第4話 悪意スコア④
夕方の駒込。
駅前の商店街を抜けると、空気が変わった。
六義園の黒塀と高い樹々が影を落とし、まだ蝉の声が残っているのに、すでに夜の気配が漂っていた。
――本当に、ついてきちゃった。
巣鴨から燈を尾行して、こんなところまで来てしまった。
これじゃ僕も、ストーカーと何も変わらないじゃないか。
彼女を守るため?
それともただ、罪滅ぼしの真似事をしているだけ?
『おい。ボサッとするな』
イヤホンから、ヤマトの声がした。
本体のカラスは、燈を見失うまいと、夕空をなぞるように旋回していた。
燈との距離は、十数メートルほど。
これ以上近づけば、振り返られた瞬間に目が合ってしまう。
――大丈夫。ヤマトがいれば、見失うことはない。
坂道を上るたび、街のざわめきが遠のいていく。
路地を覆う緑が夕闇を深め、街灯の明かりがぽつり、ぽつりと灯り始めていた。
僕はその影に紛れるように、歩幅を調整する。
角を曲がるときは、一呼吸遅らせて。信号を渡るときは、人の群れに紛れて。
まるで、昔やった「調査動画」の撮影のようだ。
あの時は胸が高鳴った。けれど今は違う。冷たい汗が首筋を伝い、心臓の音ばかりが大きく響いていた。
――何をやってるんだ、僕は。
背中を見失わないように目を凝らしながら、胸の内では自己嫌悪が膨らむ。
僕は、また同じ過ちを繰り返しているんじゃないか。
そう考えた瞬間、ポン、と電子音。
ポケットの中のスマホが震え、画面に浮かんだ通知が視界をさらった。
【悪意を検知しました 対象:不明】
……本当に来た。
昨日と同じ通知。
あの男だろうか?
でも、周囲にそれらしき人影はない。
『MALICEの、地図を見ろ』
促されるまま画面を開くと、燈を追う僕のさらに後方に、妖しく光る赤い点。
その点はゆらゆらと揺れながら、確実に距離を詰めてきていた。
『後ろを振り向くな。公園の茂みに隠れろ』
ヤマトの声が、低く命じた。
植え込みの影にしゃがむと、ブランコの鎖が風に揺れて、きしむ音が耳についた。
ブランコの鎖が、風に揺れてきしむ。
夕陽の赤が薄れ、空は群青色へと変わり始めていた。
『カメラを起動しろ。相手を画面に収めるだけでいい』
息を殺し、スマホを構える。
液晶に反射する夕焼けが眩しく、焦点が合わない。指先が汗で滑る。
――映った。
無表情で、鋭い目つきをした男。
ポロシャツの襟が少し乱れ、顔には焦りとも苛立ちともつかない影。
その瞬間、画面上に黒いウィンドウが浮かび上がる。
【モンスターネーム:グリーンアイ
悪意スコア:82(臨界)
悪意タグ:嫉妬 独占 歪愛】
息が止まった。
ただの通行人が、ゲームのモンスターのように「可視化」されている。
目の前にいるのは人間のはずなのに、数字ひとつで異形の存在に変わってしまった。
『よし、登録しろ。そうすれば、今後はあの野郎の位置情報を、距離無制限で取得できる』
ヤマトの指示に、震える指で画面をタップする。
男の頭上に、緑のマーカーが浮かび固定された。
地図上の赤点が明滅を繰り返し、徐々にこちらへ――いや、燈の方へ向かってくる。
「……どうしたらいいの、これ」
思わずつぶやく。
どうすればいい? 警察に通報? でも証拠はこのアプリだけ。
こんなものを信じるなんて、馬鹿げてる。
そう思おうとした瞬間――画面のマークが急に動きを変えた。
赤い点が立ち止まり、ぐるりと回転。
実際に男を見ると、たしかにあたりを見回している。
鋭い視線が、夜気を裂いて僕の方へ――
背中に冷たい汗が流れる。
男の眉が動き、次の瞬間、踵を返して早足で去っていった。
『気づかれたな』
イヤホン越しのヤマトの声に、心臓が跳ねた。
「どうして、僕を?」
『そりゃ、尾ける側も尾けられるリスクがあるってことだ。
悪意を追うってのは、そういうことだぜ』
息を飲み、胸を押さえる。
悪意を「見る」ということは、悪意に「見られる」ということ。
そんな言葉が、脳裏に浮かんだ。
そのとき――
「ねえ」
背後から、柔らかな声。
僕は、慌てて振り返る。
立っていたのは、夕波燈だった。
――しまった。
イヤホンの奥で、ヤマトが『おい』と低く呻く。
「こんなところで、何してるの? その制服、巣鴨翠雲だよね?」
瞳が、真っ直ぐこちらを射抜く。
近くで見ると、想像以上に整った顔立ちだ。夕闇に溶ける髪が風に揺れ、わずかに甘いシャンプーの匂いがした。
「あ、えっと……」
舌がもつれる。
言い訳を探しても、どれも言葉にならない。
彼女の家の近くの公園。
その茂みの影に隠れていた同じ学校の男子。
どう見たって――本物のストーカーだ。
「道に迷ってるの?」
首をかしげ、笑みを浮かべる。
優しい表情なのに、どこか探るような光を宿していた。
「ち、ちょっと地図を確認してただけです。すみません」
頭を下げ、逃げるように歩き出す。
背中に彼女の視線を感じながら、心臓の鼓動が耳の奥で暴れ続けた。
イヤホン越しに、ヤマトが低くつぶやく。
『……まずいな。もう「目」をつけられた』
その声は、風より冷たかった。




