第25話 帝都の影①
数日ぶりに、夢を見ない朝だった。
窓の外では、薄曇りの空の下を、通学途中の自転車がすれ違っていく。
目覚ましより少し早く目を覚ました僕は、寝ぼけた頭で、廊下のほうから聞こえる小さな雑音に気づいた。
――カタ……カタカタ。
古いキーボードの打鍵音だ。
まるで、時間が一時代前に巻き戻ったような、乾いた音。
自室を出ると、書斎にある古いPCデスクの前で、ひとりの男が座っていた。
灰色のスーツの背中。短く刈り込まれた黒髪。
その姿を見た瞬間、僕の眠気は完全に吹き飛んだ。
朝日総司郎。僕の父だ。
普段は警視庁の本庁に詰めていて、家に帰るのは週に一度あるかないか。
「……おはよう、父さん」
僕が声をかけると、父はわずかに肩を動かした。
だけど、こちらを見ようとはしない。画面の中の何かを凝視している。
古びたブラウン管モニタ。
二十年くらい前の旧型で、OSのサポートなんかとっくに終了しているはずだ。
「その古いマシン、まだ動くんだね」
軽口を叩いてみるけれど、返事はない。
やがて父は画面を消灯し、ゆっくりと立ち上がった。
冷えた空気のような沈黙が、部屋を満たす。
「飯はもうできてる」
それだけ言って、キッチンのほうへ向かった。
父の背中を尻目に、僕はモニタに目をやった。
――よっぽど大事な、ソフトやデータが入ってるのかな。
そんなことを思いながら、父の後に続いた。
◇ ◇ ◇
食卓には、焼き鮭と味噌汁、卵焼き。
母が生きていたころは、いつもこうだった気がする。もっとも、彼女が亡くなったのは僕が6歳のころで、ほとんど覚えてないけれど。
父は新聞を広げ、僕の正面に座る。
「学校には、行っているか?」
「……うん。ちゃんと行ってるよ」
「1年生だからといって、油断はするな。
高校生活など、一瞬だ。すぐに受験のシーズンになる。気を抜くなよ」
このやりとりも、もう何度目だろう。
もっと他にしたい話はないんだろうか。
炎上事件の時も、父は僕を責めることはほとんどしなかった。
迷惑をかけたはずとは思うのだけど、対処や相談にのってくれたのは、別の警察の人だった。
――たぶん父さんは、僕に興味がないのだろう。
父が、パラパラと新聞をめくる。
ページの裏には「SNSでの私刑動画、是か非か」という見出し。
クラッシュ・スマイルの件が、もう世間一般の話題になっているのだと気づく。
「この動画、見たか」
僕の視線に気づいたのか、父が新聞をたたみながら言った。
声は淡々としているけど、底に探るような色があった。
「……うん、ネットでちょっと。話題になってたね」
「『正義の動画配信』か。無責任な言葉だ」
父がお椀に手を伸ばし、味噌汁をひと口すすった。
その目は、新聞ではなく僕を見ている。
「正義を語る人間は、危うい。
目的を果たすために、一線を越えることを恐れなくなる。……昔からそうだ」
箸を持つ手が、わずかに震える。
いつになく饒舌な父を前に、僕の心は激しく動揺した。
「まだ法を侵害していない、犯罪者予備軍と。
それを私利私欲のために、裁こうとする者。
――悪意とは、はたしてどちらにあるんだろうな」
「悪意」という言葉に、僕の心臓が跳ねる。
「……どうして、僕にそんな話をするの?」
父の目的が、見えない。
もしかして、この動画の投稿主が僕であることに、気づいてるんじゃ――
「ただの一般論だ」
少しの間、沈黙が流れる。
ただの一般論――
その言葉の裏に、冷たい針のような意図を感じた。
まるで、僕の胸の奥を探るように。
「おまえは、どっちの側にいる?」そう問われた気がした。
――僕がやっていることは、本当に正しいのか。
街の悪意を減らしたい。誰かが傷つくのは、もう見たくない。
それが、過去の過ちで街の悪意レベルを高めてしまった、僕の贖罪だから。
そのために動いてきたはずだ。悪意スコアという客観的な指標に従って。
それに、周囲の人が二次被害にあわないような配慮も、十分にしてきた。
でも、そこまでしても僕の行動は、悪意のある「私刑」なんだろうか?
「正義のふりをした暴力」と、同じ穴に落ちていく気配が、どこか怖かった。
「まあ、警察官としてではなく、一個人として言わせれば――
どんなやり方であれ、実際に悪人が減るのなら、それに越したことはないがな」
すると、父は鞄からペンとメモ帳を取り出し、何かを書き始めた。
しばらくして筆を止めると、書いたページをちぎって僕に寄越す。
「これを、持っておけ」
――『M@yoizukiyo_0414』。
受け取った紙に目をやると、何やらIDのようなものが書かれてあった。
「これ、なんなの?」
「説明はしない。うまく使えば、役に立つだろう」
話は終わりだ、とばかりに、父は立ち上がった。
スーツの上着を羽織り、鞄を手に取る。
「悠。決して『正義』に溺れるな。線引きを間違えず、ただやるべきと思ったことをやれ」
玄関に向かう背中を、僕は黙って見送った。
やがて、扉が閉まる音。
静かなリビングに、冷めた味噌汁の香りだけが残った。




