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故地奇譚 ―嘘つきたちの異世界生存戦略―  作者: ユキノト
第29章 遺恨 ―メゼルディセル―
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29-8.反感

「……うきうきだな」

「だって本当に久しぶり……。しかもお湯が貯めてあるって、自由に使っていいって、せっけんもあるって……! 統官、ありがとう……」

 ギャプフ村の統官は有能であると同時に、至極面倒見のいい人でもあった。その彼に勧められて、好水布を抱えて役場の廊下を湯浴み場に向かいつつ、郁は浮き足立つ。

「今回は背中だけじゃなくて、全身洗ってやろうか?」

「……いらない。それさえなければ、最高なのに」

 からかう江間に、郁はぶすくれる。

「仕方ないだろ、あまり使われないとはいえ、共用の湯浴み場だって話だし、女だってことはできるだけ隠した方がいいわけだし」

 他の人が入ってきた時に、咄嗟に郁を隠せるよう、一緒に入ると江間は主張するのだが……。

「外で待ってて、誰か来たら知らせてくれるっていうのは……?」

「俺もさっさと風呂に入りたい」

 そう言われると弱い。

「大体気にするような間柄でもないだろ? といってもこの二月は、」

「っ、そういうこと言うの、なしっ」

 焦りと羞恥で赤くなる郁に、江間が人の悪い笑いを零した。

「全身隈なく洗いたいのに、こんなのに気を使いながらだなんて……」

「意識してくれてどうも」

 懲りる気配なく意味深に笑う顔を、郁は恨めしさいっぱいに睨んだ。


「あ」

「……菊田先輩」

 廊下の角を曲がった先に、菊田がいた。驚きで見開かれた彼女の目がさっと江間へと走ったこと、そして、横の江間が機嫌を一変させてため息を吐き出したことで、郁は緊張を覚える。

 彼女の背後には布と着替えを抱えた空色の目の女性ソラと赤髪の少年ベニ、護衛と思しきグルドザがいる。


 郁たちの目的が菊田と同じことを悟ったらしいベニが、『水浴びは全部キクタさまが使うんだ。あっち行け。エマなら許してやってもいい。キクタさまにお願いすればだけどな』とふんぞり返った。

『なんでお前の許可がいるんだよ。行くぞ、郁』

『っ、なんでそんなのの味方すんだよ、エマっ。そのゴミは絶対ダメだからなっ。げ、げせん、なんだっ』

『ベニ、やめて、やめなさい』

『キクタさまが……え、えんりゅ?することなんかないです。こんなのと水浴びなんて、気色悪い。こいつ、化け物の世話奴隷だったんですよ。あいつらの血や糞まみれだったってゴジャンも言ってた。あー、臭い臭い、キクタさまに寄るんじゃねえよ、バカ』

「……」

 事実ではある。郁的に奴隷生活の何がきつかったかと言って、人が死んでいくことを除けば、鞭で打たれることより、残飯ご飯一食より何より、体を清潔にできないことだった。

(そうか、そこまで臭うのか……)

 それなのにずっと側にいてしまった、と気まずさと共に江間を見れば、落ち込みが一気に吹き飛んだ。子供の言うことだし、苦笑か呆れ程度だと思ったのに、明らかに怒っている。


(……まずい、江間だけじゃない)

 江間だけではなく、彼女たちの後ろにいるグルドザも不快そうに眉根を寄せていることに気付いて、郁は今更ながら表情を硬くした。

 こんな扱いは別に珍しいことじゃなかったからスルーしていたけど、違う。郁の問題じゃない。


『そいつが言っていること、まったくわからないわけじゃないんだろ? なら、きっちり黙らせろよ』

 江間が恐ろしく剣呑な響きのディケセル語を、菊田に向かって放った。彼女の顔が蒼白になる。

「それとも我が意を得たりって感じか――最低だな、相変わらず」

(今の、江間の言葉……?)

 吐き捨てるような日本語が続いて、郁は冷や汗を流す。

 郁やリカルィデが何かまずいことをしてしまった時、江間はその行為自体を怒りはするが、人格を否定するようなことは絶対にしない。声も不機嫌や怒りを含みはするが、こんなふうに嫌悪と軽蔑が入っていたことはない。

 向こうの世界ではもちろん、こちらに来てからも見たことのない彼の菊田への態度に、郁は焦りを募らせる。


『ベニだったよね? 君は元々奴隷だったと聞いた。下賤の意味は分かって使っている? 卑しい、という意味だよ』

 菊田を睨んだまま再び口を開いた江間を遮ろうと、郁はベニに話しかけた。

『気安く話しかけてくるなっ、クズっ』

『君はバルドゥーバ人にそう言われて嬉しかった? 彼らは君を赤髪とでも呼んで、人扱いしていなかった、違う?』

『だからあいつらには罰が下ったんだっ、キクタさま、稀人にまでひどいことをするから。お前にも罰が当たるからなっ』

(ああ、まずい……)

 まったく話を聞こうとしない少年に、郁は顔を歪める。言葉を届かせたくて、身を屈めてその顔を正面から見た。

『ベニ、君が今やっていることは、バルドゥーバ人と同じだ。稀人の付き人の君も“えらい”から、“下”の人には何を言ってもいいし、してもいいと思っているように見える』

『あ、あいつらと一緒にすんなっ。奴隷の中でも一番ダメなゴミが、化け物に回されるんだ。化け物の世話係だったくせに、お前、偉そうなんだよ……っ、黙れったら黙れっ、殺すぞっ』

 江間とグルドザだけじゃない。菊田と一緒にいるソラの顔まで曇って、さらに焦る。

『一緒だ。見下されて嫌だっただろう? 自分がされて嫌なことをしてはいけない。自分のためにもやめるんだ』

『っ、お、お前みたいなグミンに何がわかるんだよっ、ブス、クズ、ゴミっ。いいからお前なんかどっか消えろっ、キクタさまの前だぞっ、殺されたいのかっ』


「……」

 顔を髪と同じくらい真っ赤にして、唾を飛ばして怒鳴る少年の様子に、郁は自分の無力を悟った。ため息をつき、背を伸ばす。

「菊田先輩、彼の言動は周囲の反発を買います。諫めてください。稀人は崇拝の対象にされやすいですから、こうやって稀人の威を借りようとする人間が出てくる。ちゃんとコントロールしないと、先輩も危険になります」

 菊田に向き直り、日本語で話しかければ、ベニが顎を落とした。

『お、お前、お前も稀人なのか……?』

『つい二年前まで別の日本人、稀人がディケセルにいた。ディケセル王族やコントゥシャ神殿の関係者を中心に、菊田と同じ言葉を話せる人間はいる』

『じゃあ、エマ、お前、嘘ついたのかよっ』

『俺も誰も、俺が稀人だとは一言も言ってないだろうが。勝手に言いまわりやがって、いい迷惑だ』

 ベニと江間のやり取りには目もくれず、菊田は郁を凝視していたが、徐々にその頬が紅潮していく。

「っ、な、なによ、偉そうにっ、宮部さんなんかにまで、そんなふうに言われる筋合いないからっ」

 そして、涙目で怒鳴ると、踵を返して引き返していく。

 途中で泣き出したのか、横を歩くソラがあたふたしながらその顔を覗き込み、ベニは振り返ってこっちを睨んできた。


「……謝ったって? どう見たって反省してないだろ、あれ。お前の名前を奴隷たちの前で呼ぶなってのもすっかり無視、挙げ句、この期に及んで“なんか”呼ばわりだ」

 嫌気を隠さず「やっぱり放っとくべきだった」と言い捨てた江間に、郁はさらなる無力感に打ちのめされる。

「ちょっと感情的になっただけで、悪いと思ってくれてはいると……。目下の人間に諭されるのはやっぱり面白くないだろうし、もう少しタイミングと言い方を選ぶべきだった」

「ここは平和な日本じゃねえ。タイミングや言い方を考えて遠慮されたり様子見されたりしたら、その間に死ぬってのに、本人がまったくわかってない。もうほっとけ」

 凹んだ郁を前に江間は顔を顰め、「福地が菊田をバハルにやったの、なんとなく理解できるな。あれだけ感情的に動かれると、自滅するだけじゃなくて、こっちにも火の粉が飛んでくる」とぼやいた。

「だからってまずい方向に突き進んでる今の状況を、放っておくわけにもいかないでしょう……」

「そうか?」

(……え?)

 あまりにさらりと答えられて、郁は一瞬意味を捕らえ損ねた。

 佐野の時、江間は記憶に関しては放っておけばいいと言ったし、関わりたくなさそうだったが、安全については気にかけているようだった。なのに、今のはまったく迷いがなかった気がする。

 郁の視線に気づいたのか、江間は「やれることはやってやった。後はあいつの問題だ。だから、もう気にすんな」と言って、郁の頭に手を置いた。

 最終的に自己責任という点には郁も同意するが……。

「ええと……とりあえず体をさっぱりさせて、気分転換……」

「そこは譲らないのか」

 疑念を持ちつつ捻り出した言葉に、江間はくすっと笑い、「行こう」と郁の背を優しく押した。

 その顔も仕草もいつもどおりで、郁に更なる戸惑いをもたらした。


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