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第二章 紙上(しじょう)の聲(こえ)・未封(みふう)

ゆめページはまだじられず、よろずことばのごとくろくとなる。

ひとこえつたびに、紙上しじょうにはふではし気配けはいがある。

だれしょなかひとき、だれこえそとゆめいているのか。

―――――――――――紙上しじょうこえ未封みふう


あさの七時三十分。

にぎわう府城フジョウまち――

都市としはようやくましたばかりで、交差点こうさてん信号しんごうはどこか間延まのびしてえる。

街角まちかど朝食屋ちょうしょくやでは、鉄板てっぱんうえ肉片にくへん玉子焼たまごやき、大根餅だいこんもち熱気ねっきまとってよこたわり、空気くうきにはこうばしいにおいと油煙ゆえんただよっていた。

路地ろじぐちにある有名ゆうめい豆乳屋とうにゅうやでは、いつものようにテレビがつけられていた。

ふるびたちいさな画面がめんかべすみ設置せっちされ、ガムテープで耐震たいしんマットがられている。

映像えいぞうにはわずかな砂嵐すなあらしじり、ニュース番組ばんぐみ音量おんりょうすこおおきめで、油条チュロスなべちるおとをかきしていた。

「……現場げんばはすでに警察けいさつによって封鎖ふうさされており、事件じけん発生はっせいしたのは今朝けさ五時半ごじはんごろ。

場所ばしょ本市ほんし東郊とうこうの『竹嶺古道チクレイコドウ』とされています。

通報者つうほうしゃはなしによると、遺体いたいかたわらには祭祀さいしおもわせる痕跡こんせきのこされていたとのこと。

現在げんざい府城フジョウ第二分署だいにぶんしょ特別とくべつ捜査班そうさはんげ、調査ちょうさすすめています――」

画面がめんには、きりがまだちこめる竹林ちくりんうつされていた。

黄色きいろ規制線きせいせんがその一角いっかくかこみ、上空じょうくうにはドローンがゆるやかに滑空かっくうしている。

モザイク処理しょりほどこされた地面じめん文様もんようは、それでもなおはっきりとれた。

赤褐色せきかっしょく筆跡ひっせき不規則ふきそく円環えんかんえがき、その中心ちゅうしんはぽっかりとなにえがかれておらず、まるでなにかをっているかのようだった。

店内てんないでは、何人なんにんかの常連客じょうれんきゃく朝食ちょうしょくをとりながら、テレビの画面がめんにちらりとけていた。

油条ユウチョウおとがパリッとひびき、

豆乳とうにゅう湯気ゆげがふわりとのぼる。

テレビのなかでは、記者きしゃが重々(おもおも)しい口調くちょう事件じけんつたえていたが、映像えいぞう電波でんぱみだれで断続的だんぞくてきにちらついていた。

「……また、ひまあましただれかが、

あやしい宗教しゅうきょうごっこでもはじめたのかねぇ。」

だれかがまゆをひそめて、ぼそりとつぶやいた。

いま流行はやりの、ああいう配信はいしんグループじゃない?

最近さいきんわかって、ああいう“没入型ぼつにゅうがた儀式ぎしきごっこ”がきなんでしょ!」

もう一人ひとり冗談じょうだんめかしてわらった。

だがかれらは、どこかにするように、そろってもう一度いちどテレビ画面がめん視線しせんけた。

その瞬間しゅんかん画面がめんわった。

うつされたのは、上空じょうくうから撮影さつえいされた現場写真げんばしゃしん――

赤褐色せきかっしょく筆跡ひっせきえが環状かんじょう図騰とてん

それはにもえ、じゅにもえ、あるいはまだえていないなにかの文字もじのようでもあった。

交差こうさするせんにはがれあとのこされ、まるで蝋燭ろうそく涙跡なみだあとのようであり、あるいはかわいた血痕けっこんにもえた。

「……よくできてるな……これ、映画えいが撮影さつえいなにかか?」

入口いりぐちちかくのせきすわっていたスーツ姿すがたおとこが、ぽつりとつぶやいた。

その一言ひとこと最後さいごに、だれ言葉ことばはっしなかった。

いようのない不安ふあんが、店内てんない空気くうきにじわじわとんでいくようだった。

一方いっぽうかえりカウンターのまえっていた女子高校生じょしこうこうせいは、片耳かたみみだけにけたブルートゥースヘッドホンをひからせながら、手元てもとのスマホを無言むごんでスワイプしつづけていた。

彼女かのじょはテレビをなかった。

――あのは、とっくにていた。

しかも、いまのニュース映像えいぞうよりも、ずっと鮮明せんめいなものを。

ニュースよりも早く、SNSではすでに話題が加熱していた。

Instagramのストーリーズでは、「#竹嶺古道チクレイコドウ」のタグ写真しゃしん爆発的ばくはつてき拡散かくさんされている。

写真しゃしんは、現場げんば片隅かたすみからこっそり撮影さつえいされたものだった。

構図こうずかたむき、画質がしつあらい。

だがその「のろいのにしかえない模様もよう」のせいで、

またた拡散かくさんされていった。いくつかのインフルエンサーけいアカウントは、写真しゃしん色調しきちょう意図的いとてきくら加工かこうし、赤褐色せきかっしょく筆跡ひっせき細部さいぶ強調きょうちょうして投稿とうこうした。

えられたタイトルは、こうだ:

【これは映画えいがじゃない。今朝けさ実際じっさいきた出来事できごと。#心霊記録しんれいきろく #招夢呪しょうむじゅ #竹嶺古道チクレイコドウ

さらに、画像がぞう認識にんしきプログラムによってせん再構築さいこうちくおこなわれた投稿とうこうされ、一部いちぶのユーザーはAIエーアイもちいて、図陣ずじん全体ぜんたい原型げんけい推定すいてい復元ふくげんするこころみをおこなった。

未完成みかんせいだったえん空白部分くうはくぶぶん中心ちゅうしんけを補完ほかんした結果けっか――


数年前すうねんまえ発生はっせいした、とある民俗儀式みんぞくぎしき暴走事件ぼうそうじけん記録きろくされた『夢籙印式むろくいんしき』と、おどろくほどの一致いっちせた。

Dcardディーカード匿名とくめい掲示板けいじばんには、こうかれた投稿とうこうあらわれた:

高校こうこうのとき、ゆめでまったくおなたことがあります。あのうごいていて、だれかがふでしているように、

一筆いっぴつずつゆめなかえがかれていくんです。めたら、のひらにあかあとがあって……。

これ、なにってるひといますか?

投稿とうこうには、スマホでった手描てがきのスケッチ画像がぞうえられていた。

コメントらんはまるで決壊けっかいしたかのように、数百件すうひゃっけんもの返信へんしんくされた――「あれ、みたいじゃない?つめかえされてるがして、めっちゃこわかった……」

おなひといない?ゆめなかでページをめくるおと、ずっとこえるんだけど……」

「うわ、これ……先週せんしゅうゆめたやつとまったおなじじゃん。」

「たしか『山夢紀聞さんむきぶん』にてたこのじん名前なまえはたしか『籙印召形ろくいんしょうけい』……ゆめなかのモノをすためのやつだったはず。」

民俗学みんぞくがくサークルの先輩せんぱいってたけど、あのは“えがく”んじゃなくて“く”ものらしいよ。書式しょしき使つかうタイプの召喚陣しょうかんじんで、名前なまえは『夢籙むろく』っていうんだって。」

Threadsでも議論ぎろん白熱はくねつしている。

「このながつめちゃダメって。友達ともだち昨日きのうゆめたんだけど、あれ、勝手かってうごいたんだって。

筆跡ひっせきひろがっていくみたいに……」「え、わたしのひらあかくなってるんだけど!?ちょうどなかまるあとがあって、あの中心ちゅうしんえんにそっくり……。偶然ぐうぜんすぎない?」

「うちのちちなんだけど、あれは呪文じゅもんじゃなくて“しょ”だってってた。……ひとを“む”タイプのやつ。」

「あれ、えがいてるんじゃなくて“いてる”んだよ。ただ……あのおれたちにはめない。」

「うちの祖母そぼってた。“夢籙図むろくず”ってばれてて、むかしゆめふうじたり、れいしずめたりするために使つかわれてたって。

でもね、そのひらかれたら、人間にんげんのほうが“ゆめ記憶きおくされる”らしいよ。」

「これ……だれいてるの?ていうか……そもそも、人間にんげんいたものじゃないのかも……。」ReelsやTikTokでも、「夢籙図むろくずに“記録きろくされた”ひとごっこ」を真似まねする動画どうが流行はやっている。

なかには、れい加工かこうしてフィルターにし、「このフィルターをると、自分じぶんが“つぎ筆者ひっしゃ”かどうかわかる」なんて投稿とうこうするものまであらわれた。

だが、そんななか──

あのたというものたちの一部いちぶが、おなじ“文章ぶんしょう”をゆめなかかえはじめた、といううわさはじめている。

現場げんば写真しゃしんは、処理済しょりずみにもかかわらず高速こうそく拡散かくさんされ、解析かいせきソフトによって“修復しゅうふく”され、一部いちぶ細部さいぶあきらかにた。

さらに──過去かこ禁書きんしょ寺社じしゃ壁画へきが清朝しんちょう時代じだい夢籍むせき断片だんぺんなどを照合しょうごうし、ある研究者けんきゅうしゃがこう断言だんげんしたのだ:

「これは未完成みかんせいの“夢籙印式むろくいんしき”。祭祀さいしのためじゃない……

これは――“召喚しょうかん”のためのものだ。」

返信へんしんのひとつひとつが、みょうにリアルで――

まるでかれらはただの“読者どくしゃ”じゃなく、あの儀式ぎしきの“当事者とうじしゃ”だったかのように。

まるで実際じっさいに、そのにいて、目撃もくげきしていたかのようだった。

わずか数時間すうじかんのうちに、「#竹嶺古道チクレイコドウ」は各種かくしゅSNSのトレンド入りをたした。

ゆめかんする報告ほうこく一気いっきせ、海外かいがい留学生りゅうがくせい名乗なのるユーザーまでもが、おなのバリエーションを“た”と投稿とうこう

こうして、はじめての“本物ほんもの恐慌きょうこう”が、ネットじょうひろがりはじめた――。

その少女しょうじょは、わずかにまゆをひそめた。

指先ゆびさきが、交差こうさするせん中央ちゅうおうまる。

むねおくに、理由りゆうのない違和感いわかんがふいにがった。

――これ、人間にんげんに“せる”ためのものじゃない。

ゆめ”に、せるためのものだ。

---------------------------


城北。府城大学(フジョウだいがく)。人文学部・六階。

あさひかり高窓たかまどからみ、ながらく封鎖ふうさされていた一室いっしつ研究室けんきゅうしつを、ななめにらしていた。

窓際まどぎわ本棚ほんだなかべのようにたかく、背表紙せびょうしふるび、ページはばんでいる。

空気くうきしずかすぎた。

まるで、ときよりもさきに――なにかが、ここに辿たどいていたかのように。

研究室けんきゅうしつなかはほのぐらく、ひとつだけの読書灯どくしょとうつくえうえらしていた。

書類しょるいのページには、あたたかみのあるかすかなひかりし、わずかにみがかってえる。

水月ミヅキは机のうしろにすわり、しずかにまえのモニターをつめていた。

ニュースの音声おんせい空気くうきなか波紋はもんのようにひろがり、書棚しょだなかべ反射はんしゃして、しずかにせていた。

「アナウンサーの林芷晴リン ジーチーンです。今朝けさ五時半ごじはん東郊とうこうの『竹嶺古道チクレイコドウ』で死亡しぼう事件じけん発生はっせいしました。警察けいさつ初動しょどう調査ちょうさによると、死亡しぼうしたのは成人せいじん男性だんせいで、身元みもとはいまだ不明ふめいとのことです。現場げんばには、多数たすう祭祀さいしよう道具どうぐおもわれる物品ぶっぴんのこされており、単純たんじゅん転倒てんとう事故じこ突発的とっぱつてき病死びょうしではない可能性かのうせいたかいとられています。それでは、現場げんば様子ようすくわしくおつたえします――」

画面がめんわる。現場げんば記者きしゃはマイクをに、規制線きせいせんそとっていた。

背景はいけいには、薄暗うすぐら竹林ちくりんひろがっており、時折ときおりせみこえ途切とぎれながらこえてくる。

「はい、スタジオ。わたしいまいるのは、事件じけん発生現場はっせいげんば外縁部がいえんぶになります。警察けいさつによりますと、今朝けさ五時過ぎごろ、近隣きんりん七十代ななじゅうだい男性だんせいが、毎朝まいあさ散歩さんぽちゅう異変いへんづき、すぐに通報つうほうしたとのことです。警察官けいさつかんけつけたところ、竹林ちくりんの空きあきちに、男性だんせい遺体いたい仰向あおむけでたおれており、周囲しゅういには使用しようみとおもわれるくろいロウソクがならべられ、地面じめんには赤褐色せきかっしょく塗料とりょうえがかれた不明ふめい図形ずけい確認かくにんされました。」

カメラは、ぼかし処理しょりされた映像えいぞうへとわる。

うつされたのは、ひとつの渦状うずじょう交差こうさする奇妙きみょう文様もんよう

それは漢字かんじのようでもあり、梵字ぼんじのようにもえる。

そして、その中心ちゅうしんには、ぼんやりと人型ひとがたかげかびがっていた――。

映像えいぞう加工済かこうずみです。視聴者しちょうしゃ皆様みなさまはご注意ちゅういうえ、ごらんください。】

非公式ひこうしき情報じょうほうによりますと、遺体いたいくらいろ衣服いふく着用ちゃくようしており、のひらはうえき、指先ゆびさき目尻めじりには、すみのような痕跡こんせき点在てんざいしていたとのことです。

また、遺体いたい周辺しゅうへんにはあらそったり、きずられたりした形跡けいせきられず、現在げんざい警察けいさつ一般的いっぱんてき暴力事件ぼうりょくじけん可能性かのうせい排除はいじょし、宗教的行為しゅうきょうてきこうい民間信仰みんかんしんこう関連かんれんした儀式ぎしきの可能性もふくめて調査ちょうさすすめているということです。

また、現場げんばのこされた図形ずけい通常つうじょう事件じけんとはおおきくことなることから、地元じもと大学だいがく所属しょぞくする民俗学みんぞくがく専門家せんもんかにも協力きょうりょく要請ようせいしているとのことです。」

現在げんざい警察けいさつ周辺しゅうへん登山口とざんぐち設置せっちされた監視カメラの映像えいぞう確認かくにんし、事件当時じけんとうじの出入り(でいり)人物じんぶつ特定とくていすすめています。

あわせて、情報じょうほうをおちの方々(かたがた)にたいし、協力きょうりょくびかけています。

一方いっぽう遺体いたい正確せいかく死因しいんや、現場げんばえがかれた図形ずけい意味いみについては、今後こんご鑑識かんしきおよび学術的がくじゅつてき分析ぶんせき必要ひつようがあるとのことです。」

画面がめんがスタジオにもどり、アナウンサーの表情ひょうじょう慎重しんちょうわる)

現在げんざい本件ほんけん府城フジョウ第二分署だいにぶんしょによって捜査そうさ主導しゅどうされており、専門せんもん捜査班そうさはん設置せっちされたとのことです。

事件当日じけんとうじ午前四時ごぜんよじから五時ごぜんごじのあいだに竹嶺古道チクレイコドウ周辺しゅうへんにいたかたは、0800-XXX-XXXまでご連絡れんらくいただけますよう、おねがいいたします。

続報ぞくほうにつきましては、今後こんごつづき、おつたえしてまいります。」

画面がめんには、あさのニュースがかえうつされていた。

報道ほうどうこえ映像えいぞうは、まるでわりのないループのように、かえされていた――。

竹嶺古道チクレイコドウ空撮くうさつ映像えいぞうがゆっくりとながれ、きりがまだ完全かんぜんれていない林間りんかんの空きあきちを、一寸一寸いっすんいっすん丁寧ていねいいていく。

赤褐色せきかっしょく模様もようは、あとのように地面じめんりばめられ、湿しめったつめたいつちうえ筆跡ひっせき句読点くとうてんきざまれていた。

中央ちゅうおうにある未封みふうえんは、しずかに横たわり、あたかも保留ほりゅうされた空白くうはくのように、つぎ一筆いっぴつっている。

また、暗闇くらやみひそひょうのようでもあり、無音むおんでじっとひそめ、いつでもびかかる準備じゅんびができているかのようだった。

画面がめん静止せいししているが、どこか胸騒むなさわがする。

タブレットの画面がめんは、いちページのSNS総覧そうらんスクリーンショットに固定こていされていた。

Dcardディーカード匿名とくめい投稿とうこう、Threadsの短評たんぴょう、Instagramのストーリーズ、再生回数さいせいかいすう一万いちまんえた短編動画たんぺんどうがが次々(つぎつぎ)とながれ、まるで編集へんしゅうされていないゆめのページがかさなりい、おぎなわれ、かえかさねられているようだった。

画面がめんすみには字幕じまくながれ、SNSエスエヌエスプラットフォームのハッシュタグが急速きゅうそくにトレンド入りしていた。

それぞれのコメントは、まるで一筆ひとふでのようだった――

ゆめなかたとものもいれば、おな図柄ずがらいたものもいる。

うごくともの、ページをめくるおとこえるとものもいた。

さらには、これはではなく“しょ”であり、えがくのではなく“いている”のだとかたものまでいた。

水月ミヅキなにくちにせず、ただしずかにつめていた。

傍観者ぼうかんしゃとして、かれはいつもどおりの平穏へいおんさをたもっていた。

ニュース映像えいぞうとSNSのコメント画面がめん交互こうご画面がめんえながらうつり、まるでことなるふたつの言語げんごのページが、おとなきままに、しかし構造こうぞうたもちながらめくりっているかのようだった。

人々(ひとびと)は解釈かいしゃくしようとし、嘲笑ちょうしょうし、模倣もほうし、さらには予測よそくまでこころみていた。

あるもの宗教しゅうきょうだとい、またあるもの悪戯いたずらだとい、さらにかみのメッセージだとものもいた――。

しかし、水月ミヅキっていた。それらはすべてちがっているのだと。

指先ゆびさきだけが、木製もくせい書桌しょきゃく表面ひょうめんにそっと空中くうちゅうえがくように筆跡ひっせきをなぞった――

それはテレビにうつっている模倣もほうしたものではなく、それよりもふるく、より完全かんぜんなバージョンだった。

かれゆび空中くうちゅうただよい、まるでえないページすみれようとしていた。

――それはたんなるじんでもなく、単純たんじゅん符号ふごうでもなかった。

それは一枚いちまいかみであり、えていないゆめしょ空白くうはくであった。

いま、それは人間界にんげんかいでめくられようとしている。

水月ミヅキはほんのすこじた。

それは冷淡れいたんさではなく、理解りかいふかすぎて、反応はんのう必要ひつようとしないからだった。

ふでちず、ゆめまらない。しょふうじられず、かえらず。」

かれはすでにゆめなかで、その筆痕ひっこん原型げんけいていた。

正確せいかくえば、それはかれからしたふでであった。

かれ直接ちょくせついたものではないが、筆跡ひっせき構造こうぞう起点きてん、リズムは、かれ文字もじ酷似こくじしていた。

まるで誰かがかれ模倣もほうしているかのようで、また、かれのこした空白くうはく一頁いちぺーじが、なにかによってひろわれているかのようだった。

「……まだのこされてしまったのか。」

かれこえは、かみページあいだからかぜおとのようにかすかだった。

ドン、ドン。

戸外とがいから礼儀正れいぎただしく、みじかいリズムで二回にかいのノックおとひびいた。

しん。」水月ミヅキかえらず、しずかにそうげた。

陽霜宵ヨウ ソウショウとびらひらけて、しずかに室内しつないはいった。

くろ服装ふくそう端正たんせいで、動作どうさわらずいていた。

かれ書類しょるい一束ひとたばかかえ、整然せいぜんつくえ片隅かたすみいた。

書類しょるい所定しょてい位置いちもどすその一瞬いっしゅん目尻めじりがかすかにうごいた。

「もうごらんになっているはずです。」

水月ミヅキはノートパソコンをじた。

そのパタンというきよらかなふたおとが、しずかな研究室けんきゅうしつにひときわひびいた。

電子音でんしおんはたちまちえ、のこったのは、かみページがめくれるかすかなおとだけだった。

陽霜宵ヨウ ソウショウたば一番上いちばんうえ書類しょるいを取りとりだし、両手りょうて丁寧ていねい水月ミヅキした。

現場写真げんばしゃしん、SNSのスクリーンショット、そして警察けいさつからわたされた初動資料しょどうしりょうです。

彼らは正式せいしき民俗学者みんぞくがくしゃ介入かいにゅう要請ようせいしました。」

水月ミヅキ返事へんじをせず、陽霜宵ヨウ ソウショウした資料しりょうしずかにかえていた。

そこには拡大処理かくだいしょりされた図柄ずがらうつり、蛍光けいこうペンでいくつかの重要じゅうよう箇所かしょかこまれている。

筆致ひっち異様いよう連筆れんぴつ()せ、()けた筆尾ひつびや、そして中央ちゅうおう位置いちする、いまだにめられていない空白くうはく際立きわだっていた。

「彼らはっていました……宗教しゅうきょう民俗信仰みんぞくしんこうだと。」陽霜宵ヨウ ソウショウ一瞬いっしゅんき、こえひそめてつづけた。

「ですが、君様きみさまわたしっています、これは人間にんげんけるものではないと。」

「これは(だれ)かがじんいているのではございません。」

水月ミヅキはついにからだうごかし、椅子いすにもたれかかっていた姿勢しせいすこただし、ったその中央ちゅうおうつめた。


そこには、じられていないえんひとつあり、まるでまだひらいていないまなこのようであり、また、名前なまえっている空白くうはくのようでもあった。

かれしずかにたずねた。

「あれは、ゆめなかでもみずかはじめているのでしょうか?」

「それはゆめでございます。ふでられるかたをおさがししているのです。」陽霜宵ヨウ ソウショウ語調ごちょうは、まるで呪文じゅもんのようにいていた。

水月ミヅキうなずき、まるでなにかをたしかめるかのようだった。

かれがり、書棚しょだな一番下いちばんしたから、表紙ひょうし平凡へいぼんながらも題名だいめいのないあつ一冊いっさつを取りとりだした。

その表紙ひょうし水墨画すいぼくがのような光沢こうたくび、朝日あさひひかりられて、かすかにすみ気配けはいただよわせていた。

ページがめくられた瞬間しゅんかん、もともと白紙はくしだった内側うちがわページに、かすかにかびがる筆跡ひっせきあらわれ、まるでかみ呼吸こきゅうしているかのようだった。

「それはわたしのこした筆跡ひっせきではありません。」かれあわった。

「しかし、筆跡ひっせきのこされた位置いちは、まさに絶妙ぜつみょうです。」

陽霜宵ヨウ ソウショウはその言葉ことばいて、表情ひょうじょうがわずかにうごいた。「もうお一人ひとりの……夢籙むろく筆者ひっしゃでいらっしゃるとおかんがえでしょうか?」

水月ミヅキ書物しょもつじ、かえってまどそととおくのそらつめた。

きりはまだれておらず、とおい山々(やまやま)は、まるでねむりからめていないページのように横たわっていた。

かならずしも人間にんげんとはかぎりません。」かれいました。「もしかすると……まだ完成かんせいしていないゆめが、みずかふでつけたのかもしれません。」二人ふたり言葉ことばわると同時どうじ

陽霜宵ヨウ ソウショウがシャツの内ポケットにれていた携帯電話けいたいでんわが、かすかにふるえた。

おときわめてちいさかったが、

このしずまりかえった研究室けんきゅうしつでは、まるではりちるかのようにひびいた。

かれ携帯電話けいたいでんわを取りとりだし、画面がめん表示ひょうじされた着信者名ちゃくしんしゃめい一瞥いちべつした。

府城第二分署フジョウだいにぶんしょ童宥澤ドウ ユウタク」と表示ひょうじされていた。

陽霜宵ヨウ ソウショウ水月ミヅキかるうなずき、

半歩はんぽうしろにがり、窓辺まどべかってあるき、通話つうわ開始かいしした。

陽霜宵ヨウ ソウショウです。」

相手あいてこえすこ緊張きんちょうしていて、

ひくこえった。

「……申しもうしわけありません、この時間じかんにご迷惑めいわくをおかけします。先程さきほど鑑識班かんしきはんから初歩的しょほてき結果けっかとどきました。現場げんばにあった符号ふごう構図こうずについてですが……私たちには正直しょうじき理解りかいできず、現存げんぞんする宗教的しゅうきょうてきなトーテムや民俗記録みんぞくきろく照合しょうごうもできません。」

「それから……」相手あいてこえひそめ、まるでだれかにかれないようにはなした。

現場げんばから回収かいしゅうした儀式ぎしき核心かくしんおもわれるしなが、署内しょないでの調査ちょうさちゅう行方不明ゆくえふめいとなりました。」

陽霜宵ヨウ ソウショウ眉間びけんかるしわせてった。

「それはなんですか?」

骨質こつしつうす破片はへんで、符紋ふもんきざまれているうたがいがあります……。目撃者もくげきしゃは、今朝けさ写真しゃしんにはうつっていたと証言しょうげんしていますが、現場げんば清掃せいそうにはつかりませんでした。我々(われわれ)は、第二だいにの……異常事態いじょうじたいこることを懸念けねんしています。」

電話でんわこうがわ一瞬いっしゅん沈黙ちんもくつつまれたのちひくこえくわえた。

上層部じょうそうぶは、そちらに判読はんどくのご協力きょうりょくをお願いするよう推奨すいしょうしています。我々(われわれ)は民俗支援みんぞくしえん申請しんせい手続てつづきをすすめます……。」

陽霜宵ヨウ ソウショウ携帯電話けいたいでんわをしまい、書桌しょくえもどった。

府城フジョウ第二分署ダイニブンショからの連絡れんらくで、現場げんば物証ぶっしょう紛失ふんしつしたことが確認かくにんされました。

現場げんば撮影さつえいされた写真しゃしんには、符紋ふもんきざまれた骨片こっぺん一枚いちまいうつっていましたが、しょもどっての調査ちょうさにはすで行方ゆくえからなくなっていました。」

水月ミヅキはその言葉ことばいて、微笑びしょうみをかべたが、どこかふか理解りかいめているようだった。

ゆめはすでにふでとし、ページきている。そのページだれにもぞくさず、しかしみずかつぎ筆者ひっしゃさがしているのだ。」

陽霜宵ヨウ ソウショウはわずかにうなずき、ほそめて、表情ひょうじょう公務こうむモードの無表情むひょうじょうもどした。声色こわいろき、的確てきかくだった。

籙符ろくふ封印ふういん起動きどうして対応たいおういたしますでしょうか?」

水月ミヅキ躊躇ちゅうちょすることなく、落印らくいんのようなおごそかな口調くちょうった。

許可きょかします。」

かれ右手みぎてばし、空中くうちゅう一筆いっぴつえがいた。無形むけい線条せんじょう指先ゆびさきからあらわれ、やがて空気中くうきちゅう花開はなひらくようにひろがった。

まるですみかみがしたあとのようだった。筆跡ひっせきいろたず、灰燼かいじんのような微光びこうはなち、半空はんくうただよい、ゆっくりとえていった。

かれこえしずかであったが、まるで神託しんたくくだるかのようだった。

「それでは、月映神社つきうつしじんじゃ封籙司ふうろくし後続こうぞくゆだねましょう。」

陽霜宵ヨウ ソウショウ言葉ことばいて、すっと姿勢しせいただし、ちかうような口調くちょうこたえた。

「かしこまりました。」

空気くうきなかに、かすかに墨気ぼっきのこ痕跡こんせきがり、まるで無形むけいページ空間くうかんをゆっくりとめくっているかのようだった。

水月ミヅキ言葉ことば一瞬いっしゅんめ、目線もくせんすころして、まるで落筆らくひつまえ頁角ページのすみのこ余白よはくたしかめるかのようだった。

かれ陽霜宵ヨウ ソウショウつめ、わらぬ語調ごちょうながらも、わずかにゆずれぬ静寂せいじゃくびてった。

「あなたに鎮前ちんぜんまかせる。」

空気くうきなかに、かすかに墨気ぼっきのこ痕跡こんせきがり、まるで無形むけいページ空間くうかんをゆっくりとめくっているかのようだった。

陽霜宵ヨウ ソウショウかる返事へんじをし、てのひらいんむすんだ。

右袖みぎそでなかにある符袋ふたいがかすかに鼓動こどうし、数枚すうまい鎮夢符ちんむふ気配きはい反応はんのうしてかるふるえた。

ほそかで規則的きそくてき摩擦音まさつおんひびき、まるで静かなしずかなよる紙頁しようが自らめくれているかのようだった。

かれ半歩はんぽまえし、ちかいのようないた口調くちょうった。

属下ぞっかはご命令ごめいれいうけたまわり、ただちに準備じゅんびに取りからせていただきます。」

水月ミヅキかすかにうなずき、その瞬間しゅんかん、まるで書頁しょページしずかにひろがりつづけるのを黙認もくにんしたかのようだった。

陽霜宵ヨウ ソウショウは振りかえらずろうとしたが、水月ミヅキ突然とつぜんなに面白おもしろいことをおもしたかのように、かる微笑ほほえんだ。

そのわらごえ非常ひじょうちいさかったが、微妙びみょうひびきをびていて、まるで書頁しょページ奥底おくそこからかぜおとひるがえるようだった。

「それよりも――わたしきみさき現場げんばきましょうか。」かれおだやかな口調くちょうい、眉間みけんにほとんど楽し(たの)しげな皮肉ひにくかべた。

のこされたものは、あの骨片こっぺんだけじゃないかもしれないよ。」

陽霜宵ヨウ ソウショウあしめてかえり、かれつめた。目線めせんがわずかにうごいた。

「ご自身じしんでいらっしゃいますか?」

水月ミヅキはその夢籙むろくをしまい、表紙ひょうしをさっとでた。かびがっていた墨痕ぼっこんきゅうえ、まるでゆめめていないかのようだった。

かれ表情ひょうじょうわらなかったが、こえすこひくくなった。

「もし本当にページ自分じぶんでめくれるのなら、おれたい。どんな筆者ひっしゃが、おれゆめもうとしているのか。」

えると、かれ微笑びしょうみをかべ、書棚しょだなそばにあるハンガーへかってあるき、ふか灰色はいいろのロングコートを取りとりだして羽織はおった。

袖口そでぐちには水紋すいもん銀糸ぎんしほどこされており、一見いっけんすると目立めだたないが、ひかりしたらめき、まるでよる書物しょもつのように流動りゅうどうしていた。

陽霜宵ヨウ ソウショウは軽くいきい込み、げて敬礼けいれいした。

「ただちに準備じゅんびととのえさせていただきます。」

水月ミヅキ夢籙むろく封頁ふうぺい懐中かいちゅうおさめ、かえってかれしずかにった。

いそがなくていい。ゆめはまだめていないけど、みちはもうひらいている。それなら、ってたしかめにこう。」

水月ミヅキはロングコートを羽織はおり、かえってろうとしたが、突然とつぜんなにおもしたかのように、かる口調くちょうくわえた。

「──そういえば、浄地じょうち仕事しごとについてだけど、きみいえのあのわかひと……」

かれわらみをふくんだ口調くちょうはなし、

まるでひさしくっていない友人ゆうじんおもすかのようだった。

そのこえは、ページをめくるときかぜがそっとくかのようにかるやかだった。

かれ試験しけんとおったんだろう?もう正式せいしき浄霊じょうれいができるな。」

陽霜宵ヨウ ソウショウはその言葉ことばいて、わずかに言葉ことばめた。目線めせんうごかなかったが、声色こわいろあきらかにいた。

「……おっしゃるのは、陽澄ヨウ チュヨンのことですか。」

水月ミヅキくびすこかたむけてかれつめ、かる口調くちょうながらも一言一言ひとことひとことおもつたえた。

かれなによりもきみそだてたものであり、夢籙むろくかれなかながれている。今回こんかいけん……もしかれ反応はんのうしめすなら、一緒いっしょせてやるのもわるくないだろう。」

陽霜宵ヨウ ソウショウはしばらく沈黙ちんもくし、眉間びけんにかすかなしわった。

それは躊躇ちゅうちょではなく、言葉ことばにできない確信かくしんだった。

かれはゆっくりとうなずき、「……慎重しんちょう検討けんとうして手配てはいいたします。」とった。

水月ミヅキわらみをかべながらもくちざし、そのはさらにとおくをつめていた。

まるで書頁しょページとおけ、まだかれていない名前なまえらんが、しずかにかがやき、められるのをっているかのようだった。


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竹嶺古道チクレイコドウ山道さんどうはすでに封鎖ふうさされていた。

封鎖線ふうさせんそとでは山風やまかぜけ、いつもどおりのしずけさをたもっていた。

しかし封鎖線ふうさせんない空気くうきはわずかにかたまり、林葉りんようあいだ泥地でいちに、まだっていないなにかがしずかにひそんでいるかのようだった。

童宥澤トウ ユウタクはやくに現場げんば到着とうちゃくした。

上層じょうそうから「水月ミヅキ教授きょうじゅ本人ごほんにん直接ちょくせつ現場げんば調査ちょうさる」と通知つうちけると、かれはすぐにけつけ、朝食ちょうしょくべるひまさえなかった。

なによりも、この著名ちょめい府城フジョウ大学だいがく民俗学みんぞくがく教授きょうじゅは、学界がっかいでの評判ひょうばんべつとしても、警察内部けいさつないぶでのかれへの態度たいどは、まるである神様かみさまたてまつっているかのようだった。

――それは称賛しょうさんではなく、畏敬いけいであり、あらわせない恐怖きょうふじっていた。

なぜなら、かれ関与かんよする事件じけんけっして単純たんじゅんな「殺人さつじん」ではないからだ。

科学かがく説明せつめいできず、ゆめにすらることをおそれる怪奇かいき案件あんけん――制御せいぎょ不能ふのう伝統儀式でんとうぎしき符文ふもんだらけの孤独こどく屋敷やしき前例ぜんれいまったくない神秘しんぴてき図案ずあん――

そのなぞくのは、すべてかれだった。

水月ミヅキ教授きょうじゅ

冷静れいせいで、清冷せいれい近寄ちかよがたく、はな言葉ことばはまるでのようだ。

ときなぞかたり、またあるときには、きみなにたずねるかを最初さいしょからっているかのようである。

かれはその物品ぶっぴん用途ようとけっしてあきかさず、ただかる指差ゆびさしてしずかにった。

「それをのこせ。」

かれ指摘してきした「かぎとなるもの」は、事件じけん解決かいけつ自燃じねんしたり、しずかにえたりする。

まるでもとからこのぞくさず、みじかあらわれ、かれみとめられてから……虚空こくうかえったかのようだ。

なおかれは、ほとんどメディアとかおを合わせることはない。

警察けいさつ報告書ほうこくしょしるされる名前なまえは、ただ一つ──

水月ミヅキ」。

しょくも、所属しょぞくも、一切いっさいなぞつつまれている。

うわさによれば、かれ真実しんじつ肩書かたがきは、いかなる公務こうむ組織そしきにもぞくさず、まるでこの異界いかい狭間はざまある存在そんざいのようだという。

童宥澤トウ ユウタクはそのことをおもし、思わずひたいあせをぬぐった。

現場げんば警察官けいさつかんたちもこえひそめ、呼吸こきゅうさえもしずかにしていた。

そのとき山道口やまみちぐちからふたつの足音あしおとひびいてきた。

きわめてしずかで、たしかな歩調ほちょう

まるできりなかから一歩一歩いっぽいっぽあるしてきたかのようであり、あるいは元来もとらいここにぞくしていた存在そんざいが、半拍はんぱくおくれて姿すがたあらわしたかのようでもあった。

トウ警官けいかん。」陽霜宵ヨウ ソウショウさきくちひらき、落ちおちついた簡潔かんけつ口調くちょうった。

童宥澤トウ ユウタクおどろき、すぐにかえってあるみを一段いちだんはやめた。

かれ視線しせん陽霜宵ヨウ ソウショウかるとおぎ、しずかにつそのかげへとかった――。

その人物じんぶつふか灰色はいいろのロングコートをにまとい、袖口そでぐちにはほとんどえない銀色ぎんいろ水紋すいもん刺繍ししゅうされていた。

薄霧うすぎりなかでぼんやりとかびがり、その表情ひょうじょうしずけさのきわみのようで、視線しせんだれにもけられず、しかしこの場所ばしょのすべてを見透みすかしているかのようだった。

水月ミヅキ

童宥澤トウ ユウタク無意識むいしき一歩いっぽまえし、言葉ことば一時いちじにどもりがちになった。

ヨウ先生せんせい、そして……ミ……水月ミヅキ教授きょうじゅ、あの……」

かれはすぐにもう一歩いっぽまえて、言葉ことば一時いちじまった。

現場げんば資料しりょうはすでに整理せいりしております。符号ふごう図案ずあんもそのままのこっており、さわったりこわしたりしていません……ええと……こちらをごらんください。」

水月ミヅキなにわず、ただかすかにうなずいた。

目光もくこう童宥澤トウ ユウタク肩越かたごしに符紙ふしひもりなす結界けっかいけて、林間りんかん空地くうち奥深おくぶかくを見据みすえた。

その眼差まなざしはあわしずかで、まるでこえ邪魔じゃまされていないページるかのようだった。

きりはほどよくうすく、のこされた地紋ちもんがかすかにえる。それはたんなる血痕けっこんではなく、すみであり、筆跡ひっせきはまだ完全かんぜんかわいていないかのようだった。

陽霜宵ヨウ ソウショウ童宥澤トウ ユウタクからわたされた資料しりょうファイルをけ取り、かるすうページをめくって図案ずあん現場げんば記録きろく一致いっちしていることをたしかめた。

そして目線もくせんかれけ、いた口調くちょうった。

童警官トウ けいかん、ここからは我々(われわれ)がぎます。まず封鎖線ふうさせんそと退しりぞき、すべての非授職ひじゅしょく人員じんいん主要しゅよう印記いんき区域くいきからの一時いちじ退去たいきょ指示しじしてください。」

語調ごちょうおもくないが、自然しぜん命令感めいれいかんただよわせ、まるでしずかなみずみずからそのふかさをさだめるかのようだった。

童宥澤トウ ユウタク無意識むいしき背筋せすじばし、うなずいてこたえた。

「はい。外側そとがわ待機たいきしています。必要ひつようがあれば、いつでもおびください。」

かれ自分じぶん退場たいじょうすべきことをっていた。

水月ミヅキのほとんどうごかない眼差まなざしから、そして陽霜宵ヨウ ソウショウ言葉ことばただよ結界けっかい気配けはいから感じかんじとったのだ――

ここでこれからはじまることは、もはや人間界にんげんかい規則きそくにはしばられず、べつの「非人間世界ひにんげんせかい法則ほうそく」にのっとった領域りょういき運営うんえいであると。

かれ数歩すうほしりぞきながらも、どうしてもかえって何度なんどけてしまった。

封鎖線ふうさせんきわち、しずかにあの二人ふたりかげ林間りんかん空地くうちあるるのを見送みおくった。

まるで一頁いちページがひっそりとひろがっていく夢のゆめのしょあるんでいくかのようだった――。

こころかんだのは、ながめてきたが、いつもまたよみがえおもいだった。

――あのは、本当にただのなのだろうか?

かれはいつも感じていた。

あの二人ふたりがまとっているのは、空気くうきとはわないしずけさ――それはたんなる静寂せいじゃくではなく、「おもさ」だった。

それは圧迫あっぱくかんあたえるおもさではなく――

むしろ、安心あんしんをもたらすおもさだった。

水月ミヅキ陽霜宵ヨウ ソウショウ印記いんき図騰ととえ範囲はんいあしれると、周囲しゅうい空気くうきにおいがわった。

それは腐敗臭ふはいしゅうでも湿しめったつちのカビくささでもなく――すみがまだかわいていないようなにおいだった。

まるできたての文字もじのように、筆先ふでさきにはまだねつのこり、文字もじ空気中くうきちゅうただよっている。

それらはまだ読みよみとられておらず、いんされていなかった。

それは無形むけいの「頁気ページき」のようで、未決みけつ感覚かんかくともない、一歩いっぽれるたびに、まだかれていないふみなかあるいているようだった。

陽霜宵ヨウ ソウショウあしめ、眉間びけんにわずかにしわせ、表情ひょうじょう冷静れいせいから警戒けいかいへとわった。

「……ちがう。」

かれこえきわめてちいさかったが、まるで封頁ふうぺいふちたた警鐘けいしょうのようにひびいた。

水月ミヅキなにわず、わずかにくびかたむけ、かれ肩越かたごしに視線しせんを送り、図陣とじん中央ちゅうおう見据みすえた。

背後はいごから山風やまかぜき、林葉りんようらし、紙片しへん残灰ざんかいこまかなちりげた。

樹影じゅえいらぎ――その瞬間しゅんかん竹林ちくりん全体ぜんたいがまるで巨大きょだい書頁しょページとなり、風音かざおと光影こうえい一筆一筆いっぴついっぴつしずかにめくりあげていくかのようだった。

かれらは頁心ページのなかごころち、ゆめしょはまだわっていなかった。

すみこしゆめこんかみとす霊塵れいじんふでこころいき一頁いちページかたず。ろくまよいのみちいんおさゆめこえあれどこたえず、かたちあれどまことならず。れんせい――ふう。」

陽霜宵ヨウ ソウショウひくこえ呪文じゅもんとなえ、右手みぎていんむすんだ。手のひらにかすかなひかりかび、図文ずもんあらわれた。

斂夢咒れんむじゅ」とは、夢籙むろく拡散かくさん追跡ついせきする簡易かんい封結術ふうけつじゅつであり、一時的いちじてき夢頁ゆめページ筆意ひつい安定あんていさせ、逸散いっさんする書写しょしゃ抑制よくせいするためのものである。

しかし、符光ふこう空中くうちゅう数秒すうびょうかんだけ維持いじされたあと突然とつぜん爆裂ばくれつした――

おともなく、無響むきょうにしてこまかくくだけた黒灰こくはいとなり、まるですみてんただようかのようにり、跡形あとかたのこさなかった。

空気くうきはまるで一瞬いっしゅんこだましているかのようだった。

陽霜宵ヨウ ソウショウくちびるむすび、封頁ふうぺいふではしらせるようなおも口調くちょうった。

斂夢れんむ失効しっこう。」

かれげ、かすかにひか図陣とじん筆痕ひっこん直視ちょくしした。

召印しょういん未封みふうでございます。ページはなお流動りゅうどうしております。」

水月ミヅキ円心えんしんあるみ入り、足先あしさきはかつて遺体いたい発見はっけんされた場所ばしょにぴたりとかさなった。

現場げんばはすでに初期しょき清掃せいそうほどこされていたものの、地面じめんのこあと圧痕あっこんは、まだかすかにれた。

それらは、りきっていない朝霧あさぎり湿しめったつちしたしずんでいる。

赤褐色せっかっしょく残滓ざんしどろみ込み、

まるでまだ筆先ふでさきはなれていないかのような筆跡ひっせきであり――

わりなきつづきの気配けはいひそめていた。

かれはかがみ込み、指先ゆびさきをそっと地面じめんれた。

指先ゆびさき地面じめんれたその瞬間しゅんかん空気くうきかすかにふるえた。それはおとではなく、静寂せいじゃくなか筆勢ひっせい反響はんきょうしたかのようだった。

陽霜宵ヨウ ソウショウはすぐに異変いへん気付きづき、ひくこえびかけた。

尊上そんじょう?」

水月ミヅキ返事へんじをせず、しずかにささやいた。まるでページ余白よはくかれた注釈ちゅうしゃくのように――

「……このページは、まだつづけられている。」

かれ語調ごちょうにはおどろきはなく、ただ預言者よげんしゃのようなしずかな確信かくしんただよっていた。

うしなわれたうけへんは、そのつぎぎょうつづっている。」

かれはゆっくりとかおげ、林梢りんしょうえて、遠方えんぽうのかすかにえかけていない天光てんこうつめた。

「ここには――いない。」

「それはべつ場所ばしょにあります。」

水月ミヅキしずかに、まるで頁角ページのすみ空白くうはくをぴったりとめるかのようにかたった。

陽霜宵ヨウ ソウショウじてしばらくしずかにし、内省的ないせいてき表情ひょうじょうひくこえ推論すいろんくちにした。

夢籙むろくほか筆者ひっしゃさがしている……もしかして、だれかが我々(われわれ)よりさきにここへて、そして――ふでったのか?」

水月ミヅキはゆっくりとがり、右手みぎて長袍ちょうほうすそをそっとつかんだ。指先ゆびさき生地きじかるくなぞり、ほんのわずかにほこりを払いとすようにうごかした。

その動作どうさ繊細せんさいしずかに、まるでとき一瞬いっしゅんまったかのようだった。

かれ竹林ちくりん隙間すきまから微光びこうを見つめ、ゆっくりとした口調くちょうで話しはなめた。まるで読書どくしょ合間あいまにさっとめる走りきのように――

「それは解読かいどくされるためにあるのではない。」

抑圧よくあつされるためでもない。」

「このページ(ページ)は――ただ書きわられたいだけなのだ。」

言葉ことばがわずかに途切とぎれ、かれ口元くちもとかすかにほころんだ。まるで、これからページがめくられる予兆よちょうたかのように。

かぜけ、枝葉えだはれて、まるでページをめくるおとのようだった。

「そして、わたしは――」かれはそっとわらみをかべ、つづけた。

「ただたしかめにたのだ。いったいだれが――ふでひろったのかを。」

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