せめて夢で会っていたくて。レシアが起きてる最後の夜
私の人生、後悔ばかりだ。
長いようで短い20年を振り返ると『あの時、ああすれば良かった』と悔やまれることばかり。
ベッドの縁に座っている私は、窓から見える星空を見上げた。
「……はぁ」
そして何度目か分からない、ため息をもらす。
最近はずっと滲んでよく見えなかった星空が、今日はやけにくっきりと見えた。
泣きすぎて涙が枯れ果ててしまったからだった。
私を慰めてくれていた星の瞬きも、今では何も感じない。
けれど最後になるからと、この見慣れた風景を目に焼き付けていた。
私は座っているベッドに視線を移した。
枕が2つ、仲良く並んでいるのが目に入る。
ここでは大好きな彼と何度も一緒に眠った。
彼が好んで寝ていた壁側の空間を見つめ、洗い立てのシーツをひとなでする。
狭いベッドだから、私が落ちないためによく抱きかかえてくれてたよね……
そんなことをつい思い出してしまい、思わず眉間にシワが寄る。
……今からは、私1人で眠りにつく。
永遠に。
幸せな夢を見て。
私はわざと口の端をあげて、ほほ笑んでみた。
少しでも楽しい気持ちになれるかなと思ったのに、心に浮かんだのは空虚な気持ちだけ……
それほど私の心はすり減っていた。
ーーもう終わりにしよう。
私は無理に笑うのをやめて、また夜空を見上げた。
彼は甘いルックスの優しい男性だった。
当然のように沢山の女性から好意を寄せられていた。
そして私を狂わした人であり、私の世界の中心だった人。
私は大好きな彼と一緒になることが出来なかった。
彼に選ばれなかった。
彼は違う女性を選んだ。
ただそれだけ。
でも、私には耐えられなかった。
それほど彼を愛していた。
ならせめて、夢の中で彼に会っていたい。
そして……そのまま……
…………
私は魔術師。
得意な魔法の1つに〝睡眠魔法〟があった。
私は、強力な睡眠魔法を自分にかけて眠り続けることで、やがて衰弱死を迎えようと心に決めていた。
……今まさに、この世からひっそり去るための眠りにつこうとしていた。
**===========**
物心ついた時から、私の家にはママしか居なかった。
「パパは?」と聞くと、決まってママが悲しそうな顔をして「レシアが小さなころに亡くなってしまったの」と言った。
幼い私はママの悲しむ顔を見ると、自分まで悲しくなった。
だからパパのことは聞かなくなっていった。
けれど近所の大人たちの心無い噂話が、嫌でも耳に入ってくる。
「あそこのご主人、1度も見たことないわね」
「レシアちゃんが赤ちゃんの時に、母親と2人で移り住んで来たから、何か訳ありって話だそうよ」
……私のパパは、ママと赤ちゃんの私を必要としなかったらしい。
そんなどうしようもないパパを、ママは今だに忘れられないでいた。
ママはパパから貰ったというゼンマイ式の振り子時計を、とても大切にしていた。
パパへの気持ちを直接聞いたわけではなかったけれど、毎朝かかさず時計に巻き鍵を刺して、ゼンマイを回しているママの様子は、いつも幸せそうだった。
リビングの目立つ壁にかけられたその時計は、止まることなく動き続けている。
幼い私は、ゆらゆら揺れる振り子を眺めながら、よくパパがどんな人かを想像していた。
ママは女手一つで私を育てるために、家を空けて働きに出ることが多かった。
そのため1人で過ごす時間が長かった私は、よく暇を持て余していた。
何となしに家の裏庭に出ると、同じように隣の裏庭に出てきている男の子がいた。
隣に住む2歳年上のロジャーだった。
彼は私の姿を見つけると、タタタッと軽やかに駆けてきて、両家の境目にある背の低い柵ごしに立った。
ちょうど子供のお腹ぐらいの柵の上に、ロジャーが身を乗り出す。
「レシア、遊ぼうよ!」
私を見つけてそんなに嬉しいのかなって思うほど、満面の笑みを浮かべたロジャーが、私を遊びに誘ってくれた。
「うん!」
私もロジャーを見つけて嬉しかったから、ニコニコ笑った。
私たちは年も近く、一緒に遊ぶことが多かった。
ロジャーの両親は揃って有名な商会に勤めているため、家を空けがちだった。
お互いの家を行き来して遊ぶのはもちろん、遊び疲れて一緒に眠ってしまったり、後でこっぴどく叱られるイタズラをしたりと、まるで兄妹のように私たちは育った。
親同士の仲も良好で、1人で寂しい思いをするよりは……と、ヤンチャなことをする私たちを、大目に見てくれていたように思う。
10歳を過ぎるころになると、何故かロジャーから距離を取られるようになった。
理由が分からなくてただただ悲しかった。
……前みたいにロジャーと一緒にいたいのに。
そう思っていた矢先に、家の前の道で偶然彼に出会った。
すれ違おうとする彼に、私は勇気を出して声をかける。
「久しぶりだね。元気?」
「…………あぁ」
相変わらずロジャーはそっけない態度だった。
目も合わせてくれない。
……私のことが嫌いになったのかもしれない……
泣けなしの勇気が砕けちり、私は俯きながら涙をこらえ、彼の横を通り過ぎた。
だからロジャーが背後で振り返り、私を熱心に見ていることには気が付かなかった。
1人で過ごすようになった私は、自分の部屋の大きな窓から夜空を見上げて、よく『星読み』をしていた。
ママは、時間が出来ると私に『星読み』をして見せてくれた。
それを見よう見まねでやってみたのが最初だった。
『星読み』とは魔法の一種で、占星術と魔法を組み合わせたものだ。
私には魔法の才能があり、ママに似て未来を読む魔法に長けていた。
と言っても、占いよりは未来を正確に読むことが出来るだけで、細かいことや、すごく遠い未来を読むことは出来ない。
しかも未来は移ろいやすく、読むたびに変わることなんて珍しくなかった。
世間からも、これといって持て囃されるものでも無かった。
幸い私の2階の部屋は、もともとママが『星読み』をするために用意した部屋だった。
本棚には『星読み』に関しての書物や、他の未来を読む魔法についての書物が並んでいる。
ママは得意な未来を読む魔法で、お店をかまえていた。
私も将来は同じ仕事に就きたいと、この頃からふんわりと考えていた。
そんな思いを抱えて熱心に星空を見上げ続けたからか、『星読み』が自然と上手になっていった。
『星読み』の練習をしている時、よく自分の未来を読んでいた。
そこには確かに、ロジャーの人生と何かしらで交わる道が示されていて、心が躍った。
例え嫌われていても、私はロジャーと関わっていたかった。
そんな生活が2年ぐらい続いたある日。
気候がいい季節だったので、自室の大きな窓をあけて夜空を眺めていた。
心地よい風が私の長い髪を揺らす。
夜空に浮かぶ星たちも、喜んでいるみたいに瞬いていた。
ふと誰かの視線を感じた。
そちらに目を向けると、ロジャーが裏庭の柵ごしに立って私を見上げていた。
その姿に、幼いころ遊びに誘ってくれていた彼が重なる。
今のロジャーは背丈が随分伸びたので、柵がとても低いものに感じた。
彼なら跨いでしまいそうだ。
なんで私を見ているのか分からずに首をかしげると、彼も首をかしげて手招きをした。
「っ…………」
それを見た途端に彼の元にいち早く行きたくなり、気付くと私は家の中を駆けていた。
裏口から外へ飛び出して、ロジャーの前の柵越しに立ち、平然を装って尋ねる。
「どうしたの?」
急いで来たことを彼に気付かれたくなくて、口を閉じて必死に息を整えた。
「……何をしてるのかなって思って」
ロジャーが目線をそらしながら喋った。
その様子に〝まだ嫌われていそう〟と感じてしまい、私も目をそらして俯きながら答えた。
「星を見てたの。最近『星読み』が出来るようになって……」
「…………『星読み』? それは何なの?」
「あのねっ」
私は興味を持ってくれたのが嬉しくて、思わず顔を上げた。
そこには優しげに私を見つめるロジャーがいた。
「こっちで教えてくれる? 昔みたいに」
彼がそう言ってはにかんだ。
私も泣きそうになりながら、目を細めて笑った。
ロジャーが彼の家の裏庭に通してくれて、そこにある木製の白いベンチに隣あって座った。
そうして2人並んで星空を仰ぎながら、少しずつ言葉を交わす。
段々と子供の時のように喋ることが出来るようになり、気がつくと私とロジャーは笑い合っていた。
その日から私は夜になると、部屋の窓から隣の裏庭を見ることを欠かさなかった。
そこにロジャーがいると、すぐに家を抜け出して彼に駆け寄り、白いベンチで一緒に過ごすことが習慣になった。
そして星空を2人で見るこの時間が、何よりの楽しみになっていた。
今日もいつものように、ロジャーと白いベンチに並んで座っていた。
2人して澄み切った星空を見上げている。
「あの星が今日は一段と輝いて見えるから、ロジャーは思い切ったことするなら今がいい時期だよ」
私は星空を指差しながら、少しだけロジャーの『星読み』を行った。
「思い切ったことかぁ。また親の大事なものでも隠してみる?」
ロジャーがクスクス笑いながら私を見た。
幼いころ、私たちがとても怒られたイタズラのことを彼は言っていた。
イタズラと言っても当時の私たちにとっては、お互いに物を隠して見つけ合うといった、かくれんぼの応用みたいな遊びをしていただけだった。
その物がたまたま親の大事なもので、たまたま隠し場所を忘れてしまっただけなのに……って理不尽な気持ちになったのを覚えている。
「フフッ。もうあんなに怒られるのは嫌かなぁ」
私も笑いながらロジャーを見つめ、幼い頃の思い出を懐かしむように、2人でいたずらっぽく笑った。
ひとしきり笑い合うと、私は『星読み』を続けようと星空を見上げる。
「あとね……」
すると私の顔を覗き込んだロジャーの影が、私に落ちてきた。
何だろうと思った時には、彼と唇を重ねていた。
「!?」
私は思わず目を見開いて固まってしまった。
顔を離したロジャーを凝視していると、彼はさっきみたいにいたずらっぽく笑って言った。
「思い切ったことするなら今なんだろ?」
「…………そうだけど」
私は赤くなりながらも眉を下げて困惑した表情を浮かべる。
けれど嬉しそうに笑うロジャーを見て、本当はドキドキしながら、ときめいていた。
彼を好きだと自覚したのはこの時からだった。
私たちの夜の逢い引きの習慣に、キスをすることも追加された。
ロジャーも私のことが好きってことでいいのかな?
キスをされる度に照れながらそう思ったけど、恥ずかしくて面と向かっては聞けなかった。
私はロジャーに恋をして色づき始めた。
少しでも可愛く見えるように、身だしなみに気を遣うようになったし、お化粧にも興味を持ち出した。
それを察したママが、1度だけ私に忠告したことがあった。
夕食を2人で囲んでいる時に、ママが遠慮がちに話を切り出す。
「……ロジャーを好きになっちゃダメよ」
「何で?」
「レシアは私に似ているから……燃え上がるような恋は身を滅ぼすわ。穏やかで絶え間なく続く恋になるといいのだけど」
「…………」
ママがとても悲しそうな表情をした。
自分とパパのことでも思い出しているのだろうか。
私はママの言うことを素直に聞くふりをするだけで、深くは考えなかった。
心配性なママが、まだ私には恋は早いと言っているだけだと思っていたからだ。
『この時、ママの言うことをもっと良く考えとけば良かったのに……』
数年後、そんな心配性で私を誰よりも大切にしてくれたママが病気で亡くなった。
急なことすぎて、亡くなったすぐには実感が沸かなかった。
最低限の葬儀を済ませた後に、1人になった家に戻った夜。
私は中に入った途端に泣き出した。
緊張の糸が切れたからか、声を出して大泣きした。
ママと一緒に暮らしていた家に、もう誰もいないことが身を切り裂くように辛かった。
ニコニコいつも笑ってたママ。
仕事から帰ってきて疲れているのに、私のためにご飯をすぐに支度してくれたママ。
毎朝、どこか嬉しそうに時計のゼンマイを巻くママ……
数日間ゼンマイを巻いていなかった振り子時計が止まっている。
私は慌ててチェストの引き出しから巻き鍵を取り出し、泣きながら必死にゼンマイを回した。
私の中の思い出のママまでも、時計と一緒に止まってしまうように感じたから。
私は時計を回すことで、以前の生活が再び動き出すことを祈ってしまっていた。
「…………」
時計が無事に動き出しても、私はそこから動けずにいた。
秒針に続いて長針も動いたことが確かめられると、初めてホッとして息を吐く。
その時、裏口から私を呼ぶ声がした。
「レシア、大丈夫か?」
「ロジャー……」
私はすぐさま裏口を開けて、彼を家の中に招き入れた。
涙でぐちゃぐちゃな私の顔を見たロジャーが、痛ましそうな表情を浮かべる。
お隣さんだからと、ロジャーのご両親たちもママの葬儀を手伝ってくれた。
もちろんそこにはロジャーもいて、葬儀のあいだ泣きも笑いもしない抜け殻のような私を見ていた。
それなのに、家に帰った途端に大声を出して泣き出したものだから、声が聞こえた優しい彼は、わざわざ様子を見に来てくれたのかもしれない。
「…………」
ロジャーも泣きそうな顔をしながら、私の頭を撫でてくれた。
そんな彼に私は思わず抱きつく。
「独りになっちゃった」
「…………」
「寂しい。悲しい……ママに会いたい……」
「…………」
ロジャーはただただ優しく、泣きじゃくる私の背中を撫でていてくれた。
その日、彼はずっとそばにいて私を慰めてくれた。
泣き止まない私を、ロジャーがソファまで抱きかかえて運んでくれた。
そしてそこに座った彼の膝の上に、私を横抱きに乗せてくれる。
私もこの日ばかりは彼に甘えた。
ロジャーの胸に顔をうずめて涙を流し続ける。
彼は幼い子供に言い聞かせるように、優しく私に喋りかけた。
「レシア、大丈夫だから。ボクがいる。君のそばにはボクがいるよ」
ロジャーがそう言って私にキスをした。
いつもはキスをされた私が照れてしまって、それ以上のことは無かった。
けれど今日は、私も無性に彼を求めていた。
初めて私からもロジャーにキスをする。
それからゆっくりと唇を離して甘い吐息を漏らした。
じっと見つめ合ったまま動かないものだから、一瞬、時が止まったような錯覚に陥る。
次にはお互いからキスをしていた。
ロジャーが私の頭の後ろに手を添え、私は彼の首の後ろに腕を回した。
何度も何度もキスを繰り返す。
お互いの息遣いだけが聞こえる。
ソファに押し倒されて、覆い被さった彼が私を見下ろした。
その熱のこもった真剣な瞳に見つめられて、喜びが全身を駆け抜けた。
ロジャーが再び顔を近付けて私とキスをする。
ぎこちない手つきながらも、お互いを求め出した。
……その日、一度だけ私たちは肌を重ねた。
純粋な愛からのものだったかは分からない。
ただ悲しさを紛らわしたかったから……
ただ慰めてあげたあったから……
そんな子供っぽい理由だったかもしれない。
けど私たちには、それしか心の傷を癒す方法を思いつかなかった。
あんなにくっついて抱き合ってお互いの名前を呼んだ夜を最後に、私たちは喋ることさえしなくなった。
あの日の出来事が夢だったのではないかと思うほど、ロジャーは私と関わろうとしなかった。
私と顔を合わすと、決まって彼はバツの悪そうな表情を浮かべる。
やっぱり私のことなんか好きじゃなくて、あの日は同情心で私を抱いてくれたのかもしれない。
ロジャーは後悔しているのかも。
だったら、私からロジャーにもう近付かない方がいいのかな。
……迷惑にはなりたくないから。
臆病な私は、ロジャーへの気持ちを心の中に閉じ込めた。
これ以上、彼に避けられて傷付きたくなかった。
ロジャーは学校に通う歳になった。
街に住む子供は16歳になると、それぞれが望む学校に3年間通うことが一般的だった。
カッコよくて優しい彼は、同じ学校に通う女の子たちからモテていた。
可愛い女の子が彼の家に押しかけるのを、隣の家から目撃することもあった。
ロジャーと家の前の道でたまに会うと、そのたびに違う女の子を連れているのを見ることもあった。
本当は私が隣にいたいのに……
ロジャーと女の子が手を繋いで歩いているのを見るたびに、初めは胸が痛んでいた。
けれど回を追うごとに慣れていってしまった。
2年遅れて私が学校に通う歳になる頃には、ロジャーのことは何も考えないようにしていた。
彼は彼で青春を謳歌していたし、私にそれをとやかく言う権利は無い。
私はただの隣人だから。
亡くなったママは、私のためにしっかりとお金を残してくれていた。
天国のママに感謝しながら、私は魔術師の学校に通うことにした。
学校はとても楽しかった。
得意な魔法を学ぶことや、友人の輪が広がることが嬉しかった。
そこで私は初めて知る。
なんて小さな世界で生きていたんだろうと。
素敵な男性はロジャーだけでは無いし、私を見てくれる人は他にもいる。
そんな気持ちにさせてくれた同級生の男の子と、私は付き合うことにした。
「レシアの良い返事が聞けて良かった」
「私もレックスと恋人になれて嬉しい」
私に告白してきてくれたレックスが、嬉しそうに笑った。
私もほほ笑みながら返すと、彼は頬を染めて照れ笑いをした。
レックスは優しかった。
彼といると心が落ち着いた。
一緒に課題をしたり、空き時間に遊んだりして、穏やかで幸せな日々を送っていた。
そんなある日、レックスが放課後に私の家に遊びに来た。
私の部屋にある『星読み』の本に興味を持った彼に〝見に来ていいよ〟と私から誘った。
レックスを私の部屋に案内し、2人がけのソファに座って待っててもらう。
私は本棚に『星読み』の本を数冊取りに行き、ソファの前のローテーブルに並べた。
それが終わると彼の隣に腰を下ろす。
「ここに書いてあるのが1番分かりやすいかな」
私は一冊の本を手に取って、あるページを開いてレックスに見せた。
「へー。こんなことまで星から読み取るんだ。でもなかなか難しいこと書いてるね」
「そうなの。実際やってみた方が感覚が分かって早かったりするんだけどね」
「じゃあ今度やってみせてよ」
「うん。いいよ」
私たちは肩を寄せ合い、同じ本を覗き込みながらお喋りをした。
2人とも好きな魔法についてのことだから、本の内容と会話に夢中になる。
ふとそれが途切れた時に、お互いが相手の方を向くと、顔も寄せ合っていたことに初めて気付いた。
驚いた私が思わずまばたきをする間に、レックスがそっと顔を近付けた。
柔らかい感触を唇に感じ、私は自然と目を閉じた。
私たちは初めてのキスをした。
レックスが顔を離したのを感じ目を開けると、そこには真っ赤になってはにかむレックスがいた。
私にも彼の照れがすぐさまうつってしまい、頬を赤く染めながらも嬉しくてニッコリ笑った。
そしてまた他愛のないお喋りをして、穏やかで楽しい時間をレックスと過ごした。
彼が帰る時間になったので、レックスを玄関先まで見送ることにした。
なんとなく彼と離れ難い気持ちになった。
玄関の扉を開けると、レックスが外に一歩出た。
そして私の方に振り返る。
私も少し外に身を乗り出し、扉を手で支えながら彼を見上げて言った。
「気を付けて帰ってね。また明日学校で」
レックスは私の頬に手を添えた。
私を愛おしそうに見つめると素早くキスをする。
「じゃあまた明日」
レックスが頬を赤くしながら手を振って帰っていった。
私も思わず笑みをこぼしながら手を振り返した。
心の中がじんわり暖かくなった。
彼と過ごした楽しい時間の余韻を味わうように、レックスの姿が見えなくなるまで玄関先に立っていた。
そして家の中に戻ろうとした時、誰かに腕を掴まれて引っ張られた。
「ロジャー!?」
見ると、今帰ってきたのか制服姿のロジャーが怒った表情で私を見ていた。
そして何も言わずに私の家の中に勝手に入った。
引っ張られてる私は一緒に入るしかなかった。
玄関の中に入ったすぐの所で、ロジャーが背中を向けたまま立ち止まる。
「ロジャーどうしたの?」
「…………」
私の質問になんか答えてくれない。
こんなに怒っている彼は初めて見る。
……私の背後で扉が閉まる音がした。
すると、いきなり振り向いたロジャーに荒々しくキスをされた。
「っ!!」
両方の手首を掴まれ、さっき閉まった扉に体ごと押さえつけられる。
逃げることが出来なくなってしまった。
彼の手が私の制服のブラウスのボタンを外し出した。
思わず自由になった片手でロジャーを押し除ける。
「やめてっ! ん……やだ!! 私には付き合っている人がいるの!!」
顔をめい一杯背けて、彼のキスを拒否しながら私は叫んだ。
一瞬ロジャーの手が止まったけれど、引きちぎるようにブラウスを脱がされた。
ボタンが何個か飛び散るのを唖然としながら目で追っていると、首筋に彼の唇が触れた。
「〜〜〜〜っ!!」
私が何を言っても、ロジャーはやめてくれなかった。
結局、抗えないまま彼に抱かれてしまう。
ずっと怒っていたロジャーに恐怖を感じていたけれど、彼に求められて喜んでいる自分がいた。
彼を受け入れている時に、何か大事なことを耳元で囁かれた気がした。
でも熱に浮かされた私の朧げな意識の中では、妄想なのか現実なのか区別がつかなかった。
……そしてそのまま気を失った。
『この時、もっと必死に拒絶しとけば良かったのに……』
……私たちが堕ちていく始まりだった。
ーーーーーー
レックスを裏切ってしまった私は、理由も告げずに別れ話を切り出した。
泣きながら謝るだけの私を見て、優しい彼は何も言わなかった。
でもその時のレックスの悲しげな表情は、今でも私の心を締め付ける。
傷付けてしまった罪悪感が私に重くのしかかった。
その時になって今更気付く。
私はレックスのことをきちんと好きだったことを。
なんでロジャーを選んでしまったんだろう?
こんな辛い思いをしてまで……
私とロジャーは普通の恋人同士ではなかった。
彼は気が向いた時に私の家に来て、私と関係をもった。
こんなのおかしいって、もう1人の私が叫ぶ。
けれど、彼を拒否することは出来なかった。
離れてる時期もあった。
歪な関係に嫌気がさす。
私が気を取り直して学生生活を楽しもうとすると、決まってロジャーが私の前に現れた。
そして彼の腕の中に閉じ込められると、否応無く思い知らされてしまう。
ロジャーしか本当はいらないということを。
「レシア、こっち向いて」
「…………」
私を背中から抱きしめているロジャーに呼ばれて振り返ると、優しくて甘いキスをされた。
「ボクだけを見るんだよ」
「…………」
私は曖昧にほほ笑んだ。
もうずっと前からロジャーしか見えてないのに。
私からの好意なんて分かってるくせに。
断れないから、程よく私を抱くんでしょ?
そんな恨みがましい気持ちまで抱えていた。
けれどこのわずかな関係まで壊れてしまいそうで、何も言葉にすることが出来なかった。
何より体を重ねている時は、彼に愛されているような気持ちを味わえる。
そんな中毒にも似た深みにはまり、抜け出せないでいた。
私が学校を卒業して働きだしても、ズルズルと関係が続いていた。
私は子供の時に考えていたように、ママと同じ仕事に就いた。
ママのように店をかまえ、未来を読む魔法を用いて、悩める人たちが前に進める手助けをする。
私が1番前に進めていないのに、皮肉なものだった。
ロジャーは私の家にほぼ住んでいた。
彼の物が私の家に増えていく。
彼の使う食器、生活品、服……
どんどん同棲しているような有り様になっていった。
ある日の夕食。
一緒に囲んでいる目の前のロジャーを、私はジッと見ていた。
視線に気づいた彼がフォークで刺したサラダを口に運ぶことをやめて、私を見返して笑いながら聞く。
「何?」
「……何でもない」
私も弱々しく笑いながら首を振った。
いまさら聞けない。
私たちってどういう関係だなんて。
何も言葉に出来ないまま、私たちの関係はますます爛れたものなっていった。
何がきっかけだったか良く覚えていないけど、私が仕事の話やお店に来るお客さんの話を何気なく喋ると、ロジャーの機嫌が悪くなった気がした。
そんな時に決まって、彼は私を乱暴に抱く。
私の仕事の話なんか好きじゃないのかも。
けれど、私は彼の物になった気がして嬉しかった。
ロジャーは何故か私を離してくれなくなった。
最低限しか外に出してくれなくなった。
私は彼を一人占めしているみたいで喜んでロジャーに応じた。
その甘美な時間は何物にも変えがたかった。
そしてとうとう仕事を休んでしまったり、友人との予定を守らなかったりしてしまう……
どんどん2人だけの世界にのめり込んでいった。
その頃にはもう、ロジャーのことを狂おしいほどに愛していた。
同時にこんな関係から抜け出したかった。
普通になりたかった。
……普通って何?
私はロジャーしか知らないから、どうすればいいか分からない……
私の中に重くて仄暗い感情が棲みつく。
けれどある日、困ったことが起きた。
私の月の物がだいぶ遅れたのだ。
私はリビングにあるゼンマイ式の振り子時計の前に立っていた。
日課になったゼンマイを巻くために、時計の蓋を開ける。
慣れた手つきで巻き鍵を差し込みクルクル回していった。
…………
もし本当に赤ちゃんが来てくれたなら、産みたい。
ゼンマイを巻き終わった私は、時計の蓋をパタンと閉めた。
ガラスで出来たそれに、私の顔が薄っすら映った。
その顔は若い頃のママを思い出させた。
その日の夜、私とロジャーは私の部屋のベッドの上で、並んで座っていた。
お互いが相手にもたれかかりながら、大きな窓から夜空を眺めている。
私はドキドキしながら話し始めた。
「あのね、話たいことがあって……月の物が遅れてるの。ただ本当に遅れてるだけかもしれないんだけど……」
私はそっとロジャーを見た。
彼は窓の外を見つめたまま動かなかった。
だから私も動かずに、彼の出方をうかがいながら待った。
するとロジャーがゆっくりと口を開いた。
「レシアさえよければ、ボクたちの子を産んで欲しい」
「え? いいの?」
そこで初めてロジャーが私の方を向いた。
そして穏やかな笑みを浮かべて伝えてくれた。
「もちろんだよ。順番が逆になってしまったけど、結婚しようレシア」
私は頬を染めて満面の笑みを彼に向けた。
目には薄っすらと涙が浮かぶ。
「うん。ありがとう。私もロジャーとの子供を産みたい。あなたと一緒に生きたい」
私が告白し終えると、すぐさまロジャーが私を抱きしめた。
「ありがとうレシア」
喜びに弾んだ彼の声が耳元で聞こえる。
私も泣き笑いを浮かべながら彼を抱きしめ返した。
なんだ。
簡単なことだったんだ。
もっと早くきちんと言葉にして伝え合っておけば良かった。
ロジャーは私のことを愛していてくれてたんだ。
この時の私は、ロジャーと赤ちゃんの3人で、幸せな毎日を送れることを夢見ていた。
舞い上がっていた。
……勘違いしていた。
『彼は、子供が出来てしまった責任をとろうとしてくれてただけなのに……』
数日経つと、月の物が来てしまった。
いつもより重めで痛みも強かったけれど、赤ちゃんが来てくれたんじゃなかったんだと残念な気持ちになった。
「早とちりしてごめんなさい」
そんな落ち込んでいる私には、話を聞いて一緒に落ち込んでくれているロジャーだけが救いだった。
「ありがとうロジャー。あなたが居てくれて良かった」
……ロジャーとの子供も欲しかったけど、もっと2人きりでいたいから、良かったのかもしれない。
と自分を何度と慰める。
「もっとロジャーといたいから、今日は一緒にいる……」
やるべきことが他にたくさんあるのに、彼から愛されているという自信からか、ロジャーに甘えることが増えた。
「離れたくないの」
あまりにもベッタリとくっ付く私を、困惑気味のロジャーが見つめていた。
『それが、彼にとっては迷惑だったのかもしれない……』
ある日の夕方、用事があってロジャーの家を訪ねようとすると、珍しくリビングやダイニングの部屋の明かりがついていた。
そして少しだけ開いた窓から、話し声が外に漏れていた。
私は悪いことだと思いながら、明かりのついた部屋の近くまで外から回っていき、窓の近くに身を隠した。
部屋の中にはロジャーと彼の両親が揃っており、何やら話込んでいた。
重苦しい空気が漂っている気がして、思わず聞き耳を立ててしまった。
「最近仕事を休みがちだそうじゃないか」
「仕事中も身が入っていないって聞くわ」
ロジャーのパパとママの声だった。
彼は両親が働いている商会で働いていた。
だから仕事ぶりについてもよく知っているのだろう。
「……こんなことを本当は言いたく無いんだが……隣に住むレシアと付き合うのは止めたらどうだ?」
「2人とも、どんどんダメになっていってるでしょ?」
ロジャーのパパとママの言葉に凍りついた。
思ってるだけでロジャーに言えないことを、人からハッキリ指摘されてしまった。
そんな私に追い打ちをかけるように、彼のママが衝撃的な事実を語り出した。
「レシアちゃんのお父さんは、隣国の名高い伯爵様だったの。レシアちゃんのお母さんの未来を読む能力を高く買っていたらしくてね……すぐに2人は恋に落ちたそうよ。けれどそれまで有能だった伯爵様が腑抜けになってしまって……追われるように身重の体でここに逃げてきたの」
私は頭を殴られたような衝撃を受けた。
……そんな……てっきりパパが私たちを見放したと思っていたのに、ママが悪かっただなんて……
それからのロジャーたちの話は頭の中に入ってこなかった。
ママが言ってたことはこのことだったんだ。
〝燃え上がるような恋は身を滅ぼすわ〟
…………
ママもパパをダメにしたの?
「ーーーーだから、ロジャーもそうならないか心配してるんだ」
「……分かってるよ」
気付いた時にはロジャーの返事が聞こえた。
私はふらつきながらも、その場を離れ、自分の家に逃げ帰った。
それからしばらく経ったある日、いつものようにベッドの上に2人で座って夜空を眺めていると、ロジャーがおもむろに話し出した。
「……レシア、落ち着いて聞いて欲しい」
彼の声がどこか悲しげだ。
何を言われるのか分かっていた。
以前に聞いた、ロジャーとご両親の話。
それにこの所、星空が未来を警告してくれていた。
大事なものを失うと……
けれど、分かっていてもどうすることも出来なかった。
「ボクたち離れよう。このままじゃお互いがダメになる」
「…………」
「この前、親になるとか考えたら、もっとしっかりした大人にならなきゃって思ったんだ……ごめん」
「…………」
私はこんなにも好きなのに。
……けれど、私が彼をダメにしてしまっている。
ロジャーの決断は正しい。
これ以上、私と同じ所に堕ちてしまわないように……
「……私こそ、ごめんなさい」
涙をポロポロ流しながら、私は彼の要求を受け入れた。
『この時、彼のことなんてきっぱり諦めてしまえれば良かったのに……』
ロジャーが去って1人になった家の中にポツンと佇む。
眠れなくて、1階に何か温かいものを飲みに降りてきた。
ふとリビングの振り子時計を見ると、止まったままになっていた。
そう言えば長いあいだ巻いてない。
私は慌ててチェストの引き出しを開けたけど、巻き鍵を見つめたまま考える。
そして引き出しを閉めた。
私とロジャーの時間なんか進まなくていい。
……もう『星読み』で自分の将来を読んでも、ロジャーと人生が交わることは無くなっていた。
私たちは、また名前のない関係に戻った。
けれど隣に住んでいるから、どうしてもばったり会ってしまう。
今日も家を出ると、ちょうど彼も外に出たところらしく、お互い驚いた表情をして見つめ合ってしまっていた。
ロジャーの穏やかな目に見つめられると、彼を好きな気持ちが溢れた。
「…………」
「…………」
彼が私に触れるために近付いたのか、私が彼を目線で誘って待っていたのか……
気がつくとロジャーが私を家の中に押し込み、私は彼に抱きついた。
最後だと言い聞かせることを免罪符に、私たちは逢瀬を重ねた。
心では分かっていたのに、体が相手を求めた。
私は都合のいい女に成り下がったのかもしれない。
けれど、それでもいいと思っていた。
息苦しかった。
ゆっくりゆっくり溺れていっているかのように。
けれど呼吸なんか忘れて、このまま溺れ死んでしまいたかった。
徐々に黒い感情に蝕まれていく。
その関係も終わりを告げる時が来た。
ある日ロジャーに「話がある」と言われて、裏庭の白い木製のベンチに呼び出された。
空は夜の準備を始めており、夕陽が半分沈んでいた。
オレンジ色の光に包まれたと思うと、次第に薄暗くなっていく。
私たちは隣り合って座ったまま、しばらくじっとしていた。
私は俯いて自分の膝をずっと見つめる。
刑を執行されるのを待つ罪人のような気持ちだった。
ロジャーは目線を横にそらしたまま、ゆっくりと喋り出した。
「……実は好きな人が出来たんだ」
「…………」
「職場の女性で、以前からボクに好意を抱いてくれてたらしい」
「…………」
「元気のないボクを、ずっと親身になって支えてくれてたんだ。そんな彼女に交際を申し込まれた。ボクは引き受けることにしたよ」
「…………」
「だから、レシアと会うのはもうやめる……本当のさよならだ」
ロジャーが目を閉じて強く言い切った。
そして椅子から立ち上がり、私を見ること無く去っていった。
「ーーーーーーっ!!」
私は泣き崩れた。
こんな日が来ることは分かっていた。
両手で顔を覆い泣いていると、いつの間にかすっかり夜になっていた。
夜空を見上げても、星空を見て『星読み』をしてみても、自分の未来なんて一切見えなかった。
この時には何もかも遅かった。
私には彼しかいなかった。
彼以外を知りたくもなかった。
自分の家に帰った私は、窓から差し込む月明かりに照らされた部屋の中で立ち尽くしていた。
至る所にロジャーが使っていた物が溢れており、彼との思い出がたくさん残っている。
それが目に入るたびに、涙が込み上げてしまう。
私は彼との思い出の詰まったベッドで寝具にくるまり、泣きながら眠るしかなかった。
悲しみに暮れながらも、何とか立ち直ろうとしていたある日。
寝つきが悪くなり、夜によく眠れない私は、日が昇ってだいぶ時間が経ってもベッドの中で眠っていた。
けれど、外からする楽しそうな笑い声のせいで、目が覚めてしまった。
『この時、窓の外なんか見るべきじゃなかった……』
笑い声の1つがロジャーのものだからって、反射的に動く体を何とか止めればよかった……
窓辺に立ち外を眺めると、ロジャーの家の裏庭に誰かがいるのが見えた。
白いあのベンチに、ロジャーと綺麗な女性が仲睦まじそうに寄り添いながら座っている。
2人は楽しそうに笑い合っていた。
私の心にいろんな感情が渦巻いた。
そこは私の場所なのに。
私よりお似合いな2人だよね。
1人だけ幸せになろうとしてずるい。
本当は私だけを見て欲しいのに。
そしてある事に気付いた。
……幸せそうな2人を隣で眺めながら、この家でロジャーとの思い出にしがみつきながら、私はこの先、1人で生きていくの?
ーーなんていう拷問なんだ。
その時の私には、住む所を変えてでもロジャーのそばから離れようとか、前向きなことを考えるまともな思考力は残っていなかった。
ずっと鈍痛を抱えていた心が、これを機に痛みを感じなくなった。
心が砕け散って、とうとう無くなってしまったのかもしれない。
そんなボロボロの心の中で、必死に自分を救おうと考えた。
そして思い付く。
最後に幸せな夢を見ながら眠りにつこうって……
**===========**
私が起きている最後の夜。
自室のベッドの上で、相変わらず窓から夜空を見上げていた。
どうしても伝えられなかった言葉を蒼い月につぶやいてみる。
「愛してる」
あぁ。
『この言葉を伝えられたら、何かが変わっていたのかな……』
やっぱり私の人生、後悔しかないや。
最後まで読んで下さり、ありがとうございました。
この物語が、あなたに届いたことを嬉しく思います。