第3話 悪意スコア③
放課後。
昇降口には、靴箱の扉が閉まる音や、部活へ向かう生徒たちの笑い声が混じり合っていた。
カーテンの隙間から差し込む夕陽が、床を細く照らしている。
僕は廊下の隅に立ち、鞄を肩にかけたまま、人の流れをぼんやりと眺めていた。
帰宅部の僕には、寄る場所も、待つ人もいない。
ただ、あのMALICEの通知音が、頭の奥でまだ鳴り続けている気がした。
ふと、視線の先に、夕波燈の後ろ姿が映った。
友人と笑い合いながら、軽やかに外へ向かう。
制服のブレザーを翻し、何かを振り払うような仕草。
その一つ一つが、光の中の人間の所作だった。
校庭で見たあの笑顔が、脳裏に焼きついている。
そして、フェンス越しに立っていた、「あの男」の影も。
胸の奥に、ざらりとした不安が広がる。
まさか、燈に関わってくるなんてこと……
その時だった。
『あの女の、後をつけろ』
「っ……!」
突然、ポケットから声が漏れた。
慌ててスマホを取り出すと、画面に例のアイコン――MALICEが浮かんでいる。
表示されている名前は、『RAVEN』。
――レイヴンって、カラスって意味だよね?
僕は、スマホに顔を近づける。
「もしかして、ヤマト?」
『よう、悠。昨日ぶりだな』
昇降口の庇に、一羽のカラスが留まっていた。
艶やかな黒い羽が、夕陽を反射して赤銅色に光る。
「レイヴンって、何?」
『オレのコードネームだ。オマエのJUSTICE::ECHOと同じだよ』
「このMALICEってアプリ、一体なんなの?」
『他人の悪意が見えるアプリだ』
鼓動が、早くなる。
さっきの、【悪意を検知しました】という通知。
あれは、偶然でも幻でもなかったということ?
「悪意が見えるって、そんなバカな……」
『オマエも見たはずだ。あの女をつけまわすストーカー野郎の悪意に、アプリが反応したのを』
「……勝手に決めつけないでよ」
声が、震えていた。
正義のためだと信じて、悪人たちを断罪した日々。喝采を浴びたのは束の間で、事実が覆った瞬間、僕はただの加害者になった。
無実の人を、悪者だと決めつけて。
取り返しのつかないことをしてしまった。
「ある人に『悪意がある』って、どこの誰が決められるの? もしそれが間違いだったとして、きみにその責任がとれるの?
僕はもう、二度と勝手な断罪はしない」
沈黙。
数秒後、ヤマトの声は落ち着いた低音で返ってきた。
『聞け。MALICEの判定は、ただの勘や思い込みじゃないぜ。
この世界は、人の悪意を『悪意スコア』で管理しているんだ』
「悪意スコア……?」
『スコアが平均で80を超えた人間は、犯罪への誘惑に耐え切れず、いずれ加害者になる覚悟を決めちまう。
オレの見立てじゃ、あのストーカー野郎もそろそろだ。近日中に行動を起こすぞ』
――情報が多すぎる。
わけがわからない――
悪意スコア? 人の悪意が、管理されている?
本当にそんなことで、誰かを悪人と決めつけていいの?
「……もしその話が事実だとして。僕にどうしろと言うの?
まさか、あの男の犯行を止めろって? なんで僕が……」
『忘れたのか? オマエたちのせいで、この街の悪意レベルは跳ね上がった。
無実の人間を吊し上げ、群衆に火を点けた――その余波はいまも残ってる』
胸の奥を針で刺されるような感覚に、息が詰まる。
『悪意っていうのはな、連鎖するんだ。窓ガラスが1枚割れていれば、もう1枚割ることへのためらいが薄れるように。
過去にオマエがバラまいた悪意の残滓が、今もこの街で、次の悪意を産み出している』
「そんなこと言われても……」
たしかに、僕は過去にひどいことをした。それを否定するつもりはない。
でも、それが今になっても、新たな悪人を産み出しているだなんて……
『オレは行くぜ。オマエも来い』
その声と同時に、庇のカラスが翼を広げた。
風を切る羽音が、耳の奥をざらつかせる。
向かう先では、燈が校門を出ようとしていた。
夕陽の光が彼女の髪に溶け、世界が一瞬、金色に染まる。
――きれいだ。
同時に、その光が今にも消えてしまいそうで、息が詰まった。
僕が撒いた悪意の残滓が、彼女を巻き込もうとしているのなら。
それを止めるのは、僕しかいないんじゃないだろうか?
考えがまとまらない。
でも、身体は勝手に動く。昇降口を抜け、夕暮れの風の中へ。
こうして、空を飛ぶカラスの黒い影を追って、僕は歩き出した。
もう一度、過去と向き合うために。




