10-5.連絡先
「完全に疑ってる感じだった……どうしよう、今日の夕飯を一緒にって言っていた」
アムルゼを送り出した後、リカルィデは体を震わせた。
「よく頑張った。助かったよ。今晩もあんな感じで大丈夫」
「助かったって……大丈夫って顔、ミヤベはしてなかったじゃないか……」
半泣きですねたように呟くリカルィデに、郁は苦笑を零した。
「お茶出しの時のことなら、別の心配。あれでリカルィデに惚れたりされたら……惚れるは好きになるという意味、それはそれで厄介なことになるなって」
「っ、そ、そんなことになるわけないだろっ」
リカルィデらしいことに、彼女はアムルゼに会った瞬間、彼が自分たちに含むものがあることに気づいた。緊張しながらもそれをどうにか隠し通した彼女をせっかく褒めたというのに食って掛かかられて、郁はため息を吐く。
リカルィデの小さな顔を彩る金の髪は、この国の女子の平均にまだ遠く及ばないものの、耳を隠せる程度には伸び、日の光のような煌めきを湛えて緩く波打つ。その間から覗く大粒の青の瞳は高く澄んだ空の色、髪と同色の深い睫毛に縁取られている。
出会った時はガリガリの、青白い肌をした不健康な子供そのものだったのに、ここに来て急に少女らしくなった。本人は戸惑っているようだが、体に丸みが出てきたし、頬は淡いピンクに色づき、ひいき目を差し引いたって「美しい」以外の表現がない。
「――自覚なく色気をふりまく人間が、これ以上増えるのは困るんだ」
そうジト目で呟いてみれば、リカルィデだけではなく、横の江間も顔をひきつらせた。
「話はどうしたんだよ」
「今の聞いて、言い出せると思うか……?」
「ジゴウジトクだ」
「……容赦なくなってきたな、お前」
ぶつぶつと話す江間とリカルィデを放っておいて、郁はメゼル行きの荷造りを再開する。
「……」
床下に隠していたズタ袋を取り出して、その中身、あちらの世界から持ち込んだ品々を取り出した。森の中で失った物も多いし、衣服やスニーカーなどは森を出る際に燃やしてしまっていて、残りはバックパック、プライヤー、スマホ、財布、家の鍵とキーホルダー、腕時計……。
この家に隠しておくのはまずい。彼らが自分たちを疑っているなら、三人で食事に行った際にでも調べに入ってくるかもしれない。燃やせる物は今燃やし、そうでない物はしばらく身につけておいて、隙を見て処分しなくては。
「捨てるのか?」
「今できる物は今、そうでない物もいずれは。問題はいつどうやって、だな」
煮炊きに使うゴーゴへと薪をくべ、火力を上げると、バックパックを放り込んだ。布製のそれは薄い部分から焦げ目がつき、炎を上げ始める。
「シンプルな財布だな。女の財布って、なんかもっと大きくて、色々入ってね?」
「女性のお財布に随分とお詳しいようで」
固まった江間を横目に、郁は二つ折りの小銭入れすらない革製の財布を鋏でみじん切りにし、火の上からばらまく。そこに数枚だけあったカードを入れれば、ぐにゃりと変形したそれから、黒いすすが上がった。
横から顔を出したリカルィデが興味津々という顔つきで、郁の手元を覗き込んでいる。
「ボールペンは持っとくとして、スマホは捨てるしかないか…」
処分方法しか考えていなかった郁は、ため息を吐いた江間に目を見開いた。同時に納得する。
郁のスマホにはこの世にもういない祖父母の番号の他は、祖母の親友と大学関係などの事務的な連絡先、以前家に来た時、勝手に登録されてそのままになっている江間の番号しかない。江間のとは価値が違いすぎる。
「それぐらいなら隠しておけばいい。どうせ今すぐ処分するというわけにはいかないんだし」
自分のものは隙を見て粉々に砕き、鍵などと一緒に重石をつけて、川にでも流そう。環境には悪いけど、それを言うなら車こそそうだった、と思いながら郁は、薄い布袋にスマホを入れた。食事に出る前に腰に巻き付けて、巻頭衣で隠すことにする。
ただ家の鍵につけたペン型のキーホルダーだけは取り外し、胸元の小袋に入れた。
あとは工具だが、似たような道具はこっちにもあるから、最悪ばれても言い逃れがきく。一応床下に隠しておくとしよう。
「いや、いい。悪いけど、俺のも一緒にしといてくれ」
「……困らないか? 本当に持っていてかまわない」
江間が同じ袋に自らのスマホを放り込んできて、郁は眉間にしわを寄せた。江間のことだから、向こうに帰るのをあきらめたわけではないはずだ。
「大事な相手にはまた教えてもらう」
「またあっさりと。まあ、江間ならそれも可能か」
思わず苦笑を漏らした。が、「そうでもない」と答えた江間は笑わず、まっすぐ郁を見た。
「だから向こうに戻ったらまた教えてくれ、宮部」
「……」
息を止めた郁は、咄嗟に視線を逸らした。
≪宮部さん、連絡先教えて。俺の番号はこれ……あ、SNS、やる?≫
あれは大学に入ってすぐの頃だった。入学式とオリエンテーションの行われる会場に行く途中で迷っていた時、「俺もわからないんだ、一緒に迷おう」と声をかけられたのが出会いだった。
「一緒に探す、じゃないんだね」と思わず笑えば、「それもそうだ」と彼も笑った。
あーだこーだ言いながら目的地に目安を付けて急ぎ足で歩いている時に、桜の花びらが彼の頭にくっついた。なんとなくそれを取れば、「ありがとうな」と人懐っこい笑顔でお礼を返してきた。
妹に付きまとわれるようになってから久しくなかった、友達とのそんな些細なやりとり。どうせ妹に壊されるとわかっていたのに、嬉しくてうかつにも連絡を取り合うようになってしまった。
偶然にも同じ学部学科で、取る授業や入るサークルの話などをして、授業を並んで受けたり、ノートなんかもやり取りして合間に一緒にお茶したりもした。祖父の体調が崩れてしまって実際に行くことはなかったけれど、夏休みには花火大会なんかに行く約束もして……それぐらいまでは本当に楽しかった。
≪姉とうまくいっていないの。私だけじゃなくて、父も母も悲しんでいて……。姉と親しい江間さんにしか頼めないの……。助けてください≫
そして、いつものごとく妹が現れた。
≪江間が優しくするから宮部のやつ、勘違いするんだよ。モテたことのない人間はめんどくさいぞー≫
≪初めまして、私、江間先輩の高校の後輩で、お付き合いしています。このノート、あなたのですよね? 江間先輩……和樹に近寄らないでもらえます?≫
スクールカーストが大学にもあるのだとすれば、彼と自分の階級は明らかに違った。彼女だと名乗って、江間に近寄るなと言ってきた子が、江間にお似合いの子だったこともあって、さらにはっきりと思い知らされた。
距離を取らなくてはいけないと分かっていたのに、時折彼とかわすやり取りで少し笑えるのが幸せで、完全に絶てなかった。その頃には祖母の桜子も既に亡く、祖父が体調を崩すようになっていたこともあって、ずるずると。
≪いかにも処女って子は重たすぎて論外。宮部みたいなのとか≫
その結果があの飲み会の場での「論外」発言だ。それから徐々に険悪になっていった、とぼんやり思い返す。
「……聞かれれば」
「聞くつもりがあるから、言っている」
「……ノートの貸し借りをするような授業はもう残ってないぞ? 妹の苦情ももううんざりだから、受け付けない」
「そんなんじゃない」
茶化して答えたのに真面目な声で否定されて、郁は隠しきれなくなって顔ごと背けた。
「祖父が亡くなった時のことは感謝しているけど、それももう大丈夫だ」
二年前ほどのことだ。葬儀が終わっても大学に行く気になれなくて、一人でぼうっとしていたある晩、所属先の佐川教授から電話がかかってきて、突然江間にかわった。その電話で何を話したかは覚えていない。だが、彼はいきなり訪ねてきて、ちゃんと飯を食えだの眠れだの大学に来いだの言いながら、しばらく一緒にいてくれた。
入学当初から既に変えてしまっていた電話番号を、郁はその時に再び彼に教えたらしく、時折彼から電話やSMSが来るようになったが、さりげなく気にかけてくれているのは伝わってきた。
困っている人間を助けようとしてくれる、彼のその姿勢は今も変わっていない。
「嫌か?」
彼らしくない平坦な声に、心臓が跳ね上がった。
「そうじゃない。ただ……」
――どうせそんな機会はやってこない。
そうとは言えなくて、郁は口を噤んだ。病み衰えた祖父の腕が自分へと向かってくる光景が脳裏に浮かんで、視線を伏せる。
「……ごめん、茶化して。ちゃんと教える」
(キカイガモシアレバ……)
「すまほって、その黒い鏡みたいな板のことだよね。教えるとか教えないとか何?」
謝ってはみたものの、相変わらず江間を見ることができない。おずおずと割って入ってきたリカルィデの声を合図に、郁はお茶の準備に逃げ出した。




