第2話 悪意スコア②
翌日。
巣鴨翠雲高校の一室では、退屈な現代文の授業が、だらだらと続いていた。
僕は、ノートを開いてペンを握りながらも、何も書いていなかった。
黒板に書かれた文章を追うふりをしていても、頭に入ってくるのは昨日のことばかりだ。
MALICE。ヤマト。そして……
――JUSTICE::ECHO。
心臓が、どくんと跳ねる。
あの過ちを、まさかカラスに突きつけられる日が来るなんて。
東京の悪意レベルが高まった、と言っていた。
「この街は、まだ怒っている」とも言っていた。
あれは一体、どういう意味だったのだろう?
MALICEというアプリと、何か関係があるんだろうか?
机を指でとんとん叩いていると、隣の席の男子が、わざとらしくため息をついた。
(ノートとる気あんのかよ、炎上くん)
小声のつもりだろうが、周囲には十分聞こえていた。くすくすと笑い声が広がる。
先生も、注意はしない。みんな僕を「面倒なやつ」として、腫れ物扱いしている。
顔をしかめ、唇を噛む。普通に生きたい。もう、それだけなのに。
そんな願いも許されないほど、僕たちはひどいことをしてしまったんだ。
夜になると、今でも思い出す。
あのときのコメント欄――
『よくやった』『正義の味方だ』
そんな言葉に、僕は何度も救われた気がしていた。
指先の感触まで、まだ覚えている。投稿ボタンを押した瞬間の、震えと高揚を。
でも今は、それが全部、誰かを傷つける刃だったように思える。
――零士さんは今、どうしてるんだろう。
五十鈴零士。コードネーム、JUSTICE::NULL。
僕が活動を手伝っていた、世直し系インフルエンサーだ。
年齢は十以上も離れていたけど、数年前に近所へ引っ越してきて、ふとしたきっかけから仲良くなった。
僕の中では今も、「身近でかっこいい、先生みたいな人」というイメージは消えてない。
ルックスがよくて、頭の回転も速く、話も面白い。
零士さんは、僕の憧れだった。
だから、世直し系インフルエンサーの活動に誘われた時も、「この人のやることなら間違いない」と、疑うことすらしなかった。
僕は、零士さんに褒められたくて、正義を信じたかった。
でも、あの炎上事件が起きた。
それ以来、零士さんは自宅に戻ることもなく、行方をくらませている……
――ん?
不意に、窓の外から歓声があがった。
視線を向けると、2年生が体育の授業でバスケットボールをしていた。
その輪の中に、ひときわ目立つ一人の少女がいた。
――夕波燈さん、だっけ。
生徒会長で、学年を問わず人気があり、先生からの信頼も厚い。
成績も優秀で、しかも見た目まで華やか。僕とは真逆の存在だ。
話したことはない。
彼女は、僕のことなんて知らないだろう。
――いや、名前ぐらいは知られてるかも。炎上事件のせいで……
グラウンドでボールを追う燈は、汗を光らせて笑っていた。
その笑顔を見ていると、胸の奥にざらりとした感情が広がる。それが羨望なのか、後悔なのか、自分でもよくわからなかった。
ボールを追う燈が、一瞬だけこちらを見た気がした。
笑っているのに、瞳の奥が冷たい。まるで、僕の過去をすでに知っているかのように。
――あれ?
ふと、視界の端に違和感が走った。
校庭の外――フェンスの向こう。日陰に立つ、一人の男の姿。
最初は、ただの通行人かと思った。
でも、違う。男は、不自然なほど動かずに、燈のことだけを見つめている。
風が吹いても、顔を上げない。
フードの影から覗く目が、獲物を狙う獣みたいにぎらついていた。
背筋に、じわりと冷たいものが流れた。
僕の思い過ごしならいい。だけど、あの視線は……
ピコン。
ポケットの中のスマホが、小さく震えた。
慌てて取り出すと、画面には昨日と同じ、アプリのアイコンが浮かび上がっていた。
――MALICE。
そして、その下に新着通知。
【悪意を検知しました 対象:不明】
液晶に浮かぶ、その文字列を見て、息が止まった。
通知の文字が、じわりと画面に滲み出すように浮かんでいた。
昨日カラスが言った、悪意レベルというセリフと、何か関係がある?
悪意を検知って、付近にいる誰かの悪意を感じ取った、ということ?
そんなこと、できるはずない。
でも、冗談にしては、やけに手が込んでいる。
僕は、フェンスの向こうの男に視線を送った。
アプリの言う悪意の主は、あの人だろうか。たしかに、怪しくはあるけど――
――いや。やめよう。
誰かが「悪」という勝手な決めつけは、二度としない。
脳裏に、炎上当時の光景がよみがえる。
僕は零士さんと一緒に、断片的な証拠を信じて無実の人を悪者と断じ、動画で晒した。
喝采のコメントに酔ったのも束の間。
後日、その人が潔白だったことが明るみになった。
家族の泣き声。壊れた人生。
僕たちは軽率に、その引き金を引いたんだ。
再び、目線をスマホに戻す。
「悪意」の文字が、僕を責め立てているような気がしてならなかった。




