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故地奇譚 ―嘘つきたちの異世界生存戦略―  作者: ユキノト
第29章 遺恨 ―メゼルディセル―
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29-5.異世界の“正しい”

(帰ってきた……って言うのも少し妙だけど)

 この世界での故郷となりつつある地をしげしげと眺めていた郁の耳に、江間の呟きが届いた。

「……俺さ、人を斬った。多分殺した」

 山肌を上ってくる初夏の風にかき消されそうになるぐらい小さな声に、郁は真横を振り仰いだ。いつも豊かに表情を変える彼の顔には、今、何の表情も浮かんでいない。

「その瞬間、刀を取り落としそうなぐらい動揺したんだ。やったらダメなことをやったってのもだけど、人の肉を切った音とか、振動とか、血の匂いとか、そいつが俺に向けてきた顔とか、生理的に無理で、吐きそうになった」

「……」

「でも、きつかったのはほんとに一瞬でさ、あとは殺されるぐらいなら殺して何が悪い、って」

 彼は淡々と言葉を吐き出していく。

 こんなふうに自分の弱さをさらけ出せるのが、逆に彼の強さなのかもしれない、と思いながら、郁は彼の横顔をじっと見つめる。

 風が彼の黒髪を繰り返し躍らせる。

「私も、斬ったよ。それだけじゃない、助けられなかった命も打算の上で見捨てた命もある、たくさん……」

 あそこに入ったばかりの頃、奴隷の一人がバルドゥーバ兵に腕を切り落とされた。慌てて駆け寄って止血しようとしたけれど、止まらない。同じ兵に『お前も同じ目に遭いたいのか』と剣を突き付けられて、結局諦めた。

 イェリカ・ローダ舎では弱り切っている人が働かされていたのに、どうすることもできず、結局その人は檻の間近で倒れて、“切り裂くもの”に殺されてしまった。

 襲撃のあった朝もだ。追ってきたグルドザを切ったが、あの人もきっと生きてはいないだろう。

 懇願を含んだ目、事切れる寸前に誰かの名らしきものを呟いた顔、苦悶の残った死に顔、切られた瞬間の憎悪と絶望に満ちた顔――それぞれが脳裏に焼きついてしまっている。

 それらの顔が思い浮かんでくるたびに生じる体の震えを振り払おうと、郁は首を横に振った。

 たまたま実行に至らなかっただけで、自分が殺されかけた時には、冷静に相手を殺す算段をつけていたことを思い出す。

「私も同じだ。自分が人を殺せる人間だという事実にも、人を殺したという事実にも、確かにショックを受けてる。でも……結局のところ、自分が生き延びるためだったと割り切ることができてる気がする。でもそれが正しいことだとも思えない。でも間違っているとも思わない……わからない」

 人を助けるのが正しい、でもそうすれば自分が死ぬ。人を傷つけてはいけない、でもそうせねば自分が死ぬ――祖父はすべきことをせよと言った。でも、この世界では、その「すべきこと」も「すべきでないこと」も、わからなくなる。


 無言のまま、眼下に広がる、異世界の森に再び視線を戻した。

 始まりはあの森だった。あそこからこの世界に入って相当の時間を過ごし、それなりに馴染んできていると思っていた。

 でも今回のことがあって馴染めない、馴染みたくないと思った。なのに、馴染んできている気がする、それが怖い。


「俺にとって絶対的な“正しい”があるとするなら、郁が生きていることだ」

 握り合う手に力が込められた。彼のその手の皮膚がギャプフで別れた時より硬くなっていることに気付いて、胸が詰まった。

「私の“正しい”は、江間が生きて、幸せでいてくれることだ」

 郁も同じ力で彼の手を握り返した。ガサガサで傷跡だらけになってしまっている手だけど、江間はきっと許してくれる。

「……さっきの訂正」

「?」

「郁が生きて、俺の横にいることこそが正しい。幸せには俺がするから、そこは気にすんな」

 にっと笑って言われて、郁もつられて笑った。

 そして、死んでいった人たちそれぞれにも同じように想っている人がいた、と思いついて視線を伏せる。

 同じことを考えているのだろう、「あっちの世界で平和平和って繰り返す大人がいた意味、ようやく実感できた」と江間が小さく呟いた。


 また風が吹いてきて、二人の髪を乱した。ディケセルからのそれは、森と土の香りと湿り気を帯びている。

「……リカルィデ、心配してるかな」

「お前、覚悟しといたほうがいいぞ? あいつ、ブチ切れてたから」

「うー、あの子、怒ると怖いんだよね……」

「あと、シャツェラン……は、俺にも切れてるからな」

「え、なんで?」

「色々ありまして……」

 目を泳がせた江間に、郁は顔を硬くした。

「硝石……?」

「つーか、それから作る火薬だな、火薬って存在自体は隠し通した。けど、何かヤバイものを隠してるってのはばれて言い合いになって、それきりまともに口も利かないでメゼルを出てきた……」

 江間は眉間に皺を刻み、「悪い」とため息をつく。

「他にやりようがあったんだろうけど、お前のことしか考えてなかった」

 あまりにサラッと言われて、一瞬何を言われたのか理解できなかった。


 真っ赤になったのを気付かれたくなくて、郁は顔をギャプフへと向け直す。

 風が周囲の木々の葉をさわさわと揺らした。


「知ったら、シャツェランは欲しがるだろうな、火薬」

「お前がそう思うなら、そうだろうな……」

「為政者としては正しいんだろうけど……」

 彼は責任感があって、真面目だ。“為政者として正しい”ことをするだろう。

 彼であれば、むやみに民を殺すような、おかしな使い方はしないと郁は信じている。だが、バルドゥーバ人たちを全滅させることを前提にした、バハルのあの作戦を立てたのも彼だ。

「使わせたくない」

 はとこであり幼馴染でもある彼が、満開のリカルィデの花の下で見せた顔を、思い出す。

 郁が笑うと、それで目元を緩めて少し照れたように笑った。ちょっと短気なところはあるが、彼はちゃんと優しいはずだ。

「あいつ個人がめちゃくちゃな使い方をするとは、俺も思ってない。けど、というか、だからこそというか、俺も嫌だ」

 揉めるだろう、今度こそ決裂するかも、と郁と江間は、愁眉を露わに遠く霞んで見えるギャプフの村を見つめた。

 シャツェランも近いうちにあそこに到着するだろう。


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