6-1.牙(ゼイギャク)
(喉が渇いた――)
寝台脇に置いてある机の上の水に手を伸ばそうとしたが、腕がうまく動かない。
見習いとして軍に入ってから四十数年、戦場という戦場に赴き、英雄だの戦神の再来だのと呼ばれるに至ったというのに、この体たらく――何たるざまだ。
ゼイギャク・ジルドグッザは未だ不自由な左手を見つめ、屈辱に歯噛みする。
寝室の奥、広大な窓から見えるウォルカ火山がまるでゼイギャクの苛立ちに呼応するかのように、小さく噴煙を吐き出した。
今から三年ほど前のことだ。ディケセル国軍の将軍職にあったゼイギャクは、王都セルでの役目をすべて辞して、自領カードルテに引っ込んだ。
先王崩御の後即位した現王は、崩れ行く国を支える気力を持たない内気な青年だった。それでもいつかは、と思って仕えてきたが、どうにかしようと働きかければ働きかけるほど疎まれる。
ゼイギャクも含めて真に忠誠のある者の言葉が一切届かなくなる頃には、甘言を弄し、王を操ろうとする者以外、王宮から姿を消していた。
その中には王の異母弟であるシャツェランも含まれている。いや、むしろ彼が完全に拠点を自領に移したことにより、ゼイギャクを含めた他の者もセルを見限ったというべきだろう。
ゼイギャクが剣を教えた彼は、激情家ではあったが英明そのもの。人を従える性質にも生まれながらに恵まれていて、彼が太子であってくれれば、と何度思ったかわからない。誰にも話したことはないが、そう思っていたのはゼイギャクだけではなかったはずだ。
先々代の頃から軋み出したディケセルは、現王が即位して以降に致命傷になるであろう傷をいくつも負った。各地の領主が諍いを繰り返し、私軍同士を争わせ、人々が傷つき、大地が枯れていく。その隙をついて周辺各国が侵入を繰り返し、国土と人が減っていく一方で、化け物の住む森だけは広がっていった。
王の周囲にいるのは権力の蜜を吸うことだけを考える者と、ここ二代の王妃をはじめとするバルドゥーバに通じる者、保身に汲々とする者だけで、混乱を収める気も力もなかった。
そんな中、王弟シャツェランの領地メゼルディセルだけが例外だった。
ひどい内戦状態にあり荒廃し切っていた、歴史あるその地を押し付けられた時、彼はまだ十五歳だった。彼の失墜を目論む者、彼の若さを侮る者、憂える者、すべての人々をあざ笑うかのように、彼はカリスマめいた手腕で内戦を終結させ、一気にかの地の支配を確立する。その後は目覚ましい速度で経済を回復させつつ、豊かさを求めて侵入してくる敵を時に軍事力で、時に調略で巧妙に併呑していった。同時にセルの兄王に働きかけ、自らの賛同者で自領の周辺を固める。
そうして彼は、メゼルディセルを中心とするディケセルの南半分を、実質独立状態とした。そのくせ表向きはどこまでも中央に恭順し、王の頼みに柔軟に応じることで、彼に自らを信じさせている。バルドゥーバ派の者からすれば、王弟は目障りこの上ない存在だろう。
ゼイギャクはそんな王弟の野心に気付きながら、諫めることはしなかった。彼の治める地の人々は、セルの人々よりはるかに幸福に見えた。
一方で、王の失墜を食い止めるべく奔走した。いかに現王の振る舞いが目に余ろうと、いかに王弟と近しかろうと、誇りあるディケセルのグルドザたる自分が仕えるべきはディケセル王――そう決めていたゼイギャクが現王を見限ることになったのは、この地、カードルテでのことだった。
ゼイギャクの領地カードルテは、ディケセルの中ほど、王都セルに近い場所にある。ゼイギャクを重用してくださった先王から、戦功の褒美として賜ったものだった。
この地に現王の恩恵を受けたことはなかった。武名高いゼイギャクに、無謀にも戦を仕掛けてくる者は、国内外を問わずいないが、常に無風でいられたわけではない。災害やその後の飢饉の時も疫病が流行った時も、助けてくれたのはシャツェランや他の心ある領主たちで、断じてセルの者たちではない。
なのに、彼らはゼイギャクにも民にも何の断りもなくある日突然やってきて、これまで共にあった神々を排して双月教に帰依せよと迫り、抵抗する領民を魔と決めつけて殺した。問い詰めるゼイギャクに彼らは平然と言い放ったのだ。自分たちの崇める神こそが絶対であり正しい。従わぬ者は殺し、正義を実行する、と。その禍々しさに戦慄した。
自分と異なる者は悪であり、殺してよい――受け入れているのか、見過ごしているだけなのかは知らぬが、その価値観を野放しにする王は存在に値しない。
そうして、ゼイギャクは王に静かに牙をむいた。
自室の扉の向こうが騒々しくなった。戦や火事などでないことは分かるが、人々が慌てふためいている気配がする。
近づいてくる足音に、ゼイギャクは白に染まった眉を跳ね上げた。
『ゼイギャク、入るぞ』
ノックと同時に開いた扉に、体が立ち上がろうと反応する。
『――いい、寝ていろ』
背後に詰め寄せているくせに、おろおろしている侍女やグルドザたちに下がるよう告げると、彼、ディケセル王弟シャツェランは、手近な椅子を自分で引き寄せて腰掛け、『具合はどうだ?』とゼイギャクの顔を覗き込んだ。
『面目次第もございません』
『聞いているのは面目ではなく、体の具合だ』
そう言って笑うと、シャツェランはゼイギャクに改めて向き直り、『すまなかった』と頭を下げた。
ディケセル王族の深い謝罪を現す所作にゼイギャクは目を見張った。シャツェランの金の柳眉は深く寄り、整った顔には深い憂いが乗っている。
その顔の美しさを称えられるたびに少年の彼が激昂していたことを思い出す。あの頃の面影はあるものの、齢二十四を超えた彼は、精悍さの漂う青年となった。
『正直、ああもあからさまに兵を出してくるとは思わなかった。こちらも王への配慮など捨てて、兵を出すべきだった』
グルドザにあるまじき、主君への背信――死後、戦神のおられるハラージョの地に迎えられる栄誉は、ゼイギャクにはもう待ってない。だが、成長した教え子を前に、その罰を甘んじて受けようという気を新たにする。
『それを言うのであれば、私の慢心こそ責められるべきです』
『せめてシドアードをやるべきだった』
『彼は殿下の御身のために。本人も望んでおります』
稀人の来訪を察したコントゥシャ大神殿は伝統に則り、アーシャル王子を長とする応接使の派遣を王に進言したという。
それらの情報がすべてバルドゥーバに筒抜けとなるだろうこと、バルドゥーバが稀人を捕らえるために手を打ってくることは予想できたから、ゼイギャクは自身の配下の中から最も優秀なグルドザを選び、応接使に名乗りを上げた。自身の経歴と実力があれば、バルドゥーバ派はもちろん、王と言えどその希望を却下できないと見込んだ。
だが、減員や異教徒である双月教徒の参加など、バルドゥーバ派から執拗な妨害を受け、最後には揉め事を億劫がった王が『ゼイギャク自身が行くのは認めるから』と彼らの要求をすべて呑んでしまう。挙句、バルドゥーバから蜥蜴兵や竜兵を含めた一大隊を正体を隠すことすらなく堂々と送り込まれ、ゼイギャクは稀人の応接に失敗した。
ゼイギャクは自身のふがいなさに目を眇める。
『バルドゥーバへの怨嗟のみならず、王を疑う声が神殿を中心に広がり出した。まあ、当然だがな』
稀人は始まりの神コントゥシャの使いであり、ディケセル国全体に幸福をもたらすと信じられている。来訪を予見するのはディケセルのコントゥシャ大神殿で、同神の子孫であるディケセル王家がその応接の栄誉にあずかるとされているのにもかかわらず、今回事前交渉すらなく、バルドゥーバに奪われた。
応接使に割り込んできたことと言い、異教徒である双月教が我が物顔でのさばっていることに、神殿もいい加減限界を迎えたのだろう。
『一昨日伺ったが、陛下は優雅に自作の詩吟を詠んでくださったぞ。不可分とされてきた神殿にまで見放されたことといい、自分自身がバルドゥーバに露骨に軽んじられるようになってきていることといい、気付いていないのか、気づいていてなおああなのか』
皮肉に笑うシャツェランの目は、暗さで満ちている。
『失礼いたします』
顔に緊張を載せた侍女が茶を運んできて、室内に沈黙が降りた。
――戦争は避けられない、しかも遠くないうちに。
無言のまま交わされた目線に、ゼイギャクはシャツェランと同じことを確信した。




