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第一章 夢印・未成(むいん・みせい)

夢印(むいん)は未だ結ばれず、筆は名を逆さに止めた。

誓いは頁に挟まれ、音なき呪となって、巡り続ける。

記されぬものは夢の底に沈み、いまだ待ち続けている。

---------------------------『夢印・未成』


夜明け前、まだ空が白み始めたばかりの頃。

 灰白の朝霧が竹林をすべるように流れ落ち、静かな筆先となって、府城(フジョウ)の東郊をうねる小道をなぞっていく。

 この竹林は、東の丘陵地に広がっており、なだらかな地形と斜めに落ちる木洩れ日が美しい。府城(フジョウ)の人々にとって、お気に入りの散策路のひとつだ。

 平日の朝、この場所はいつも賑やかだ。蝉の声は糸のように密に重なり、枝から枝へと編み込まれて空を覆い、鳥のさえずりがその間を縫う。まるで誰かが朝の夢の中で、そっと目覚めを告げているようだった。

 朝の五時、六時には、連れ立って歩く者もいれば、独りで歩く影もいる。

 子どもたちは駆け回り、大人たちはゆっくりと歩き、誰かは風を聞きながら静かに座り、誰かは歩きながら低くお経を唱えている。

 時折、ラジオから漏れる途切れた放送の声が、霧と竹の影のあいだをふわりとすり抜けていく。

 蝉と鳥の声が織りなすのは、当たり前の朝の調べ。竹の葉が風にそよぎ、町全体に新しい一日を静かにめくっていくようだった。

 それは、府城(フジョウ)が最も穏やかな朝のリズム——平穏で、ゆるやかで、人の暮らしのぬくもりを感じさせる時間。

 だが、今日だけは違っていた。

 林の中は、妙に静かだった。

 (コウ)おやじは、今日もいつも通り、五時きっかりに家を出た。

 七十を超えてもなお健やかで、府城(フジョウ)でちょっとした評判の豆乳屋の主人だ。

 毎朝三時に起きて豆を挽き、材料を準備し、丁寧に豆乳を煮込む。

 店を開ければ、香ばしい匂いが立ち込め、客が次々とやってくる。

 朝の一番の忙しさが終わると、彼は竹林沿いの小道をゆっくりと歩くのが日課だ。

 手には年季の入った竹の杖を持ち、慣れた足取りで一歩一歩、竹の葉の下へと進んでいく。

 竹林のまわりを一周すること、それが彼にとって「長生きの儀式」なのだという。

「豆を挽いて、豆乳を売って、それから竹の気で肺を洗う。これで一日が完成するんだよ。」

「これは運動じゃない、命を養うことさ。」

 竹林には澄んだ空気が漂い、湿った土と竹の葉の香りが朝霧に混ざって、独特の清らかさを生んでいる。

「これはな、竹が出してくれる福の香りだよ。」

 毎日この一息を吸えば、薬やサプリなんていらない、と彼は言う。

「木には木の気がある。竹には竹の霊がある。俺たちはこの呼吸で命をつないでるんだ。」

 歩き慣れた彼は、どの竹林がよく香るか、どこに雨が降ったか、どの竹が新芽を出したかまでわかるようになっていた。

 それはもはや散歩道ではなく、毎朝、天地と語らうための大切な時間だった。

 今日は、いつもより蒸し暑い。数歩歩いただけで背中が汗ばむ。

 それでも歩みは安定し、目もよく利く。

 新しく伸びた葉や、誰かが蹴飛ばした石まで見分けられる。

 だからこそ、異変にはすぐ気づいた。

 歩いていると、ふと、周囲の音が消えていることに気づいたのだ。

 小さくなったのではない。完全に——消えていた。

 蝉の声がない。鳥の鳴き声も聞こえない。

 いつもなら耳に入る、誰かの足音、挨拶、ラジオの音まで、すべてが消えていた。

 その瞬間、彼はまるで何かに隔てられた空気の中に足を踏み入れたような錯覚に陥った。

 風はまだ吹いているのに——その風は、心の中の霧をまったく動かしてはくれなかった。

 (コウ)おやじは足を止め、ふと空を仰いだ。

 霧が、さっきよりも濃くなっている気がした。

 日が昇るはずの東の空は、立ちのぼる白い靄にすっかり覆われていて、まるで時間そのものがこの場所で絡まっているようだった。

 彼は眉をひそめ、鼻先でそっと空気を嗅ぐ。

 どこか妙な匂いがした。

 ツンと来るわけではない。だが、どこか落ち着かない。

 なにかが静かに燃えた後に残る、あの微かな残り香のような——

 甘くて、焦げたような匂い。そして、ほのかな土と灰の気配。

 線香でもなければ、花火でもない。カビ臭さでもない。

 ただ、言葉にできない、不思議な臭気だった。

 足元の地面も、どこか柔らかくなっていた。

 踏みしめるたびに、少しずつ沈み込む。

「おかしいな……」

 (コウ)おやじはぼそりと呟いた。

 匂いがおかしい。霧も濃すぎる。

 空気が、まるで何かを燃やした後の灰で淀んでいるようだった。

 彼は心の中でぼやく。

「また若い連中が野営でもしたんじゃないか。火を焚いたり、香料をばら撒いたりして……」

 以前も、林の奥で焚き火をしていた連中がいて、危うく一帯を焼きかけたことがある。

 そのときは自らバケツを担いで火を消しに走り、戻った頃には豆乳の売り時を逃してしまった。

「最近の若いもんは、ほんとに……」

 彼は頭を振り、竹の杖を持って慎重に前へと進んだ。

 だが今回は、匂いがもっと異様だった。

 火薬のようでいて、それよりも湿っていて、発酵したような甘さが混じっていた。

 それは頭の皮膚をチリチリと痺れさせるような、不自然な甘さだった。

 霧はまるで意志を持っているかのように、彼の顔にまとわりついてきた。

 粘りつくような感触で、呼吸がうまくできない。

 (コウ)おやじは、その異臭の方へと慎重に足を運んだ。

 足元の土は、いつものようにしっかりとはしていなかった。

 湿り気を帯び、わずかに沈み込む。まるで、腐葉土をかき混ぜたばかりのようだ。

 地中からは、じんわりと蒸された熱気が立ちのぼっている。

 カビ臭さ、土の匂い、そして妙に甘ったるい腐敗の匂いが混じり合う。

 その瞬間、彼の胸に不安が走った。

 これは、昨夜の雨の名残ではない。

 地の底から滲み出している、どこか異様な気配だ。

 その湿気は、朝の空気でも、自然のものでもなかった。

 長い間、どこかに封じられていたものが、いま、静かに目を覚ましつつある——そんな気がした。

 この土は、人が歩くためのものではない。

 なにかを埋めるため、眠らせるため、あるいは再び目覚めさせるために存在している。

 そう思わずにはいられなかった。

 彼は手を伸ばし、人の背丈ほどもある青竹の叢をそっとかき分けた。

 竹の葉には霧がしっとりと付着していて、その一枚が手の甲をかすめた瞬間、ぞくりとするような冷たさが走った。

 それは朝の涼しさではなかった。

 まるで夢の中から吹いてくる風だった。

 竹の葉の隙間から、それは突然ふわりと吹き出した。

 誰かが小さく嘆いた後の息のように、顔に向かって漂いかかる。

 湿って冷たく、背中をすうっと冷やすほどの異様な気配を持っていた。

 霧は撫でられた水面のように波立ち、層をなして彼に迫ってくる。

 柔らかく、だが粘り気を持ち、あっという間に視界を覆った。

 それは朝霧ではなかった。

 あまりに濃く、湿って、重苦しい。

 石の部屋に何十年も閉じ込められていた空気が、いま突然蓋を開けられ、死と記憶とを巻き込んで鼻腔へとなだれ込んでくるようだった。

 息をすることさえ忘れてしまいそうな重み。

 やがて、ゆっくりと視界が晴れてくる。

 そこで彼は気づいた。目の前の地面が、いつもよりわずかに低く感じられることに。

 毎朝通っている、小さな広場だ。

 本来ならば、そこには雑草がいくつか生えており、落ち葉や枯れ枝が四方に積もっているはずだった。

 だが今日のそれは、彼の記憶にある場所ではなかった。

 地面は、誰かの手によって正確に整えられていた。

 一面が滑らかな円を描くように清められ、草の痕跡すらない。

 どんなに小さな葉すら、意図的に拭い去られたかのように消えていた。

 最初に目に飛び込んできたのは、人影ではない。

 それは——黒々と広がる墨と、そこに並べられた黒い蝋燭の群れだった。

 墨のような黒は、どこかから滲み出した血のように地面に垂れていた。

 だが、その痕跡は乱れていなかった。

 むしろ、緻密で複雑な紋様を形づくっていた。

 線は交差し、ねじれながら延びていく。蛇のようであり、鎖のようでもある。

 一筆ごとに、不気味なほど精確な秩序が潜んでいた。

 それは自然にできたものではない。明らかに、誰かが「書いた」ものだった。

 その文様は、文字のようでもあり、図形のようでもあった。

 言葉と図騰の境界が曖昧で、一画ごとに言葉にならない声と未練が滲んでいる。

 まるで、夢の中で強迫的に繰り返し書き写された断片のよう。

「理解できる者」の出現を、ずっと待っているかのようだった。

 一目見ただけで、頭の中に正体不明の眩暈が広がる。

 黒い蝋燭が、円を描いて並んでいた。

 細く、異様なほどに動かない。

 その蝋は墨のように黒く、光沢が鈍い。

 光を放つためのものではなく、なにかを「呼び出す」ためのもののように見えた。

 すべての蝋燭の下には、一枚の黄色い符が敷かれていた。

 その符には赤い墨で歪んだ文字が書かれており、どれも火に焼かれたような崩れた筆跡だった。

 筆順も読めず、夢から写し取ったような、見知らぬ言語。

 すでに燃え尽きた蝋燭もあれば、まだかすかに白い煙を上げているものもあった。

 その煙は、一本ずつ細く揺れながら、地面の墨の円に吸い込まれ、符の端と溶け合っていく。

 まるで、今なお「作用し続けている」霊的な流れが、そこに存在するかのように。

 墨、符、火。三つの要素が、どこかで中断された儀式の空間をかたちづくっていた。

 空気に残っていたのは、煙ではなかった。

 それは、「痕跡」としか呼べない何かだった。

 霧ではなく、塵でもない。

 蝋燭と墨紋のあいだには、極めて細い赤い糸と黒い影が交錯する残光が、ほとんど見えないほどの微弱さで漂っていた。

 だが、それらは空中をゆっくりと巡り、切れ、また繋がっていた。

 まるで、ついさっきまで誰かがここで書いていたかのように。

 筆跡はまだ途切れておらず、線の方向と圧力が空中に残って震えていた。

 文字は見えない。

 だが、確かに——まだ「語り続けている」気配があった。

 それは、煙の軌跡ではなかった。

 空中に残されたのは、文字が走り去った後の残響と筆勢の「記憶」だった。

 まるで、ある言語の残響が空気のなかに囚われ、ゆっくりと消えていくような——そんな奇妙な気配。

 近づくと、ごく微かな音が耳に触れた。

 紙の上を指先でなぞるような、かすかな摩擦音。

 それはまた、夢のなかで誰かが耳元で囁いているようでもあった。

 内容は理解できなかった。

 だが、本能的にわかった。

 ——それは、「人間ではない何か」のために書かれた文章だった。

 (コウ)おやじは、最初こそ若者たちの悪ふざけかと思った。

 だが、墨と火で描かれた円環をたどりながら、徐々にその中心へと視線を移していったとき——

 彼はついに、それを目にした。

 円の中心に、ただ静かに横たわるひとりの人物を。

 暗い紅色の長衣を身に纏い、裾が墨の線の上に垂れていた。

 まるで霧の中に咲いた血の花のように、赤が滲んでいた。

 彼は横向きに倒れていた。

 いや、倒れていたというより、「置かれて」いた。

 その体勢は、あまりにも不自然だった。

 四肢はねじれ、手足は交差し、まるで何かに折られたあと、意図的に配置されたようだった。

 それは眠りでも、事故でもない。

 儀式の中心に据えられた、人型の「構成要素」。

 欠けてはならない、図騰の核のような存在だった。

 顔は伏せられ、表情は見えない。

 だが、首筋と耳のあたりから覗く肌は、血のような衣と対照的に、不気味なほど白かった。

 (コウ)おやじは、一瞬その赤が布の色なのか、それとも血に染まったものなのか、判別がつかなかった。

 風がそっと吹き抜けた。

 その人物の髪と衣の裾が微かに揺れ、めくれた瞬間、彼の手のひらに何かが見えた。

 ——花のような、だが未完成の印。

 花弁はねじれ、縁は焦げたように黒く焼けていた。

 それは、火傷だったのか。あるいは、印だったのか。

 その人物は、まるで夢から落ちてきたかのようだった。

 この竹林にも、この朝にも属していない。

 四肢は歪み、献身者のように祈る姿勢をとりながら、どこかおぞましい。

 息をしている気配はなく、死体のように静かで、だがどこか神聖さすら漂わせていた。

 そのひとの衣服は、すでに地面の湿気にすっかり浸されていた。

 重く湿った経巻のように、肌にぴったりと張りついている。

 少し長めの髪は乱れ、泥と灰にまみれて束となり、顔の側面や首筋に絡みついていた。

 まるで湿気に引き寄せられ、無理やり貼り付けられた黒い呪縄のように。

 その顔は青白く、血の気がまるでなかった。

 肌には湿ったような灰色の光が滲み、暗い髪との対比があまりにも鮮烈だった。

 それは、色あせた絵画のようだった。

 強引に儀式の中心に貼りつけられた、一枚の剝げたキャンバスのように。

 ——それは、「死」を超えた静けさだった。

 あたかも彼は、この墨で描かれた結界のなかに封じられた存在であり、静止した記号、未完の呪文のようにそこにあった。

 (コウ)おやじは思わずもう一歩、足を踏み出した。

 その瞬間、霧がぐっと濃くなった。

 まるで、彼の接近に反応するように——

 二人のあいだを遮るために立ちはだかる、意思を持った幕のように。

 地面に伏せていたひとは、目を閉じていなかった。

 その瞳は静かに天を仰ぎ、まるで空のどこかにあるはずのない「裂け目」を見つめているかのようだった。

 その視線には、痛みも、恐れも、苦悶もなかった。

 ただ、無限に広がる虚無だけがあった。

 魂はすでに抜け落ち、眼差しだけが何かを観測しつづける「窓」として残されている。

 それは死後の硬直でもなく、眠りの弛緩でもなかった。

 ——意識と息をすべて奪われたあと、なおもこの世に「形式」として留め置かれている状態。

 それは、まぎれもなく——

「死」を超えた静寂だった。

 まるで、彼はもはや「人」ではなかった。

 墨で描かれた結界の中心に封じられた、

 一編の夢呪の草稿——

 動くこともなく、ただ静かにその場に存在する、ひとつの符号。

 まだ書き終えられていない呪文。

 まだめくられていない一頁の「夢籙(むろく)」。

 その瞬間——

 (コウ)おやじの目の前に、何かが閃いた。太陽ではなかった。

 地の底から滲み出すような、かすかな紅の光。

 抑え込まれていた「何か」が、ついに隙間から息を吐こうとしている。

「……」

 声を出す間もなく、彼の足元が滑った。

 カサリ——

 踏んだのは、一枚の濡れた紙だった。

 彼は足元を見下ろした。

 それは、黄ばんだ粗い紙片だった。

 端はしわくちゃで、まるで古書から引き裂かれたページのよう。

 墨の滲んだ紙面には、中央に数文字が浮かび上がっていた。

 それは、書かれていたのではない。印刷でもなかった。

 彼が目にした「その瞬間」に、文字は紙の中から染み出すように姿を現した。


 誓い未だ成らず、名は逆さに記される。

 夢籙(むろく)はすでに開かれ、第七頁に至る。


 (コウ)おやじはその場に立ち尽くした。

 そして——

 その「死体のようなひと」の指が、わずかに動いた。

 ごく、ごく微かな動き。

 まるで、夢を見ている者がぴくりと身体を震わせ、また眠りに戻っていくような。

 (コウ)おやじの喉が一瞬で締まり、声を上げることすらできなかった。

 身体が跳ねるように後ずさりし、手にしていた竹杖が手から離れ——

 パタリ、と音を立てて、墨の円の縁に転がり込んだ。

 その「パタリ」という音は、静寂の中で異様に大きく響いた。

 まるで、なにか禁じられた境界線に触れてしまったかのように。

 墨の円の縁に刻まれていた紋が、一瞬、震えた。

 固まっていたはずの線が、生命を得たようにわずかに揺らぎ、だがすぐに、また静けさのなかへと戻っていった。

 (コウ)おやじは数歩後ずさり、尻餅をつきそうになりながら、全身の中身を抜かれたような感覚に襲われた。

 頭の中に残っていたのは、ただひとつの言葉だけ。

 ——逃げろ。

 けれど、動けなかった。

 脚は鉛のように重く、体は空気に縫いとめられたかのように動かない。

 見えない圧力が背中に張り付き、呼吸すらままならなかった。

 そのときだった。

「あのひと」の指が、もう一度動いた。

 今度は、はっきりと。

 指の関節が小さく「コキ」と鳴った。

 まるで、なにかが強引に折られたような音だった。

 ——逃げろ。

 その言葉が、今度は耳の奥で繰り返される。

 (コウ)おやじは、ついに身体を反転させた。

 足元がおぼつかず、竹杖を拾う余裕もなく、必死に息を吸い込んで、膝を震わせながら、まるで悪夢から抜け出すように——

 力任せに振り返り、よろめきながら竹林の小道へと駆け出した。

 後ろを見てはいけない。

 だが、追ってくる音はあった。

 足音ではない。

 聞こえてきたのは——紙がめくられるような摩擦音。

 サッ……サッ……サッ……

 それは、地面を這うように近づいてくる。

 あたかも、霧のなかで一枚の書が、彼を追いかけてきているかのようだった。

 墨の円を飛び越え、竹の茂みを抜け、

 見慣れた遊歩道に戻ってきたそのとき——

 (コウ)おやじは、その場に崩れるように座り込んだ。

 肩で息をしながら、必死に呼吸を整える。

 耳に届く音が、再び蝉の声と竹の葉のそよぎに戻ったその瞬間、現実が、少しだけ戻ってきたような気がした。

 腰のポケットから、震える手でスマートフォンを取り出す。

 画面には——「圏外」の表示があった。

 一瞬、彼の思考が停止した。

 すぐさま腕を伸ばし、スマホを高く掲げて角度を変える。

 数秒後、電波は一つ、また一つと戻ってきた。

 彼はすぐさま通話画面を開き、府城警察分署の通報番号を押した。

 通話がつながった瞬間、彼は自分の手が激しく震えていることに気づいた。

 声も、うまく出せなかった。

「もしもし……もしもし!……わ、わしは黄有寿(コウ ユウジュ)。あ、あの、今さっき東の竹林で……」

「そ、そこに……死体が……!」

「地面に変な字がいっぱい書かれてて、蝋燭も……! ほんとだ、ふざけてない……早く……!」

 彼の声は、まるで水の底から必死に浮かび上がってきた者のように荒く、震えていた。

 通話の向こうで、冷静になるよう促されるが、

 彼はただ、何度も繰り返すしかなかった——

「竹林……広場……符が書いてある……死人が……!」

 通話を切った、その瞬間。

 (コウ)おやじは、ふと視界の端で自分の掌を捉えた。

 手のひらに——それはあった。

 濡れた土か、墨のようなものが付着しているように見えたが、よく見ると、そこにはかすかに赤黒い筆の痕がにじんでいた。

 深くはない。

 だが、火で焼かれたように、細く、曲がりくねり、一文字の、判読できない「残骸」のようなものを形づくっていた。

 それは、皮膚に「つけられた」ものではなかった。

 むしろ、掌の内側から滲み出たような——

 そんな、不気味な印だった。

 彼はその痕跡を見つめた。

 瞳が、無意識に見開かれる。

 その線は——まだ、動いていた。

 ごくわずかに。

 見えないほどに、微かに。

 まるで、まだ書き終えられていない何かの一部。

 ——夢の中から持ち帰ってしまった、名前も持たない一画。

 書き終えられていない。

 語られ終えていない。

 そして、目覚めきってもいない。

 (コウ)おやじは、息を呑んだ。

 とっさに手を引っ込め、胸元に押し当てた。

 誰かに見られるのが怖かった。

 それ以上に、もう一度見てしまえば、

 自分がそれを「知ってしまう」ような気がして——

 無意識に、目を背けた。

ここまで読んでくださって、ありがとうございました。

第一章「夢印・未成」は、静かに始まり、まだ誰も知らぬ書の頁が一枚だけ開かれた段階に過ぎません。


黄有寿という名もなき目撃者の歩みは、ただの偶然か、それとも夢籙むろくが選んだはじまりか——

読者の皆さまと同じように、書いている私もまだ、その答えにたどり着けていません。


この物語は、夢と書、そして誓いと因果の話です。

決して甘くない関係、決して明るくない世界。

けれど、すべての夜に名前があり、すべての印には意味があります。


続きを綴れるよう、どうか言葉の息吹が絶えぬように、そっと見守っていただけたら幸いです。

また、次の頁でお会いしましょう。


――静夜シズヤ


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