5-3.潜伏
「それで……リカルィデ、ばれたって?」
カーテンの向こうでごそごそやっている音を確認すると、江間は郁の横に座って顔を寄せ、小声を向けてきた。
この距離の近さにもそれなりに慣れた。
元々江間は人との距離が近いタイプだ。研究や試験などのことを話す時は、いつも肩が触れ合うような距離にいたし、こっちに来てからは頭を素で撫でてきたり、勝手に手を取ったりするようになった。うざくて江間を見ても、目が合った彼は「? どうかしたか?」などと不思議そうな顔をするだけ。いちいち引っかかる自分が馬鹿にしか思えなくなった。
リカルィデに対しても同じだし、三人兄弟の長子でかなり面倒見のいい兄のようだから、そんな感覚なのだろう。
カーテンだけとはいえ寝室も一応分けてあるが、リカルィデの看護があった頃、付き添いながら一緒に寝てしまうことがあったせいか、今も話しながらなし崩しに雑魚寝してしまうことが珍しくない。
この顔と性格の上こんな距離で他人に接するのであれば、そりゃその気になる人は多いだろうと何度呆れたかわからない。人が寄ってくるのを鬱陶しがっているようだが、自業自得だ。
三十センチの距離にある黒の瞳から何となく意識を逸らすと、郁はカーテンへと目を向ける。
「あの子、『ガッコウ』で掲示物を読んじゃって……」
本人としては張り出してあったから、何の気なしに読んだ、そして周りの子になんと書いてあるか、聞かれたから答えた、それだけのことだったのだろう。問題はそれが領主から「ガッコウ」に出された通知文で、かなり特殊な語彙や表現を使って書かれたものであったこと、そして複数の教師にそれを見られたことだ。
そう説明すれば、江間も眉間にしわを寄せた。
「あまり長居はできそうにないな」
「取るべきものはあらかた取ったし、できるだけ早くここを出たいけど……」
頷いて郁も顔を顰めた。
取るべきものとは、稀人と気づかれずディケセル国に紛れ込むために必要な情報や物だ。言葉や慣習、人々の価値観、衣服、通貨、国内の、特に庶民から見た情勢――これにリカルィデから得た知識をすり合わせることも、あらかた済んだ。
郁たちの目標はこっちの世界で平和に暮らすことではなく、あちらの世界へ帰ることだ。そのために、次に向かうべきはどこだろう? すべきことは……?
「今日の水路の修理で、管理官と世話人たちが『稀人』が現れたって噂してた。流行り出した疫病は、そいつらが一緒に持ち込んだものじゃないかだとさ」
「『ガッコウ』でも似たような話が出ていたよ……。稀人の来訪と災難は一緒に起きるって。その人は災難を上回る恵みがあるって言ってたけど……」
「どのみち迷惑な話だな。となると、今ここを出て行くのがいいのか悪いのか」
異物がどんな扱いを受けるか、わかっているつもりだったが、目の当たりにして、二人同時にため息をつく。
「福地たちはどうしてるかな」
「流行り病はバルドゥーバでも出ているらしいから、同じ噂があったら、まずいかもしれないけど、」
「「福地だけは無事だろうな」」
期せずして声がそろい、郁は江間と顔を見合わせて、乾いた笑いを交わした。
あれは生命倫理の講義で、遺伝子操作でデザインベビーを作ることの問題について議論している時のことだった。福地の主張は一貫して「デザインベビー、すなわち新人類の誕生は“自分”を脅かす」というものだった。
物静かで柔和な印象だが、すべての行動が徹底して自分の益に繋がるよう計算する男だ。信頼はできないが、その意味で信用できる。
「そういえば、その水路はどうだった?」
「損傷部分はこの辺りより下流側だった。下水とは交わってなかったけど、川の水が混ざっちまったみたいだ。この間の雨で増水してたからかな。キャンプん中は上水は上水、下水は下水として分かれてるけど、これじゃあな……」
≪きれいな水と使った水を、上水と下水って考え方で分けて、その二つを混ざらないようにしていると思う≫
≪塩素で消毒するはず……塩素が何かって? 私もよく知らない。……わかったよ、調べればいいんでしょ。てか、頼む立場のくせに、なんでそう偉そうなの、シャツェラン≫
幼馴染との昔のやり取りを思い出してしまい、郁は眉根を寄せると、かぶりを振った。
「川の水……確か流行り病が出ているのはセゼン、つまり北東の地域」
「ああ、ここから見て上流だ。じきにこのあたりにも来るだろうな」
その場合はどうするべきだ――郁は眉間にぎゅっと皺を寄せた。ただでさえやるべきこと、考えるべきことばかりだというのに……。
「ところで、宮部、あの服の金どうしたんだ?」
「え、ああ、うん、守り袋の中の銀貨で買った」
「……古い硬貨なんだろ?」
「古いほうが品質が良くて、むしろ好まれるよ」
考え事をしている郁は、その答えに江間が訝しみの視線を向けてきたことに気づけなかった。
背後のカーテンが動く気配がして、郁と江間は振り返った。だが、リカルィデは出てこない。
「……入るね、リカルィデ」
理由がわかる気がして、郁は一呼吸吐いた後、微妙な緊張と共にカーテンを寄せた。その向こうへと足を踏み出せば、着替えた彼女が寝台の前で真っ赤になって、口をへの字に曲げていた。
郁自身ファッションセンスがあるとは言い難いから、人のため、しかも特殊な事情を抱えている彼女のための服ということで、迷いに迷って選んだのだが、予想以上に似合っていてホッとする。が、そう口にしていいのかどうか。
(外見を褒められると、むきになって否定に走った挙句、あとで落ち込むのよね、この子……)
それだけ鬱屈があるのだろうけど、と困った挙句、郁は無言でまだ小さい頭をなでる。が、結局「子、子ども扱いするなと言っている……!」と吼えられた。
さらに困りながら、彼女の肩をくるりと回して、服と一緒に買ってきた『オビ』を腰に結んでやる。おそらく昔ここに来た日本人稀人のファッションの一部が、ディケセルに根付いたのではないかと思う。
「お、やっぱり似合うなー」
「……に、似合うって」
「あー、お前によく合っている、様になる、可愛い、いい感じ……あとなんだ?」
「い、意味を聞いてるんじゃないっ。け、ど…………そう、かな」
次いで入ってきた江間は、郁が言えない言葉をあっさり口にした。そして、郁がしたように彼女の頭を「いい子いい子」とばかりに撫でた。が、がニコニコ微笑んでいるせいか、リンゴ顔負けの色になりつつも、リカルィデは彼には反発しない。
「……人たらしっていうべきだった」
呆れ混じれに息を吐き出せば、そんな言葉も一緒に口を突いて出た。
「で、でも、髪、短いし、男が女のふりしていると思われるかも…………やっぱり前の服で」
「ないない。前に比べたら伸びたし、顔つきも違和感がない。大丈夫だよ」
穏やかに言い聞かすような江間と話すうちに、慣れないリネル姿に戸惑っていたリカルィデの固い空気が和らいでいく。ついでに言えば、かすかに頬が染まっている気もする。
「……」
(気付いてそうやっているのか、そうでないのか……。なんせ傷つけるようなことはしないで欲しいけど……)
リカルィデを見ながら、郁は長々とため息をついた。
大体リカルィデだけじゃないというのは、先ほど近所の人たちも言っていたじゃないか。
無論納得はできる。彼は見た目と言い、他者への思いやりに満ちた振る舞いと言い、シャツェランよりよほど王子様然としているのだ。もちろん郁以外には、の話だ。
今もそうだ。リカルィデに向けられている涼しげな眼もとは柔らかく弧を描き、いつも自信を見せて笑う形のいい唇は、小さく微笑みを湛えていて、そこから出てくる言葉は相手の不安に寄り添う思いやりに満ちている。
あの江間に「論外」と笑い捨てられる女は、二つの世界中を探してもおそらく自分一人だろうと郁はもう何度目かわからない苦笑を零した。
そのくせ彼はそんな相手すらも助けようと言うのだから、本当に人がいい。
「そんなに疑うなら、宮部にも聞いてみればいい」
「……」
突然話がふられて、慌ててリカルィデを見れば、こちらを不安そうに見ている。
幼さの残る顔立ちは整っていて、どことなくトゥアンナや彼女に似た郁の妹を思わせる。一緒に連れてきてはみたものの、妹と重なって見えてひどいことをしたらどうしよう、最初はそう思っていた。
でも、この一月半で知ったリカルィデの中身は、彼女たちとは全く違っていて、この子はこの子で真面目で、多分とても優しい。
存在丸ごと道具にされて、他人との接触はおろか、行動も厳しく制限されてきたようなのに、侍女すら日替わりにされて、誰とも話さず、書物だけを見て過ごす日も珍しくなかったというのに、それでも彼女は人を思いやることを知っている。郁たちを可能な限り助けようとしてくれて、他の人々もできる限り助けたいと願っている。
リカルィデと自分自身を取り巻く抑圧と不自由の中で、「ヨコテサチコ」という女性の稀人がどれほどの愛情をリカルィデに注いだのか、見える気がする。
「……可愛いと思う、本当に。無理強いはしないけど、できたら着てくれたら嬉しい」
「ミ、ミヤベがそこまで言う、なら……」
殺されかけてようやく自由を手にしたのだから、枷にしかならない血から逃げる機会を得たのだから、どうかこのまま――そう願わずにはいられない。




