に小さい呟きでも、僕の耳は正確にその言葉を聞いた。


 「この子にはまだ必要なんだよ、母親と、父親の代わりが」


 ここぞとばかりに強いつむじ風が町を駆け抜ける。太陽が、急に眩しくなった気がした。

 紋白蝶が僕たちの周りを舞うと、梅子はそれを目で追っていた。


[*]

 夜。

 いつものように買い物に行って食事を作り、それを食べてから風呂に入る。それが終われば後はこれと言って何もすることはない。

 毎日、夜は思い思いに過ごしている。勉強する気がないのは僕も梅子も一緒だ。さて、何をしようか。

 丁度近くに読みかけの本があったから、ソファーに座って昨日買ったそれを開く。

 やがて本の世界に入りかけた頃、自分の部屋で風呂に入ってきたらしい梅子が、勝手に入ってくる。寝巻き姿だ。無言のままテレビをつけ、床に正座した。

「お前な、一応ここは僕の家だぞ」

「黙って下さい。テレビの音が聞こえません。」

「はいはい……」

 音量を大きくされた。

 どうやら僕に勘当権はないらしい。リビングにあるもう一つの照明をつけ、もう一度文字に視線を戻した。

「……殿下」

 しかしそれもつかの間、CMになった途端に梅子が冷蔵庫に向かう。冷凍室を開ける音がして、直後に呼ばれた。

 いつもどおりの起伏のない言葉だけど、何となく鋭い。

「なんだ?」

「『あいすきゃんでー』がありません」

 『あいすきゃんでー』とは、言葉通り『アイスキャンディー』のこと。別にDの発音が出来ない訳じゃない。けれど何故か梅子は、アイスキャンディーをそう呼ぶ。

 そのストックが無くなったらしい。

「そうか。残念だったな」

「……あいすきゃんでーがありません、殿下」

 アイスキャンディーは梅子の好物だ。

 毎日入浴後に一本食べると決めているようで、必ずストックしているんだけど(僕が)、前買ったのが尽きたのを忘れていた。

「いや、聞こえたよ?」

「あいすきゃんでーがありません、殿下」

「だから聞こえたって――」

「あいすきゃんでーがありません、殿下」

「……」

 そんなわけで、急遽コンビニまで行くことになった。


 マンションの近くには、二軒のコンビニがある。双方共にエントランスから出た反対側の県道にあるけど、どっちも距離は同じくらい。面倒なのはどっちも信号を渡らねばならないという点。

 だからどっちに行くか迷ったが、一方のコンビニの前では(たむろ)しているチンピラがいた。もちろん避けていない方へ決めた。

 勢いのまま出て来たが、よく考えたら二人とも寝巻きのままだ。

でも一見部屋着と変わらないから別にいっか。

「いらっしゃいませー」

 やる気のない店員に迎えられると即座にアイス売場へ。

 すぐに買って帰れると思いきや、梅子はケースの前でソーダ味か、グレープ味かで右往左往している。

 ソーダ味を手にとっては「やっぱり止めます」。グレープ味を手にとっては「やっぱり止めます」。

 意外と優柔不断な奴だな。

「両方買うことにします」

「なら最初からそうしろ! あれから二十分経ったわ!」

 結局、迷いに迷ってそれだ。

 レジの店員に不可解な目でみられつつ、会計を済ます。

 僕もレジ横にあったみたらし団子を買った。買うつもり無かったのに。これが噂のコンビニの術中にハマるって奴か。

「ありがとうございましたー」

 そしてお釣りを手にして財布にしまう。

 『問題』は、ここからだった。

 僕達は揃ってコンビニを出た。そこまではいい。風が多少寒くっても構わない。問題は、入口に若い男二人が(たむろ)し、通りづらくなっていたこと。迷っている合間に陣取ったらしい。

 何やら恋愛話に花咲いている。

「やっぱりよー。ジム止めたくないんだよオレ。」

「やっぱりあれですか? コーチの娘さんのこと諦めきれないからでしょ? そんなにキレイな人だったんすか?」

「まぁな。芸能人で言ったら佐々木希(ささきのぞみ)って感じだな。付き合いてーなー。」

「マジすか? 佐々木希? そんなキレイな人と先輩が付き合えたら逆になんか怖いっすよ。ホラーですよ、ホラー。サダコ並の傑作ホラーっすよ!」

「お前ってサラっと失礼なこと言うよな……」

 もっといえば、その内の一方が知己の仲であり、話し掛けられたことから、問題は始まった。

「あれっ? 君仁じゃん。それに浅間も。何だデートの帰りか? いいよなぁ帰宅部は。」

 一瞬、誰かと思ったが、『帰宅部』のワードから推察できた。

 遠山日向。

 クラスメイトの茶髪球児だ。入口で(たむろ)してたらしい。

「そんなんじゃねぇよ……って、そちらは?」

 お前こそ何でこんなとこでタムロしてんだよ。そう切り返そうとして見ると、案の定、日向が地べたに座ってニヤニヤしていた。とある男と一緒に。

 男の第一印象は、ゴリラ。

とにかくデカくて、毛深い。目つきがとにかく悪くて、何故か睨んできてるから、まともに目を合わせられない。

「ああ、朝話した広崎先輩だよ。見たことなかったんだっけ」

「こ、こちらが、例の……」

 日向の横に、怠そうに座る巨体。K-1の選手並にデカい身体に、内心ビビる。

 瞬時に思った。

『この人とは、深く関わっちゃいけない』

 何とか当たり障りなく対応して、この場から早急に立ち去らなければ。

「コイツらは……?」

「同じクラスメイトっすよ。学年じゃあ有名なカップルっす。」

「へぇ……カップルねぇ」

「は、はは」

 余計なことを口走る日向のせいで、物凄い剣幕で睨まれる。ヤバいっす。僕完全に冷や汗出てます。

 とりあえず落ち着こう。

 相手は――今は止めたとはいえ――全国大会レベルのボクサーだ。調子にのって一発貰えば軽傷じゃ済まない。丁度アイス買ったから、これ口実にしよう。

「じゃあ、僕ら帰るわ。梅子がアイス買ったからな。」

「一緒に帰って喰うのか? これがホントの甘い時間って奴だな。さすが帰宅部。」

「ひゅ、日向っ。余計なことを言うな」

 広崎先輩がした舌打ちは、決して僕に向けられたものじゃないと思うことにした。てか絶対そうだ。そうじゃないと恐すぎる。

「す、すみません広崎先輩。僕らこれで帰るので通して下さい」

 空気の読めぬ日向と一緒に居ても、立場は悪くなるばかりだ。そう考え、軽く会釈して帰ろうとした、

その時。

「……日高くん」

 大人しくしてくれれば良いのに、もうひとりの空気読めない人間が、その口を開いた。『日高くん』と呼んだのは、人前では苗字で呼ぶように、普段から言い付けてあるから。

「なぜ日高くんが謝るのですか? 悪いのは私有地に我が物顔で座り込み、営業を妨害している、このチンピラの方ですよ?」

「あ?」

「聞こえませんでしたか? 通行の邪魔だから直ちに立ち去って下さいと言ったのです。貴方がたのような人を社会のゴミと呼ぶのです。いえ、単なるゴミより遥かに邪魔物ですね。」

「バカっ」

 案の定、広崎先輩は眉間にこれでもかとシワを寄せる。その様子に、僕の心臓は急加速。心の中の審判員が、全力でアウトのジャッジを告げる。

 流石の日向も苦笑いをしていた。どうやら付き合いのある日向から見ても、今の発言はアウトだったらしい。

「おいおい威勢のいいチビだな。オレを誰だと思ってやがる?」

「チビとは何たる無礼か。貴方のような下衆(げす)にチビ呼ばわりされる筋合いはありません。」

「ほう、ゲスか……」

 梅子が悪びれる様子も無しに言い放つと、広崎先輩がむくりと立ち上がる。その顔は笑ってるようで笑ってはいない。

 こんなときに限って県道を絶え間無く走っていた車の姿は消え、コンビニの辺りは鎮まり返っていまう。

 その緊張に耐え切れなくなったのか、日向は、

「んじゃ俺、部活終わったばっかで疲れてるから帰るわ」

「おい日向っ」そそくさと帰っていってしまう。足跡だけが妙に響いた。

 僕も帰りたい。

全力で帰りたい。

そんな希望とは裏腹に、会話はエスカレートする一方だ。

「敬語の癖に口の聞き方がなってない野郎だぜ。親の顔が見てみてえなぁ……。」

「す、すいませんすいません。コイツ常識ないんです! すいません!」

「何を言いますか日高くん。常識がないのは、このゲスの方ですよ。私は母から最高級の教育受けています。」

「へぇ、とことん生意気じゃねぇの。じゃあテメェの母親が無能だったんだな。自分の娘の躾も満足に出来ないんだからな」

 先輩がポキポキと指を鳴らす。

それと同時に、どこかで何かが切れる音がした。堪忍袋だ。

「あ……」

 コンビニに入ろうとした一人の中年男性がその様子に気付き、静かに立ち去って行く。

 ここで勘違いしてはいけないのは、この堪忍袋は広崎先輩のものではないということ。俗にいうところの、堪忍袋の緒が切れたのは、『梅子の方』だ。起爆剤は間違いなく『テメェの母親が無能だったんだな。自分の娘の躾も満足に出来ないんだから』。

 僕は身体を膠着させてしまう。

 梅子は、死んだ母親を馬鹿にされることを最も不服としている。そしてその時、最も感情を露呈する。

やばい。

「いま……誹謗しましたね、私の母を……」

 普段全く凹凸のない口調が、明らかに重くなった。

 「だから何だよ? このオレ様が何言ったって構わないだろ? どうせオレに口答えできるような強い奴なんざ居ねえんだ。」

 雲隠れしていた月が顔を出す。光が零れだし、梅子の顔を照らすと、その瞳が僅かに開いたのに気付いた。

 急に、梅子がこう言った。

浅間梅子(あさまうめこ)です。貴方は?」

「あん?」

「名を名乗れと言っています。証明してみせましょう。貴方より強い人間が、今ここに居るということを。」

 つまりそれは『かかってこい。ゲスゴリラ。』という挑発だった。

「どうしましたか? もしや自分の名さえ言えない低脳でしたか。さすがゲス」

 まずい。

 広崎先輩と梅子がまともにやり合ったら、間違いなくまずいことになる。怪我だけじゃすまない。殺されちまう。

 何とか制止しようと言葉を探すが、口に出す前に、広崎先輩の我慢が限界を超えた。

「佐々木サダコだよっ!! このチビが!」

 舌打ちをし、明らかな偽名を叫んで勢いよく向かってきた。

 まずい。

 完全に止められる段階ではなくなってしまった。本当にこのままでは死んでしまう。

――広崎先輩が。

「うらぁ!」

 広崎先輩が、右手を突き出す。大男が、小さな少女に繰り出すストレート。もうかわしきれる距離じゃない。


 あえなく、鈍い激突音が辺りに(こだま)した。


「……っつ」

 風が通り抜けた後。

 僕は厭に思って頑なに閉じた目を開ける。

すると案の定、頭を抱えて悶絶する『広崎先輩の姿』が、そこにはあった。

「ぐあっ! いて……ぇ!」

「やっぱり……」

 アスファルトに顔を打ち付けたようで、眉の上から血を流し、顔を抑えて転げている。

 そして梅子はと言うと、やはり、済ました顔で広崎先輩を見下している。その身体には、かすり傷ひとつない。

 唯一変わっているのは、その『髪の色』。梅子の髪が、緑色に変色しているところだ。

「哀れですね佐々木サダコ。散々馬鹿にした私に、無様な醜態を晒しているのですから。」

 広崎先輩は立ち上がる。けれども、顔面を打ち付けた衝撃は相当だったようで、よろけて直立できそうにない。

「ぐっ! テメェ、何したっ!」

 僕はその瞬間を見ていない。でも、だいたい推察できた。

 地面から植物の『ツタ』が生えてきて、広崎先輩の手足に絡まって身体の自由を奪った。緑色の(つた)がにょきにょきと伸び、意志を持ったように身体に巻き付いた。そして勢いそのまま、頭からコンクリートへ落とされたのだ。

 そしてそのツタを操っていたのは、紛れもない――梅子だ。まだアスファルトの隙間から、緑のツタが垣間見える。

どうやらまだ続ける覚悟らしい。

「おいっ梅子! それ以上はダメだ! 先輩死んじまうぞ!」

 手をとって訴えるが、梅子はどこまでも冷たい表情であり続ける。

「それの何が問題なのでしょうか。佐々木サダコは私の母を愚弄しました。その代償は死にも値します。」

「死……」

 一度は立ち上がったものの、広崎先輩は再び腰を落として座り込む。あれだけのダメージがあっては当然だ。もしかしたら、『死』という言葉に反応してのことかもしれない。

 悪寒が走った。

表情の見えない梅子だが、この口調は本気だ。

「梅子、これ以上はダメだ。」

 本当はあまり使いたくない言い回しだけど、致し方ない。

僕は梅子に向かって語気を強めた。

「これ以上、危害を加えるな梅子。これは、僕からの勅命だ。」


 『勅命』――それは、天皇もしくは、それに相当する殿上人による命令。

 言い換えるなら、殿下の僕からの梅子への命令だ。


 母親思いの梅子は、母親を馬鹿にされると我を忘れて怒りに操作されてしまう。しかし『勅命』の形式をとれば、どういう訳か必ず言うことを聞く。

「……」

 瞬きを一回すると、みるみるうちに髪の色が元に戻り、ツタも地面の中へ戻っていった。

 そうして服従の言葉を吐く。

「……承知しました、殿下」

 これでいい。

 広崎先輩は都合良く朦朧としているみたいだから、このままずらかろう。

「これ以上は何もしないで帰るぞ。いいな?」

「殿下の仰せとあらば、私は全てを受け入れます」

 広崎先輩の怪我の具合を聞いたら「致命傷ではありません。軽い脳震盪(のうしんとう)の類ですので、そのうち治ります。」とのことだから、心配いらないだろう。

 再び月が雲に隠れ、一層暗くなった夜道を歩きだす。まるで見計らったかのように、県道に車の音が戻ってきた。


[*]

「なんであんなことをした! 一目見て分かっただろ! あの人はアンタッチャブルなの! 関わっちゃいけない人なの!」

 夜。コンビニからの帰宅後。

 何やら殿下がゴチャゴチャと煩くしていますが、私は気にしないことにします。

 今はとにかく、折角外出までして手にしたあいすきゃんでーを味わうのみです。

「どーすんだよ! あの人同じ学校の先輩だぞ。廊下で擦れ違ったら、殺されるぞ、僕が! お前は『力』があるからいいけど、ただの一般人の僕はボコボコだ! 殿下の僕がボコボコだっ。明日から学校が恐怖だよ!」

 何やら大きなジェスチャーと声で、私のテレビ鑑賞を妨害してきます。でも無視すると決めたので極力音量をあげてやりました。もはや近所迷惑なほどの大音量ですが、このマンションの四階には私達以外、入居していないので安心です。

「そーだよ僕はな、自分が一番大好きなんだよ! 自分さえ良ければ体裁なんかどーだっていいんだよ!」

 いちいち煩い人ですね。

 今更言われなくても、殿下のことは良く存じ上げています。

 頭を抱えて悶絶する姿は、みっともない限りです。何故そんなに気にする必要がありましょうか。

 今まで通り堂々として、危害を加えるようでしたら、佐々木サダコを殺してしまえばよい話です。殿下のご勅命がなければ、先ほど亡き者にするつもりでしたので、一切問題など無いでしょう。

 殿下は太鼓を持ちすぎなのです。

「物騒なんだよお前は! 僕がいないと人殺しに成り下がるのも時間の問題だ!」

「ですから殿下が側に居てくだされば、何の問題もありません。はい、どうぞ。」

「なんだコレは」

「あいすきゃんでーです」

「食べかけじゃねぇか!」

 さすがに鬱陶しくなってきました。そこで食べかけのソーダ味のあいすきゃんでーを殿下に差し上げます。

 文句を言いながらも殿下は、結局黙ってそれを食べています。これでやっとテレビの音がよく聞こえます。私はグレープ味の方をいただくとしましょう。

「落ち着きましたか?」

「まぁ、だいたい」

 思惑通り、落ち着きを取り戻したようです。ソファーに座り、仏頂面でテレビ画面を見ています。

 お笑い芸人によるトーク番組。画面の中からは笑い声が溢れていますが、私はなかなかそれに共感出来ません。

 トークの中には極めて俗的な表現が多く、私にはちんぷんかんぷんなのです。辞書を引いても分からない、独特の日本語表現は難しくて仕方ありません。

 今も、分からない表現がひとつ。

「……殿下」

「なんだ?」

 私がよくテレビを鑑賞するようになったのは、殿下の奨めがあったからです。

 『お前はテレビでも見て、少しでも常識を身につけろ』とのことでした。

「今、テレビで芸人が『抱く』という言葉を用いました」

「ああ」

 また『分からないことがあったら、まず第一に僕に聞け』とおっしゃっていましたので、遠慮する必要もありません。

「『抱く』という他動詞は、辞書によると、『腕を回して,しっかりと胸に押し当てるようにして持つこと』とあります。しかし前後の文脈から推察するに、この意味とは合致しません。どういうことでしょうか?」

「……」

 しかし殿下は暫く黙って、ただ一言。

「俗的な意味があるんだよ」

 いつもそう言って、肝心の意味を教えてくださらないのです。

 かといって、千草さんや珠ちゃんに尋ねることも禁止されています。『分からないことは、まず僕に聞け』と言うのです。

「そういえば今日、珠ちゃんが頬に手を当てながら『こっち』という言葉を使っていました。」

「……それも俗的な意味だ」

 やっぱり『俗的な意味』。

 殿下はいつも「いつか意味を教えてやる」と言います。しかし、その『いつか』がもう数年に渡り先延ばしになっているのを、私は知っています。

「僕もう寝るわ。今日は疲れたしな。」

「あれだけ騒げば当然です」

「悪かったな……」

 逃げるようにして、殿下はベッドの方へ向かって行きました。歯を磨いてないのに気付いたのか、洗面所に慌てて引き返しています。

 俗的な意味を教えるつもりがないのは、見え見えです。

 まだ時刻はゴールデンタイムです。私はもう少しテレビを鑑賞してから、就寝するとしましょう。

 明日も学校ですから、遅くならぬよう気をつけなければ。

 夜が、深まっていきます。

  


[*]

 朝。昼休み。放課後。夜。今日もいつものように一日が過ぎようとしています。当然ながら、殿下も変わらぬ一日だったようです。

 殿下。

日高君仁(ひだかきみひと)

 愛称は『日高、日高くん、ヒダカ君、君仁、ジンくん、そして殿下。』などなど。やたらと名前の多い男です。優柔不断で、付和雷同する典型的な日本人な殿下であります。

 母が言っていました。

 日高君仁は、いずれこの国を治める元首となる人間であると。いわば殿下は今、国家元首となる前段階であるのだと。

 俄かには信じられないものがあります。

しかし、長い間殿下を見て、それは徐々に確信に変わりつつあります。

 私は、殿下をお慕い申し上げています。ですから、私は殿下に忠誠を誓っているのです。


[*]

 朝。学校。放課後。夜。今日もいつものように一日が終わろうとしている。当たり前だが、梅子もまぁ変わらぬ一日を過ごしていた。

 梅子。

 浅間梅子(あさまうめこ)

 愛称は『浅間、梅子、小梅、小梅ちゃん』など、体の小ささを象徴するものの多いヤツだ。

 実はサイボーグではないかと疑ってしまうほど、機械的でロジックな梅子。

 いつからか、彼女は僕を殿下と呼ぶようになった。

 そして同時に、梅子は変わってしまった。幼なじみで、小さい頃からよく知っているからこそ、その豹変ぶりがよく分かった。高校生になった今、尚更酷くなった気がする。

 梅子は、ただの人間じゃあ無くなった。だから僕は、梅子を支配して、制御しなくてはならない。



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