14-3.大伯母
『ミヤベ、リカルィデの具合はいかが? トーシャを持ってきたけれど、食べられそうですか?』
『サハリーダ様、ありがとうございます。少し落ち着いてきました』
戸槌の音に木戸を空ければ、優しい皺を目元に刻んだ、オルゲィ・リィアーレの妻が立っていた。その手には綿入りの布に包まれた鍋、背後にはこの界隈に似つかわしくない、質のいい馬車ならぬホダ車があって、道行く人が何事かとこちらを見ている。
『顔を見てもいいかしら? チシュアが一緒に来ると言ったのだけれど、あの子がいたらどうせおしゃべりをしてしまって、落ち着かないでしょう? 置いてきたのよ。今頃拗ねているわ』
クスリと笑うと、サハリーダは綺麗な制服をまとった従者に、『その辺で一刻ほど適当に過ごしてちょうだい』と言い、何かを握らせた。ちゃっかりそれを受け取っておきながら、従者は郁に非難の視線を向けてくる。郁は素知らぬ顔をして、サハリーダを中に招きいれた。
『熱はまだ高いのかしら?』
シガに実蜜を入れて軟らかく煮た、トーシャという病人食を受け取れば、微かにドクダミの香りがした。こういう時ここは日本じゃないと実感する。
『大分下がってきて、今は寝ています。昨日の晩は触ると驚くぐらいには高くて、ずっとうなされていたので…』
体温計、熱の高さを客観的に測る方法がこの世界にはない。幼い額に手を当てるたびに、本当に下がっているのか、そう思いたいだけなのかわからなくて、ひどく不安になる。
(酒からエチルアルコールだけ取り出して色を付けて細いガラス管に入れれば、温度計が作れるはず……けど、細いガラス管を作る技術があるのか……)
この家の窓ガラスの不均質さを見ながら、郁は眉間に皺を寄せた。今度防病師たちに相談してみよう。
『大丈夫、子供は熱を出すものよ。明日になっても続くようなら、医者を呼ぶから言いなさいね』
『……ありがとうございます』
その顔を心配ゆえと勘違いしたらしい、見た目通りに優しい夫人に素直に礼を述べると、郁は茶を入れようと台所に立った。
オルゲィに世話をしてもらった――実際は指定されたのだが――この家は、一つの空間しかなかった避難民キャンプのキャビンやギャプフ村の木小屋とは大分趣が違っていて、日本の家のように作り付けの壁と柱で仕切られている。間取りを日本風に言えば二DKで、ダイニングキッチンの部分は十畳程度。茶の準備をする郁のすぐ後ろに低めの四人掛けのテーブルとスツールがあって、サハリーダはそこに腰を掛けた。
ディケセル国で最も勢力のある王弟の右腕、領内の諸事をすべて取り仕切っていると言われている内務処長オルゲィ・リィアーレの妻が、こんな場所にいるのはどう考えてもおかしい。郁は先ほどの従者の目線を思い出して苦笑した。
この世界でコンロ代わりに使うのは、中に砂を敷き詰めた火鉢のような、ゴーゴと呼ばれるもので、そこに炭が赤々と燃えている。その上に置かれた足付の格子状の鉄の上に、片手鍋と同じタイプの持ち手のついた薬缶がくべられていて、蒸気を吹き出していた。
郁は分厚い陶器製の茶皿に香草茶の葉を入れ、薬缶から湯を注ぐ。しばらく待ってから、湯呑みのような形状のカップに茶を注いで、仕上げにトタラの花びらを散らした。
『いい香りね……私はやっぱりサッ茶より、香草茶の方が落ち着くわ』
サハリーダはそう苦笑して、肩をすくめた。
『ほんの十年前まで子供をおんぶしながら、自分で火を起こして、水を汲んで、ご飯を作って、って暮らししていたのよね……。服だっておさがりは当たり前だし、破れたら繕って、ボロボロになったら、雑巾に回して……。内務処長の奥様、座ってご指示を、と言われても慣れないの。ずっと人が傍にいて朝起きたら、着換えのお手伝いに参りました、御髪を整えさせていただきますって言うのよ、信じられる? シャツェラン殿下のご恩情には、もちろん感謝しているけれど、いつまで経っても馴染めないのよねえ』
差し出した香草茶を一口飲み、しみじみと漏らしたサハリーダについ郁は笑ってしまう。
『アムルゼがあなたたちを領都に連れてきて、家が決まるまでうちに滞在させるってオルゲィに言われた時も、本当のことを言うと『ああ、また内務処長夫人をちゃんとしなくちゃ…』ってうんざりしていたのよ』
『知っています』
人懐っこい江間がリィアーレ家付きの庭師とすぐ仲良くなり、悩みを聞かされて、郁やリカルィデも巻き込まれて一緒に土づくりを始めて、品種の改良について話をし、どうやるんだということになり……としているうちに、大人しくしていられなくなったサハリーダが、庭に出てきて一緒に土にまみれるようになった。
彼女の長男のアムルゼは呆れ、末っ子のチシュアは『いつも私におしとやかにしなさいと仰るのに』と面白がって参加し、オルゲィは目を丸くしながらも笑っていた――祖父の甥家族が幸せなのがわかって、郁が泣きそうになったのは内緒の話だ。
『『そんなことないです、奥様はご立派です』とか言わないのよね、あなたもエマも』
サハリーダもそう言ってクスクスと笑っている。
『メゼルディセルにおいでになる前は、奥様もご苦労なさいましたか?』
『ああ、そういえば、あなたの師もリィアーレの出だと言っていたわね』
郁はお代わりの茶を注ぎながら、聞くべきか聞かざるべきか、迷ってやめてしまっていたことを口にした。
彼女もリィアーレ一族の出身だと聞いた。オルゲィとは遠縁にあたると。オルゲィの口から彼の叔父でもある郁の祖父コトゥドの評価を聞いたことはないが、他の人はどうなのだろう。
郁が知る他のリィアーレ一族としては、農具の改良などで郁たちが顔を出している食料司の長セゼンジュがいるが、彼もリィアーレ一族ということで陰口を叩かれている。
彼は仕事、特に農業技術に関わることには多弁も多弁だが、それ以外については一切話をしない。それが仕事熱心であるが故なのか、それとも自分の出身を気にかけてのことなのか、ずっと気になっている。
『そうねえ、これまでの地位も財産も何もかも無くなって、王都からも追放されて、父母や兄たちはずっと不満を持っていたようだけれど、苦労も何も私にはそれが当たり前だったから。それより彼らが会ったこともないコトゥド叔父様――オルゲィの叔父様にあたるのだけれど、その方への呪詛を吐くのを聞き続ける方が苦痛だったわ。オルゲィが結婚の申し込みに実家に来た時なんて、大変だったのよ。本家の次期当主だろうとあんな裏切り者の甥なんかに娘はやれないって』
サハリーダは当時のことを思い出したのか、顔を顰めた。
「……」
覚悟していたはずなのにズシリと心が重くなり、郁は胸元につるしたままの小袋に無意識に手をやった。
意図せず連れていかれてしまった世界で、本来必要ないはずの苦労を重ねた祖父は、故郷でも謂れのない罪を着せられ、親族にすら罵られている。
『コトゥド様というと、トゥアンナ王女殿下を攫ったという』
心ここにあらずで返した言葉に、サハリーダが苦笑しながら『私はそれを見たわけじゃないから』と首を振り、それに少しだけほっとさせられた。
『本当に大変だったのは、当時リィアーレ家のご当主だったオルゲィのお父様のミゲィド様と、姉のシハラ様だと思うわ。お二人ともお若かったし……。シハラ様は決まっていたご婚約を破棄されて、コントゥシャの神殿に入られたの』
『そう、でしたか……』
美しい、優しい人だったと祖父が言っていた女性だ。早くに母を亡くした祖父は、彼女にとても可愛がってもらったと事ある毎に話していた。
その人の運命を聞いて、ショックとトゥアンナへの憎悪がまた湧き上がる。
『でも、お二人ともずっと弟のコトゥド様のことを信じていらっしゃったわ』
郁は伏せていた顔を跳ね上げた。
『私がコトゥド様を悪く思えないのも、オルゲィが彼について何も言わないのも、それが理由なの。あのお二人がそう信じていらっしゃる以上、それが本当なんだろうって』
サハリーダは香草茶のカップを両手で包みながら、『ディケセル人じゃない、ミヤベだから話せる内緒の話』と茶目っ気を見せて微笑んだ。
「大神殿、か」
茶を飲み終えたサハリーダは、リカルィデの顔色を見ると言って寝室に行った。
茶器を片付けながら、郁はコントゥシャ神を祭る神殿に今もいるという祖父の姉に思いを馳せる。
(なんとか会えないだろうか……)
帰る方法についてもだが、祖父を信じてくれた人に直接会って話がしたい。
再び戸槌が鳴った。
応えを返すことなく扉を開ければ、微妙な顔をした江間が郁を見下ろしていた。
「……確認してから開けろって、いつも言ってるだろ」
「江間だと思った。事実そうだ」
「それでもだ」
小言を言うのはいつものことだが、少し元気がない気がする。「これ、リカルィデに」と、ミカンと桃を足して割ったような果実、ヨチュを手渡してきた江間に郁は首を傾げた。
「っ」
それをリカルィデに届けようと踵を返したところで、体が浮いた。
「……」
咄嗟に言葉が出てこない。背後から全身を抱き込まれていると悟るなり、心臓がぎゅっと縮まって、すぐに早鐘を打ち始める。その音がどくどくと耳に響いてきて、顔に血が上る。
それを江間に悟られたくないのに、まただ、いい加減慣れろと我ながら思うのに、どうやれば落ち着けるのだったか、咄嗟に思い出せない。
「宮部」
「……っ」
ぐっと拘束が強まって名を呼ばれ、息を止めた。
だが、数拍後「王弟に会った」と耳に届いた瞬間、全身の血液がさあっと引いた。
「何かあった? された?」
江間の顔を見ようと腕の中でもがくが、うまくいかない。じたばたしていると、耳元でふっと小さく息が吐き出された。
「何もされてない」
「本当に?」
「ああ」
何とか身をよじって江間の顔を見上げてみれば、顔全体を綻ばせている。
「……なんで笑う」
睨んだというのに、江間は余計に笑みを深めて「見るな」と言いながら、郁の顔を自分の胸へとぎゅっと抑え込んだ。
「……」
とくとくと胸の鼓動が耳に響いてくる。自分の鼓動とどちらが早いだろう、意識を逸らしたくてそんなことを考えた。
「その王弟のことだけどな」
「え、うん」
「すっげえイケメンだった。ハリウッド俳優どころか、どこぞの王子様レベル」
「…………その情報、いる? 実際王子様だし」
「きらっきらの金髪に小顔、大粒のアーモンドアイに真っ青な瞳、手足の長い、高身長の王子様だぞ。そうそうお目にかかれるもんじゃないし、この感動を伝えとこうかと」
「はいはい。それより大事な情報があるでしょ、江間のことだから」
「冷めてるなあ」
思わず笑えば、江間も声を漏らして笑った。相変わらず腕の檻は開かない。
「あとは、まあ、予想通りというか、完全にマークされてた。稀人として疑っているかまでは、まだはっきりしないけどな。予想と違ったのは、一人で俺を待ち伏せてたってことかな。柱の影から飛び出してきた。バレバレだったけど、身分を隠して話すつもりだったらしい」
「ひょっとして……ちょっと気に入った、とか?」
「まあ、面白そうなやつではあるかな、と」
江間らしいと思う一方で、だからこそ心配が湧き上がった。
「その面白そうなやつは、一存で私たちを殺せる」
「……気を付けます。俺、明日から王弟の所にも顔出すことになったし」
江間がかくりと首を垂れた瞬間に首筋に唇があたって、郁は体を震わせた。忘れていた緊張が、再び全身に広がっていく。
吐息が肌をくすぐって声を漏らしそうになるのを、ぎゅっと目を瞑って耐える。
「……」
心なし拘束が強まった気がした。沈黙のせいで、心臓の音がまたうるさくなっていくのを否応なしに自覚させられる。
「宮部」
と低い声で呼ばれて、郁はさらに身を硬くした。
もがいても広がらなかった江間と郁の間に距離ができ、顔が見えるようになった。江間の黒い目が真剣に自分に見、片手が頬に触れた。呼吸までもが停止する。
『あら。あららららら』
「っ」
「っ」
扉の開く音と共にサハリーダの声が響いて二人同時に息を呑むと、慌てて寝室に目を向けた。戸の隙間から顔をのぞかせたサハリーダと目が合い、郁は全身を真っ赤に染め上げる。
『あなたたち、付き合ってるの?』
『違』
『――いません』
さっきは一緒に息を呑んだくせに、江間はもういつもの彼だ。にこりと笑うと、再度郁を抱きしめて額にキスを落とす。
そして、「――約束しただろ、付き合うって」と耳元で囁くと、郁の反発を見越したのだろう、あっさりと腕を解放した。
「……」
(正確には「付き合っているふり」のはず)
そう訂正したいのに、サハリーダの前ではできない。恨めしくて、郁は真っ赤になったまま江間を睨んだが、彼は涼しい顔で笑い返してきた。
『なるほどねえ。まあ、お似合いだけど……ちょっと残念かしら。アムルゼがミヤベを気に入っているようだったから、うちに入ってくれないかと思っていたのに』
ディケセルでは同性婚はさほど珍しくないし、異性婚同様神殿での祝福も受けられるそうだ。結婚した同性は、二人で家を切り盛りすることになるという。もちろん子を持つことはできないので、必要な場合は異性婚の親族から養子を迎えるか、別に異性の配偶者を娶ることもあるそうだ。
知識として聞かされてはいたし、実際江間やリカルィデに同性からのお誘いがあるのも知っていたが、サハリーダのように名家を預かる、地位の高い人があっさり受け入れているのを目の当たりにしてしまうと、アムルゼ云々より先に呆気に取られてしまう。
『他をあたってください。ミヤベは俺が予約済みなので』
『じゃあ、リカルィデを狙おうかしら』
コロコロと笑ったサハリーダは、『そのリカルィデがおなかがすいたと言っているわよ』と言って、寝室の扉を大きく開いた。




