3.カイル・ノア・志水
広く、手入れの行き届いた庭。
木々の向こうに見える、由緒ありげな茶室。
窓ガラス越しに見える風景に、伝統と格式が表れていた。
「これが、十六代続く和菓子屋の本宅か…」
八澤は軽く息をついた。
この部屋の設えにしても、そうだ。
来客用に洋間の形を成しているが、基本は和。
上質のものをうまく組み合わせてあり、品の良さを感じる。
普段はホテルの一室や本店の会議室での打ち合わせだったらしいが、迎えの車に乗り込み案内されたのは志水家の広い敷地内にある新築の離れの一室だった。
「まあ、ここに入れてくれたってことはサクッと締結かな」
にいと宮坂は口角を上げた。
「それにしても、俺が想像したより資産があるな」
行き詰っている感じはしない。
浪費しているようにも見えない。
余裕があるのだ。
この空間全体に漂う空気に。
「ふふ。ほんとに八澤は面白いね。君のなぜなにについてはこれからのお楽しみ」
・・・こいつ。
遊んでやがる。
だが宮坂は社長で、自分はあくまでも雇われ人だ。
しかも、やることなすこと常人離れしている。
これくらいのことでいちいち腹を立てても仕方ない。
ひとつ深呼吸したところで、扉を叩く音がした。
「お待たせしました。『志水』です」
まず頭を下げつつ現れたスーツ姿の数名は事務方だろうか。
若くて四十代といったところで、いかにも老舗を守ってきた空気をまとっている。
「いえ、わざわざお迎えありがとうございました」
こちらも全員椅子から立ち上がり、挨拶を返した。
ネクタイをしっかり絞めて挑む彼らと向き合うと、てんでばらばらな自分たちの若さと緩さが際立つ。
「・・・これでよく話が進んだな」
八澤は心の中で呟くにとどめた。
最後に身をかがめてゆっくり入室してきた長身が真打だろう。
正面に立つ重鎮に会釈しながら、ちらりと入り口に目を向けた。
「本日は、ヨウコソ」
桃、いや、マンゴーか。
もし耳に味覚があったならばそう感じたに違いない。
ねっとりとした香りと甘さが鼓膜を通って喉に広がり、鼻を抜けていく。
なんなんだ。
この、深くて甘すぎる声は。
「ハジメマシテのカタもおられマスネ?」
もともと、日本語は極端に母音が少ない。
周波数も低い。
多言語の人にとって発音することは難しいだろう。
しかし、そのたどたどしい言葉の一つ一つに色を感じる。
「ワタシが、シャチョーの・・・」
そして、この圧倒的な。
「カイル・ノア・シミズ、デス」
王者の風格。
アルファとかオメガとか。
そんな特殊なイキモノは広い地球のほんの一握り。
伝説の竜に会うようなものだ。
そう思ってきたのに、なぜだろう。
この十年、何人も関わった。
いや、むしろバース特性のるつぼに突っ込まれているようなものだ。
十年前、蜂谷珈琲店でアルバイトをしていたらずいぶんと華々しい男がやってきた。
大人びているが、多分年のころは同じくらい。
しぐさの一つ一つ、唇から浅く吐き出す息まで優雅に思わせる男。
店内の空気は一変した。
彼はオーナーと長年の知り合いらしく、ゆっくり語り合ったあと、八澤の淹れたコーヒーを飲み干して一息つくと、にいっと笑った。
ちょっと、子どもが悪いことに誘うような笑み。
「ねえ、君。僕と一緒に仕事しない?」
名前は、宮坂誉。
元モデル。
元アルファ。
身体を壊してただ人になった彼は、これから新たな事業を始めるという。
業務内容はブランドマネージャー。
顧客のブランド資産の管理運用と向上を提案するなんでも屋。
当時、法学部に在籍して司法試験の準備をしている八澤を、いずれ法務担当として迎えたいと短時間で的確に説明し、その気にさせた。
飛び込んだ世界はとても新鮮だった。
がむしゃらに勉強し、事業に必要な資格を次々と手に入れるのは爽快だ。
きっと、険しい山を攻略する楽しみとはこういうものなのだろう。
苦しさの先に、高い頂が見える。
多少無理はしたが、宮坂から自己管理も仕事のうちだと何度も釘を刺されたので身体を壊したりはしなかった。
毎日が戦場。
上等じゃないか。
それから今まで、怒涛の日々だ。
なんといっても宮坂は『引き寄せる』力がある。
気が付けば会社の運営は順調で関わる人は増え続け、取引先にも社員にもバース特性の者が現れた。
だから、今更どんな『竜』に会っても驚かないと思ってきた。
だが、これは。
「本日は法務担当として新たに二人連れてきました。こちらの八澤晶と、蜂谷薫です」
宮坂の声に、なんとか平静を装って頭を下げた。
あり得ないだろう。
こんなにむき出しの男、久々だ。
いや、『宮坂誉』以来だ。
しかし彼は八澤を瞳に移した瞬間優雅に笑みを浮かべ、思いっきり地雷を踏んだ。
「おや・・・。そうデスか。インターンシップには最適デスね」
甘ったるい声。
さも慈愛に満ちたまなざし。
まるで、通りすがりの子どもに飴をくれてやるようなつもりで。
途端に、八澤の中で彼の評価が一気に地に落ちた。
所詮は、アルファのぼんぼんか。
「・・・なるほど」
つい、音にしてしまったらしい。
両隣の蜂谷とデザイナーが息を飲んだのが聞こえた。
俺をインターンだと言い切ったな、この若造。
いや、『志水』の連中全員か。
スーツ軍団の表情をざっと確認する。
身長が低く童顔の八澤はよく学生に間違えられる。
今更だ。
作り慣れた営業用の笑顔を浮かべて切り込んだ。
「初めまして、八澤晶です。宮坂と組んでもうすぐ十年になります。国内・海外ともに法的な手続きは慣れているつもりですが、もしご不安でしたら実績表をお見せしましょうか」
自分が好戦的な男だと自覚している。
『社長』もさすがに口を半開きに固まった。
「これハ・・・タイヘン失礼しました。お若く見えたノデ、ツイ・・・」
不自由な日本語でとっさにこれだけ言えれば、まあ上等だろう。
そもそも相手はこれから契約を結ぶ客なのだ。
ふうと、八澤は軽く息をついた。
毎度の事なのにたいがい大人げないと内心反省し、八澤は振り上げた刀を鞘に納めた。
「いえ。見た目がこうなんで、普段でもよく誤解されます。いつもの事なのでどうかお気になさらず」
そこで、ようやく宮坂が口を開く。
「こちらこそ事前に法務担当の同席をお知らせせず、大変失礼しました。以前お会いした時に少し説明しましたが、僕は年齢経歴学歴を問わずに一緒に仕事をしたい者を雇いますことをご承知ください。ただし、請け負うからには完璧を目指しますのでご安心を」
穏やかながらも凛とした声に、風がさっと通り抜けたような気がした。
番頭のような男が場を仕切り直す。
「こちらこそ失礼しました。遅くなり申し訳ありません、どうか皆さんお座りください」
全員着席したところで入室してきた女性たちが茶を配り始める。
ふわりと緑茶特有の甘い香りが漂う。
「ああ…いい香りだ。玉露ですか」
宮坂がふんわりと笑う。
「はい。懇意にしている茶園から昨日届いたものです。宜しければ、こちらの菓子もご一緒にどうぞ」
茶道の心得があるのか、全員一つ一つの所作がなめらかだ。
朱塗りの器に懐紙が敷かれ、その上に趣向を凝らした小さめの生菓子と干菓子が綺麗に配置されている。
出席者全員それぞれ種類が違うが、全て季節に即したものだ。
些細なもてなしから、『志水堂』の力量が垣間見える。
「美しいな。さすがは『志水』さんですね」
宮坂の心からの称賛に、場が和んでいった。