鏡の向こうの自分
朝、目覚めた男は洗面所に行き、顔を洗った。
顔を上げ、タオルで擦るように拭く。そして驚いた。
顔が汚いまま……どころの話ではない。目に青痰、口は切れ、一言でいうならばボコボコにされたあとの顔。
しかし、戸惑いつつペタペタと顔を触るも痛みがない。麻痺した? いや、さすがにそれほどの怪我には見えない。
そもそもなぜ、こんな怪我を。転んだ? 馬鹿な。覚えていないわけがない。確かに酒は飲んだが記憶を失くすほどではない。当然、喧嘩も、喧嘩……。
と、そこで彼は昨晩、若い男と肩がぶつかり、絡まれたことを思い出した。と、同時に顔を歪めた。傷が痛んだのではない。嫌な記憶まで蘇ったのだ。ペコペコと頭を下げ、へらへら笑い逃げるように立ち去った己。背中に浴びせられた罵声を。
殴ってやればよかったと思ったのは家に帰ったあと。無論、強がりに過ぎない。そう思っていたが……
そうだ。あの時、もし殴ってそれで喧嘩になっていたら……。
彼は鏡に映った自分をまじまじと見つめた。そして思った。これはまさか喧嘩した場合の俺? と。
その後、特に何かが起きることはなかった。鏡に映る別の自分の怪我も徐々に癒えていき、元通り。またいつもの日常。なんなら、怪我が完治するまでのあの数週間はただの幻覚だったのではと思ったくらいだ。
だが、ある時、またしても変化が起きた。
それはある夜のこと。家に帰り、洗面所に入った彼は驚いた。
鏡に映る自分。それが今、自分と全く違う格好をしていたのだ。こちらはスーツだが、鏡に映る自分は作業服のようなものを着ている。
雰囲気からして自動車の修理工だろうか? 顔には黒い油汚れのようなものが。しかしなぜ……と彼が記憶をたどり、心当たりを探すと蘇ったのは五日前の記憶。
そして彼は顔を歪めた。嫌な記憶。それは上司から執拗な叱責を受けた時のこと。
あの時、もし上司に歯向かっていたら? こんな会社辞めてやると言いたくて言いたくて仕方がなかった。だが、耐えた。頭を下げ、首筋にかかる唾にも我慢しずっとずっと……。
と、いうことは鏡に映るあの俺は辞表を叩きつけてやった場合の俺?
これは妄想、幻覚。ストレスだろうか……。
と、彼は不安な気持ちを抱いたと同時に少しほっとした。もしこの鏡が言わば別の世界線の自分を映しているのだとすると、よかった、実によかった。歯向かった末が自動車かどこかの工場勤務とは。
収入は確実にこちらの方が上だろう。一時の感情に流されずにいて正解だったのだ。
今思えば喧嘩もそうだ。あの顔。きっとボロ負けしたに決まっている。治りはしたが運が悪ければ後遺症、なんなら殺されていたかもしれない。ああ、よく見れば顔に傷が残っているじゃないか。そうとも、リスクは避けるべきだ。それが大人。それが処世術。
彼はうんうん頷き、洗面所を後にした。その後はそう、芸能人のブログをチェックする感覚。気楽なものだった。体力仕事だ。きついのだろう疲れた顔して鏡に映るもう一人の自分。それを見る度によかった、こちらの選択が正しかったと自己肯定感を高める。
時に大きな変化もあり、楽しめた。
昔別れた恋人が鏡の向こうの自分の隣に現れたのだ。
驚きはしたが、納得はいった。何日か前にその女から連絡があったのだ。
元気にしてる? などの他愛もないやりとり。就職を機に彼の方から別れを告げたのだが、ガサツでお世辞にも美人とは言い難い。ゆえに復縁の気配を感じたが適当にあしらったのだ。
しかし、鏡の向こうの自分は違ったらしい。尤も、それが鏡の特性。逆の行動をとるということなのだろう。
女の姿を見たのは久しぶりだが前とそう変わりない。むしろ太ったかもしれない。
よかった、実によかった。彼はまたも、自分の選択は間違っていなかったとほくそ笑んだ。
そして、その後も彼は鏡の前でよかったと呟いた。
よかった。間違っていなかった。危うくあんな女と結婚する羽目になっていた。料理だってろくにできやしないだろう。
よかった。間違っていなかった。太り過ぎだ。産後は痩せるのか? いいや無理だろうな。
よかった。間違っていなかった。子供も母親に似てブサイクだなぁ。
よかった。間違っていなかった。子供は生意気そうに育ったな。それに妻は傷んだ髪に醜い体型。俺は結婚しなくてよかった。
よかった。間違っていなかった。ほら、グレた。やはり子供なんて手が掛かるだけだ。今に警察の世話になるぞ。
よかった。よかった。よかった。
彼は鏡の前でそう呟いた。
仕事をクビになったがよかった。せいせいした。
よかった。嘗められ続け、ろくに昇進もできなかったが退職金は出た。
ストレスで体は壊したがよかった。結婚せず、家族はいないから迷惑はかけない。
よかった。これでよかった。
――ああ、よかった。あんな風にならなくて。
鏡に映る男の口がそういったように動いた。