第二章 紙上(しじょう)の聲(こえ)・未封(みふう)
夢の頁はまだ綴じられず、万の言のごとく籙となる。
人の声が立つたびに、紙上には筆が走る気配がある。
誰が書の中に人を書き、誰が声の外で夢を聴いているのか。
―――――――――――紙上の聲・未封
朝の七時三十分。
賑わう府城の街――
都市はようやく目を覚ましたばかりで、交差点の信号はどこか間延びして見える。
街角の朝食屋では、鉄板の上で肉片や玉子焼き、大根餅が熱気を纏って横たわり、空気には香ばしい匂いと油煙が漂っていた。
路地の入り口にある有名な豆乳屋では、いつものようにテレビがつけられていた。
古びた小さな画面が壁の隅に設置され、ガムテープで耐震マットが貼られている。
映像にはわずかな砂嵐が混じり、ニュース番組の音量は少し大きめで、油条が鍋に落ちる音をかき消していた。
「……現場はすでに警察によって封鎖されており、事件が発生したのは今朝五時半ごろ。
場所は本市東郊の『竹嶺古道』とされています。
通報者の話によると、遺体の傍らには祭祀を思わせる痕跡が残されていたとのこと。
現在、府城第二分署は特別捜査班を立ち上げ、調査を進めています――」
画面には、霧がまだ立ちこめる竹林の空き地が映し出されていた。
黄色い規制線がその一角を取り囲み、上空にはドローンがゆるやかに滑空している。
モザイク処理が施された地面の文様は、それでもなおはっきりと見て取れた。
赤褐色の筆跡が不規則な円環を描き、その中心はぽっかりと何も描かれておらず、まるで何かを待っているかのようだった。
店内では、何人かの常連客が朝食をとりながら、テレビの画面にちらりと目を向けていた。
油条を噛む音がパリッと響き、
豆乳の湯気がふわりと立ち上る。
テレビの中では、記者が重々(おもおも)しい口調で事件を伝えていたが、映像は電波の乱れで断続的にちらついていた。
「……また、暇を持て余した誰かが、
怪しい宗教ごっこでも始めたのかねぇ。」
誰かが眉をひそめて、ぼそりと呟いた。
「今流行りの、ああいう配信グループじゃない?
最近の若い子って、ああいう“没入型儀式ごっこ”が好きなんでしょ!」
もう一人が冗談めかして笑った。
だが彼らは、どこか気にするように、揃ってもう一度テレビ画面に視線を向けた。
その瞬間、画面が切り替わった。
映し出されたのは、上空から撮影された現場写真――
赤褐色の筆跡が描く環状の図騰。
それは符にも見え、呪にも見え、あるいはまだ書き終えていない何かの文字のようでもあった。
交差する線には焦がれ跡が残され、まるで蝋燭の涙跡のようであり、あるいは乾いた血痕にも見えた。
「……よくできてるな……これ、映画の撮影か何かか?」
入口近くの席に座っていたスーツ姿の男が、ぽつりと呟いた。
その一言を最後に、誰も言葉を発しなかった。
言いようのない不安が、店内の空気にじわじわと染み込んでいくようだった。
一方、持ち帰りカウンターの前に立っていた女子高校生は、片耳だけに付けたブルートゥースヘッドホンを光らせながら、手元のスマホを無言でスワイプし続けていた。
彼女はテレビを見なかった。
――あの図は、とっくに見ていた。
しかも、今のニュース映像よりも、ずっと鮮明なものを。
ニュースよりも早く、SNSではすでに話題が加熱していた。
Instagramのストーリーズでは、「#竹嶺古道」のタグ付き写真が爆発的に拡散されている。
写真は、現場の片隅からこっそり撮影されたものだった。
構図は傾き、画質も粗い。
だがその「呪いの図にしか見えない模様」のせいで、
瞬く間に拡散されていった。いくつかのインフルエンサー系アカウントは、写真の色調を意図的に暗く加工し、赤褐色の筆跡の細部を強調して投稿した。
添えられたタイトルは、こうだ:
【これは映画じゃない。今朝、実際に起きた出来事。#心霊記録 #招夢呪 #竹嶺古道】
さらに、画像認識プログラムによって線の再構築が行われた図も投稿され、一部のユーザーはAIを用いて、図陣全体の原型を推定・復元する試みを行った。
未完成だった円の空白部分と中心の欠けを補完した結果――
数年前に発生した、とある民俗儀式の暴走事件で記録された『夢籙印式』と、驚くほどの一致を見せた。
Dcardの匿名掲示板には、こう書かれた投稿が現れた:
高校のとき、夢でまったく同じ図を見たことがあります。あの図は動いていて、誰かが筆で書き足しているように、
一筆ずつ夢の中に描かれていくんです。目が覚めたら、手のひらに赤い痕があって……。
これ、何か知ってる人いますか?
投稿には、スマホで撮った手描きのスケッチ画像も添えられていた。
コメント欄はまるで決壊したかのように、数百件もの返信で埋め尽くされた――「あれ、目みたいじゃない?見つめ返されてる気がして、めっちゃ怖かった……」
「同じ人いない?夢の中でページをめくる音、ずっと聞こえるんだけど……」
「うわ、これ……先週夢で見たやつと全く同じじゃん。」
「たしか『山夢紀聞』に出てたこの陣、名前はたしか『籙印召形』……夢の中のモノを呼び出すためのやつだったはず。」
「民俗学サークルの先輩が言ってたけど、あの図は“描く”んじゃなくて“書く”ものらしいよ。書式を使うタイプの召喚陣で、名前は『夢籙』っていうんだって。」
Threadsでも議論は白熱している。
「この図、長く見つめちゃダメって。友達が昨日の夢で見たんだけど、あれ、勝手に動いたんだって。
筆跡が広がっていくみたいに……」「え、私も手のひら赤くなってるんだけど!?ちょうど真ん中に丸い跡があって、あの中心の円にそっくり……。偶然すぎない?」
「うちの父、巫なんだけど、あれは呪文じゃなくて“書”だって言ってた。……人を“書き込む”タイプのやつ。」
「あれ、描いてるんじゃなくて“書いてる”んだよ。ただ……あの字、俺たちには読めない。」
「うちの祖母が言ってた。“夢籙図”って呼ばれてて、昔は夢を封じたり、霊を鎮めたりするために使われてたって。
でもね、その図が開かれたら、人間のほうが“夢に記憶される”らしいよ。」
「これ……誰が描いてるの?ていうか……そもそも、人間が描いたものじゃないのかも……。」ReelsやTikTokでも、「夢籙図に“記録された”人ごっこ」を真似する動画が流行っている。
中には、例の図を加工してフィルターにし、「このフィルターを貼ると、自分が“次の筆者”かどうかわかる」なんて投稿する者まで現れた。
だが、そんな中──
あの図を見たという者たちの一部が、同じ“文章”を夢の中で繰り返し見始めた、という噂が出はじめている。
現場の写真は、処理済みにもかかわらず高速で拡散され、解析ソフトによって“修復”され、一部の細部が明らかに出た。
さらに──過去の禁書、寺社の壁画、清朝時代の夢籍の断片などを照合し、ある研究者がこう断言したのだ:
「これは未完成の“夢籙印式”。祭祀のためじゃない……
これは――“召喚”のためのものだ。」
返信のひとつひとつが、妙にリアルで――
まるで彼らはただの“読者”じゃなく、あの儀式の“当事者”だったかのように。
まるで実際に、その場にいて、目撃していたかのようだった。
わずか数時間のうちに、「#竹嶺古道」は各種SNSのトレンド入りを果たした。
夢に関する報告が一気に押し寄せ、海外の留学生を名乗るユーザーまでもが、同じ図のバリエーションを“見た”と投稿。
こうして、初めての“本物の恐慌”が、ネット上に広がりはじめた――。
その少女は、わずかに眉をひそめた。
指先が、交差する線の中央で止まる。
胸の奥に、理由のない違和感がふいに湧き上がった。
――これ、人間に“見せる”ためのものじゃない。
“夢”に、見せるためのものだ。
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城北。府城大学。人文学部・六階。
朝の光が高窓から差し込み、長らく封鎖されていた一室の研究室を、斜めに照らしていた。
窓際の本棚は壁のように高く、背表紙は古び、ページは黄ばんでいる。
空気は静かすぎた。
まるで、時よりも先に――何かが、ここに辿り着いていたかのように。
研究室の中はほの暗く、一つだけの読書灯が机の上を照らしていた。
書類のページには、あたたかみのある微かな光が差し、わずかに黄みがかって見える。
水月は机の後ろに座り、静かに目の前のモニターを見つめていた。
ニュースの音声は空気の中に波紋のように広がり、書棚の壁に反射して、静かに打ち寄せていた。
「アナウンサーの林芷晴です。今朝五時半、東郊の『竹嶺古道』で死亡事件が発生しました。警察の初動調査によると、死亡したのは成人男性で、身元はいまだ不明とのことです。現場には、多数の祭祀用の道具と思われる物品が残されており、単純な転倒事故や突発的な病死ではない可能性が高いと見られています。それでは、現場の様子を詳しくお伝えします――」
画面が切り替わる。現場の記者はマイクを手に、規制線の外に立っていた。
背景には、薄暗く濃い竹林が広がっており、時折、蝉の声が途切れながら聞こえてくる。
「はい、スタジオ。私が今いるのは、事件の発生現場の外縁部になります。警察によりますと、今朝五時過ぎごろ、近隣に住む七十代の男性が、毎朝の散歩中に異変に気づき、すぐに通報したとのことです。警察官が駆けつけたところ、竹林の空き地に、男性の遺体が仰向けで倒れており、周囲には使用済みと思われる黒いロウソクが並べられ、地面には赤褐色の塗料で描かれた不明の図形が確認されました。」
カメラは、ぼかし処理された映像へと切り替わる。
映し出されたのは、一つの渦状に交差する奇妙な文様。
それは漢字のようでもあり、梵字のようにも見える。
そして、その中心には、ぼんやりと人型の影が浮かび上がっていた――。
【映像は加工済みです。視聴者の皆様はご注意の上、ご覧ください。】
「非公式な情報によりますと、遺体は暗い色の衣服を着用しており、手のひらは上を向き、指先や目尻には、墨のような痕跡が点在していたとのことです。
また、遺体の周辺には争ったり、引きずられたりした形跡は見られず、現在、警察は一般的な暴力事件の可能性を排除し、宗教的行為や民間信仰に関連した儀式の可能性も含めて調査を進めているということです。
また、現場に残された図形が通常の事件とは大きく異なることから、地元の大学に所属する民俗学の専門家にも協力を要請しているとのことです。」
「現在、警察は周辺の登山口に設置された監視カメラの映像を確認し、事件当時の出入り(でいり)人物の特定を進めています。
あわせて、情報をお持ちの方々(かたがた)に対し、協力を呼びかけています。
一方、遺体の正確な死因や、現場に描かれた図形の意味については、今後の鑑識および学術的な分析を待つ必要があるとのことです。」
(画面がスタジオに戻り、アナウンサーの表情は慎重に切り替わる)
「現在、本件は府城第二分署によって捜査が主導されており、専門の捜査班も設置されたとのことです。
事件当日、午前四時から五時のあいだに竹嶺古道周辺にいた方は、0800-XXX-XXXまでご連絡いただけますよう、お願いいたします。
続報につきましては、今後も引き続き、お伝えしてまいります。」
画面には、朝のニュースが繰り返し映し出されていた。
報道の声と映像は、まるで終わりのないループのように、繰り返されていた――。
竹嶺古道の空撮映像がゆっくりと流れ、霧がまだ完全に晴れていない林間の空き地を、一寸一寸丁寧に掃いていく。
赤褐色の模様は、焼け跡のように地面に散りばめられ、湿った冷たい土の上に筆跡と句読点が刻まれていた。
中央にある未封の円は、静かに横たわり、あたかも保留された空白のように、次の一筆を待っている。
また、暗闇に潜む豹のようでもあり、無音でじっと身を潜め、いつでも飛びかかる準備ができているかのようだった。
画面は静止しているが、どこか胸騒がする。
タブレットの画面は、一ページのSNS総覧スクリーンショットに固定されていた。
Dcardの匿名投稿、Threadsの短評、Instagramのストーリーズ、再生回数が一万を超えた短編動画が次々(つぎつぎ)と流れ、まるで編集されていない夢のページが重なり合い、補われ、繰り返し重ねられているようだった。
画面の隅には字幕が流れ、SNSプラットフォームのハッシュタグが急速にトレンド入りしていた。
それぞれのコメントは、まるで一筆のようだった――
夢の中で見たと言う者もいれば、同じ図柄を描いた者もいる。
図が動くと言う者、ページをめくる音が聞こえると言う者もいた。
さらには、これは図ではなく“書”であり、描くのではなく“書いている”のだと語る者までいた。
水月は何も口にせず、ただ静かに見つめていた。
傍観者として、彼はいつもどおりの平穏さを保っていた。
ニュース映像とSNSのコメント画面が交互に画面を切り替えながら映り、まるで異なる二つの言語のページが、音なきままに、しかし構造を保ちながらめくり合っているかのようだった。
人々(ひとびと)は解釈しようとし、嘲笑し、模倣し、さらには予測まで試みていた。
ある者は宗教だと言い、またある者は悪戯だと言い、さらに神のメッセージだと言う者もいた――。
しかし、水月は知っていた。それらはすべて違っているのだと。
指先だけが、木製の書桌表面にそっと空中を描くように筆跡をなぞった――
それはテレビに映っている図を模倣したものではなく、それよりも古く、より完全なバージョンだった。
彼の指は空中に漂い、まるで見えない頁の隅に触れようとしていた。
――それは単なる陣でもなく、単純な符号でもなかった。
それは一枚の紙であり、書き終えていない夢の書の空白であった。
今、それは人間界でめくられようとしている。
水月はほんの少し目を閉じた。
それは冷淡さではなく、理解が深すぎて、反応を必要としないからだった。
「筆は落ちず、夢は止まらない。書は封じられず、名は帰らず。」
彼はすでに夢の中で、その筆痕の原型を見ていた。
正確に言えば、それは彼から伸び出した筆であった。
彼が直接書いたものではないが、筆跡の構造、起点、リズムは、彼の文字と酷似していた。
まるで誰かが彼を模倣しているかのようで、また、彼が残した空白の一頁が、何かによって拾われているかのようだった。
「……まだ遺されてしまったのか。」
彼の声は、紙の頁の間から漏れ出る風の音のようにかすかだった。
ドン、ドン。
戸外から礼儀正しく、短いリズムで二回のノック音が響いた。
「進。」水月は振り返らず、静かにそう告げた。
陽霜宵は扉を押し開けて、静かに室内へ入った。
黒い服装は端正で、動作は変わらず落ち着いていた。
彼は書類を一束抱え、整然と机の片隅に置いた。
書類を所定の位置に戻すその一瞬、目尻がかすかに動いた。
「もうご覧になっているはずです。」
水月はノートパソコンを閉じた。
そのパタンという清らかな蓋の音が、静かな研究室にひときわ響いた。
電子音はたちまち消え、残ったのは、紙の頁がめくれる微かな音だけだった。
陽霜宵は束の一番上の書類を取り出し、両手で丁寧に水月に差し出した。
「現場写真、SNSのスクリーンショット、そして警察から引き渡された初動資料です。
彼らは正式に民俗学者の介入を要請しました。」
水月は返事をせず、陽霜宵が差し出した資料を静かに繰り返し見ていた。
そこには拡大処理された図柄が写り、蛍光ペンでいくつかの重要な箇所が囲まれている。
筆致は異様な連筆を見せ、欠けた筆尾や、そして中央に位置する、未だに埋められていない空白が際立っていた。
「彼らは言っていました……宗教や民俗信仰だと。」陽霜宵は一瞬間を置き、声を潜めて続けた。
「ですが、君様も私も知っています、これは人間に書けるものではないと。」
「これは誰かが陣を描いているのではございません。」
水月はついに体を動かし、椅子の背にもたれかかっていた姿勢を少し正し、手に持ったその図の中央を見つめた。
そこには、閉じられていない円が一つあり、まるでまだ開いていない眼のようであり、また、名前を待っている空白のようでもあった。
彼は静かに尋ねた。
「あれは、夢の中でも自ら書き始めているのでしょうか?」
「それは夢でございます。筆を執られる方をお探ししているのです。」陽霜宵の語調は、まるで呪文のように落ち着いていた。
水月は頷き、まるで何かを確かめるかのようだった。
彼は立ち上がり、書棚の一番下から、表紙は平凡ながらも題名のない厚い一冊を取り出した。
その表紙は水墨画のような光沢を帯び、朝日の光に照られて、かすかに墨の気配を漂わせていた。
ページがめくられた瞬間、もともと白紙だった内側の頁に、かすかに浮かび上がる筆跡が現れ、まるで紙が呼吸しているかのようだった。
「それは私が残した筆跡ではありません。」彼は淡く言った。
「しかし、筆跡が残された位置は、まさに絶妙です。」
陽霜宵はその言葉を聞いて、表情がわずかに動いた。「もうお一人の……夢籙の筆者でいらっしゃるとお考えでしょうか?」
水月は書物を閉じ、振り返って窓の外、遠くの空を見つめた。
霧はまだ晴れておらず、遠い山々(やまやま)は、まるで眠りから覚めていない頁のように横たわっていた。
「必ずしも人間とは限りません。」彼は言いました。「もしかすると……まだ完成していない夢が、自ら筆を見つけたのかもしれません。」二人の言葉が終わると同時、
陽霜宵がシャツの内ポケットに入れていた携帯電話が、かすかに震えた。
音は極めて小さかったが、
この静まり返った研究室では、まるで針が落ちるかのように響いた。
彼は携帯電話を取り出し、画面に表示された着信者名を一瞥した。
「府城第二分署・童宥澤」と表示されていた。
陽霜宵は水月に軽く頷き、
半歩後ろに下がり、窓辺へ向かって歩き、通話を開始した。
「陽霜宵です。」
相手の声は少し緊張していて、
低い声で言った。
「……申し訳ありません、この時間にご迷惑をおかけします。先程、鑑識班から初歩的な結果が届きました。現場にあった符号や構図についてですが……私たちには正直理解できず、現存する宗教的なトーテムや民俗記録と照合もできません。」
「それから……」相手は声を潜め、まるで誰かに聞かれないように話した。
「現場から回収した儀式の核心と思われる品が、署内での調査中に行方不明となりました。」
陽霜宵は眉間に軽く皺を寄せて言った。
「それは何ですか?」
「骨質の薄い破片で、符紋が刻まれている疑いがあります……。目撃者は、今朝の写真には写っていたと証言していますが、現場の清掃時には見つかりませんでした。我々(われわれ)は、第二の……異常事態が起こることを懸念しています。」
電話の向こう側は一瞬の沈黙に包まれた後、低い声で付け加えた。
「上層部は、そちらに判読のご協力をお願いするよう推奨しています。我々(われわれ)は民俗支援の申請手続きを進めます……。」
陽霜宵は携帯電話をしまい、書桌へ戻った。
「府城第二分署からの連絡で、現場の物証が紛失したことが確認されました。
現場で撮影された写真には、符紋が刻まれた骨片が一枚映っていましたが、署へ戻っての調査時には既に行方が分からなくなっていました。」
水月はその言葉を聞いて、微笑みを浮かべたが、どこか深い理解を秘めているようだった。
「夢はすでに筆を落とし、頁は生きている。その頁は誰にも属さず、しかし自ら次の筆者を探しているのだ。」
陽霜宵はわずかに頷き、目を細めて、表情を公務モードの無表情に戻した。声色は落ち着き、的確だった。
「籙符の封印を起動して対応いたしますでしょうか?」
水月は躊躇することなく、落印のような厳かな口調で言った。
「許可します。」
彼は右手を伸ばし、空中に一筆を描いた。無形の線条が指先から現れ、やがて空気中で花開くように広がった。
まるで墨が紙を焼き焦がした跡のようだった。筆跡は色を持たず、灰燼のような微光を放ち、半空に漂い、ゆっくりと消えていった。
彼の声は静かであったが、まるで神託が下るかのようだった。
「それでは、月映神社の封籙司に後続を委ねましょう。」
陽霜宵は言葉を聞いて、すっと姿勢を正し、誓うような口調で答えた。
「かしこまりました。」
空気の中に、かすかに墨気が残る痕跡が立ち上がり、まるで無形の頁が空間をゆっくりとめくっているかのようだった。
水月は言葉を一瞬止め、目線を少し下ろして、まるで落筆の前に頁角に残る余白を確かめるかのようだった。
彼は陽霜宵を見つめ、変わらぬ語調ながらも、わずかに譲れぬ静寂を帯びて言った。
「あなたに鎮前を任せる。」
空気の中に、かすかに墨気が残る痕跡が立ち上がり、まるで無形の頁が空間をゆっくりとめくっているかのようだった。
陽霜宵は軽く返事をし、掌で印を結んだ。
右袖の中にある符袋がかすかに鼓動し、数枚の鎮夢符が気配に反応して軽く震えた。
細かで規則的な摩擦音が響き、まるで静かな夜に紙頁が自らめくれているかのようだった。
彼は半歩前に踏み出し、誓いのような落ち着いた口調で言った。
「属下はご命令を承り、ただちに準備に取り掛からせていただきます。」
水月は微かに頷き、その瞬間、まるで書頁が静かに広がり続けるのを黙認したかのようだった。
陽霜宵は振り返らず去ろうとしたが、水月は突然何か面白いことを思い出したかのように、軽く微笑んだ。
その笑い声は非常に小さかったが、微妙な響きを帯びていて、まるで書頁の奥底から風の音が翻るようだった。
「それよりも――私と君で先に現場を見に行きましょうか。」彼は穏やかな口調で言い、眉間にほとんど楽し(たの)しげな皮肉を浮かべた。
「残されたものは、あの骨片だけじゃないかもしれないよ。」
陽霜宵は足を止めて振り返り、彼を見つめた。目線がわずかに動いた。
「ご自身でいらっしゃいますか?」
水月はその夢籙をしまい、表紙をさっと撫でた。浮かび上がっていた墨痕は急に消え、まるで夢が覚めていないかのようだった。
彼の表情は変わらなかったが、声は少し低くなった。
「もし本当に頁が自分でめくれるのなら、俺も見たい。どんな筆者が、俺の夢に書き込もうとしているのか。」
言い終えると、彼は微笑みを浮かべ、書棚の傍にあるハンガーへ向かって歩き、深い灰色のロングコートを取り出して羽織った。
袖口には水紋の銀糸が施されており、一見すると目立たないが、光の下で揺らめき、まるで夜の書物のように流動していた。
陽霜宵は軽く息を吸い込み、手を挙げて敬礼した。
「ただちに準備を整えさせていただきます。」
水月は夢籙の封頁を懐中に収め、振り返って彼に静かに言った。
「急がなくていい。夢はまだ醒めていないけど、道はもう開いている。それなら、入って確かめに行こう。」
水月はロングコートを羽織り、振り返って立ち去ろうとしたが、突然何か思い出したかのように、軽い口調で付け加えた。
「──そういえば、浄地の仕事についてだけど、君の家のあの若い人……」
彼は笑みを含んだ口調で話し、
まるで久しく会っていない友人を思い出すかのようだった。
その声は、ページをめくる時に風がそっと吹くかのように軽やかだった。
「彼も試験を通ったんだろう?もう正式に浄霊ができるな。」
陽霜宵はその言葉を聞いて、わずかに言葉を止めた。目線は動かなかったが、声色は明らかに落ち着いた。
「……おっしゃるのは、陽澄のことですか。」
水月は首を少し傾けて彼を見つめ、軽い口調ながらも一言一言を重く伝えた。
「彼は何よりも君が育てた者であり、夢籙の血も彼の中を流れている。今回の件……もし彼が反応を示すなら、一緒に見せてやるのも悪くないだろう。」
陽霜宵はしばらく沈黙し、眉間にかすかな皺が寄った。
それは躊躇ではなく、言葉にできない確信だった。
彼はゆっくりと頷き、「……慎重に検討して手配いたします。」と言った。
水月は笑みを浮かべながらも口を閉ざし、その目はさらに遠くを見つめていた。
まるで書頁を通り抜け、まだ書かれていない名前の欄が、静かに輝き、埋められるのを待っているかのようだった。
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竹嶺古道の山道はすでに封鎖されていた。
封鎖線の外では山風が吹き抜け、いつも通りの静けさを保っていた。
しかし封鎖線内の空気はわずかに凝り固まり、林葉の間や泥地に、まだ散り去っていない何かが静かに潜んでいるかのようだった。
童宥澤は早くに現場へ到着した。
上層から「水月教授ご本人が直接現場調査に来る」と通知を受けると、彼はすぐに駆けつけ、朝食を食べる暇さえなかった。
何よりも、この著名な府城大学民俗学教授は、学界での評判は別としても、警察内部での彼への態度は、まるで歩く神様を奉っているかのようだった。
――それは称賛ではなく、畏敬であり、言い表せない恐怖が混じっていた。
なぜなら、彼が関与する事件は決して単純な「殺人」ではないからだ。
科学で説明できず、夢にすら見ることを恐れる怪奇な案件――制御不能の伝統儀式、符文だらけの孤独な屋敷、前例が全くない神秘的な図案――
その謎を解くのは、すべて彼だった。
水月教授。
冷静で、清冷、近寄り難く、話す言葉はまるで詩のようだ。
時に謎を語り、またある時には、君が何を尋ねるかを最初から知っているかのようである。
彼はその物品の用途を決して明かさず、ただ軽く指差して静かに言った。
「それを残せ。」
彼が指摘した「鍵となる物」は、事件解決後、自燃したり、静かに消えたりする。
まるで元からこの地に属さず、短く現れ、彼に認められてから……虚空へ還ったかのようだ。
なお彼は、ほとんどメディアと顔を合わせることはない。
警察の報告書に記される名前は、ただ一つ──
「水月」。
職も、所属も、一切が謎に包まれている。
噂によれば、彼の真実の肩書は、いかなる公務組織にも属さず、まるでこの世と異界の狭間を歩く存在のようだという。
童宥澤はそのことを思い出し、思わず額の汗をぬぐった。
現場の警察官たちも声を潜め、呼吸さえも静かにしていた。
その時、山道口から二つの足音が響いてきた。
極めて静かで、確かな歩調。
まるで霧の中から一歩一歩と歩み出してきたかのようであり、あるいは元来ここに属していた存在が、半拍遅れて姿を現したかのようでもあった。
「童警官。」陽霜宵が先に口を開き、落ち着いた簡潔な口調で言った。
童宥澤は驚き、すぐに振り返って歩みを一段速めた。
彼の視線は陽霜宵を軽く通り過ぎ、静かに立つその影へと向かった――。
その人物は深い灰色のロングコートを身にまとい、袖口にはほとんど見えない銀色の水紋が刺繍されていた。
薄霧の中でぼんやりと浮かび上がり、その表情は静けさの極みのようで、視線は誰にも向けられず、しかしこの場所のすべてを見透かしているかのようだった。
水月。
童宥澤は無意識に一歩前に踏み出し、言葉が一時にどもりがちになった。
「陽先生、そして……ミ……水月教授、あの……」
彼はすぐにもう一歩前に出て、言葉が一時に詰まった。
「現場の資料はすでに整理しております。符号や図案もそのまま残っており、触ったり壊したりしていません……ええと……こちらをご覧ください。」
水月は何も言わず、ただ微かに頷いた。
目光は童宥澤の肩越しに符紙や紐が織りなす結界を抜けて、林間の空地奥深くを見据えた。
その眼差しは淡く静かで、まるで声に邪魔されていない頁を繰るかのようだった。
霧はほどよく薄く、残された地紋がかすかに見える。それは単なる血痕ではなく、墨であり、筆跡はまだ完全に乾いていないかのようだった。
陽霜宵は童宥澤から渡された資料ファイルを受け取り、軽く数ページをめくって図案と現場の記録が一致していることを確かめた。
そして目線を彼に向け、落ち着いた口調で言った。
「童警官、ここからは我々(われわれ)が引き継ぎます。まず封鎖線の外へ退き、すべての非授職人員に主要な印記区域からの一時退去を指示してください。」
語調は重くないが、自然と命令感を漂わせ、まるで静かな水が自らその深さを定めるかのようだった。
童宥澤は無意識に背筋を伸ばし、頷いて答えた。
「はい。外側で待機しています。必要があれば、いつでもお呼びください。」
彼は自分が退場すべきことを知っていた。
水月のほとんど動かない眼差しから、そして陽霜宵の言葉に漂う結界の気配から感じ取ったのだ――
ここでこれから始まることは、もはや人間界の規則には縛られず、別の「非人間世界の法則」に則った領域の運営であると。
彼は数歩下きながらも、どうしても振り返って何度か目を向けてしまった。
封鎖線の際に立ち、静かにあの二人の影が林間の空地へ歩み入るのを見送った。
まるで一頁がひっそりと広がっていく夢の書に歩み入んでいくかのようだった――。
心に浮かんだのは、長く押し込めてきたが、いつもまた蘇る思いだった。
――あの図は、本当にただの図なのだろうか?
彼はいつも感じていた。
あの二人がまとっているのは、空気とは合わない静けさ――それは単なる静寂ではなく、「重さ」だった。
それは圧迫感を与える重さではなく――
むしろ、安心をもたらす重さだった。
水月と陽霜宵が印記図騰の範囲に足を踏み入れると、周囲の空気の匂いが変わった。
それは腐敗臭でも湿った土のカビ臭さでもなく――墨がまだ乾いていないような匂いだった。
まるで書きたての文字のように、筆先にはまだ熱が残り、文字は空気中に漂っている。
それらはまだ読み取られておらず、印も押されていなかった。
それは無形の「頁気」のようで、未決の感覚を伴い、一歩踏み入れるたびに、まだ書かれていない文の中を歩いているようだった。
陽霜宵は足を止め、眉間にわずかに皺を寄せ、表情は冷静から警戒へと変わった。
「……違う。」
彼の声は極めて小さかったが、まるで封頁の縁を叩く警鐘のように響いた。
水月は何も言わず、わずかに首を傾け、彼の肩越しに視線を送り、図陣の中央を見据えた。
背後から山風が吹き、林葉を揺らし、紙片や残灰、細かな塵を巻き上げた。
樹影が揺らぎ――その瞬間、竹林全体がまるで巨大な書頁となり、風音と光影が一筆一筆静かにめくりあげていくかのようだった。
彼らは頁心に立ち、夢の書はまだ書き終わっていなかった。
「墨起こし夢の痕、紙落とす霊塵。筆止む心の域、一頁分かたず。籙鎖迷いの径、印収め夢の根。声あれど応えず、形あれど真ならず。斂、夢、帰、静――封。」
陽霜宵は低い声で呪文を唱え、右手で印を結んだ。手のひらに微かな光が浮かび、図文が現れた。
「斂夢咒」とは、夢籙の拡散を追跡する簡易な封結術であり、一時的に夢頁の筆意を安定させ、逸散する書写を抑制するためのものである。
しかし、符光は空中に数秒間だけ維持された後、突然爆裂した――
音もなく、無響にして細かく砕けた黒灰となり、まるで墨の点が漂うかのように散り、跡形も残さなかった。
空気はまるで一瞬こだましているかのようだった。
陽霜宵は唇を引き結び、封頁に筆を走らせるような重い口調で言った。
「斂夢失効。」
彼は目を上げ、微かに光る図陣の筆痕を直視した。
「召印は未封でございます。頁はなお流動しております。」
水月は円心に歩み入り、足先はかつて遺体が発見された場所にぴたりと重なった。
現場はすでに初期清掃が施されていたものの、地面に残る焼け焦げ跡や圧痕は、まだかすかに見て取れた。
それらは、散りきっていない朝霧や湿った土の下に沈み込んでいる。
赤褐色の残滓は泥に染み込み、
まるでまだ筆先が離れていないかのような筆跡であり――
終わりなき続きの気配を潜めていた。
彼はかがみ込み、指先をそっと地面に触れた。
指先が地面に触れたその瞬間、空気は微かに震えた。それは音ではなく、静寂の中で筆勢が反響したかのようだった。
陽霜宵はすぐに異変に気付き、低い声で呼びかけた。
「尊上?」
水月は返事をせず、静かに囁いた。まるで頁の余白に書かれた注釈のように――
「……この頁は、まだ書き続けられている。」
彼の語調には驚きはなく、ただ預言者のような静かな確信が漂っていた。
「失われた承片は、その次の行を綴っている。」
彼はゆっくりと顔を上げ、林梢を越えて、遠方のかすかに消えかけていない天光を見つめた。
「ここには――いない。」
「それは別の場所にあります。」
水月は静かに、まるで頁角の空白をぴったりと埋めるかのように語った。
陽霜宵は目を閉じてしばらく静かにし、内省的な表情で低い声で推論を口にした。
「夢籙は他の筆者を探している……もしかして、誰かが我々(われわれ)より先にここへ来て、そして――筆を持ち去ったのか?」
水月はゆっくりと立ち上がり、右手で長袍の裾をそっと掴んだ。指先が生地の織り目を軽くなぞり、ほんのわずかに埃を払い落とすように動かした。
その動作は繊細で静かに、まるで時が一瞬止まったかのようだった。
彼は竹林の隙間から差し込む微光を見つめ、ゆっくりとした口調で話し始めた。まるで読書の合間にさっと書き留める走り書きのように――
「それは解読されるためにあるのではない。」
「抑圧されるためでもない。」
「このページ(ページ)は――ただ書き終わられたいだけなのだ。」
言葉がわずかに途切れ、彼の口元が微かにほころんだ。まるで、これからページがめくられる予兆を見たかのように。
風が吹き抜け、枝葉が揺れて、まるでページをめくる音のようだった。
「そして、私は――」彼はそっと笑みを浮かべ、続けた。
「ただ確かめに来たのだ。いったい誰が――筆を拾ったのかを。」