26-3.ゼレゥチェ・ジルドグッザ
『なに、あの人だかり?』
『珍しいな』
その日メゼル城の内務処塔を出て、庭園横を歩いていた郁と江間は、人垣から響く若い女性たちの透き通った高い声に首を傾げた。
メゼルの城には若い女性が少ない。普段見かけるのは下働きの女性ぐらいで、ディケセル貴族の慣習のせいで、女性文官・武官も少なければ、身の回りの世話を受ける高位の人間がシャツェランしかいない今侍女も少ないという。
加えて、シャツェランがこの地を治めて、まだ十年未満。彼が引き抜いてきた人たちも若く、独身者か、娘などがいても、ほとんどの場合まだ幼いため、彼女たちが城を訪れることもない。
それでも、夜会や茶会などが開かれるのであれば、その会を目的にやって来る人もいるのだろうが、生憎シャツェランはそういったことに興味はないどころかむしろ嫌い。
とどめに、部下たちに要求する仕事の水準が高いとなると、彼らは出会いを探すより、目の前の仕事を片付けることに集中せざるを得なくなる。
一番悲惨なのは城で働く異性愛者の男性で、江間などはあちこちで愚痴を聞きまくっているらしい。次に悲惨なのは、「壁になりたい……」と言い出すくらい本気で嫌がっているのに、行く先々で注目されるようになってきたリカルィデかもしれない。
そんな環境だから、いつになく華やかな空気に、郁も江間も珍しいものを見つけたような気分で立ち止まり、一緒にいたアムルゼとエナシャへと目をやった。
『ゼイギャクさまの末娘のゼレゥチェさまがメゼルに滞在なさることになったのは、知ってる? 彼女と、』
『それで殿下の婚約が本決まりになると思って焦って押しかけてきたどっかとどっかの娘とその取り巻き』
『……エナシャ、押しかけてきたという表現はやめよう。あと、名前とまでは言わないけど、娘じゃなくて、せめて御令嬢で』
『ほんとのことじゃん。やってること、庶民と変わんねえし』
長男アムルゼ・リィアーレの苦労は絶えない。共感できる経験がたくさんあるのだろう。江間がリィアーレ兄弟のやり取りを見ながら、苦笑を漏らした。
野次馬根性に一抹の警戒を交えて、立ち並ぶ人々の隙間を覗けば、中心には美しく着飾った女性たちがいた。
そのさらに真ん中に三人。一人は見せろと言われて土蟲を見せたら気絶したイケリハ領の、確かキュズィルという娘で、もう一人はどこかで見た気がするが、思い出せない。
その二人からの挨拶を鷹揚な態度で聞いているもう一人、銀髪の娘がゼレゥチェ・ジルドグッザだ。挨拶の仕方に明らかな差があるのは、ゼイギャクの働きゆえにジルドグッザ家が国内貴族の最高位、陽の位にあるからだろう。相変わらずの身分社会だ。
ゼレゥチェは挨拶のために跪礼をとっている二人と比べて小柄で、着ているリネルも二人のものと比べて、極シンプルだ。なのに、それでも存在感があるあたりが、まさにゼイギャクの娘という人で、郁も面識がある。
『可愛い、可愛い末っ子なの』とゼイギャクの妻が話していた彼女は、ルテゼルの街で泉源の場所を確認しつつ硫黄を採っていた郁を見つけて、話しかけてきた。そして、温泉街を作ってはどうかという郁の野望を、興味を持って聞いてくれた。
彼女であれば、ぜひシャツェランの妃に、とは思うものの……。
『温泉のある場所から、わざわざない場所に来たがるなんて……』
『とことん温泉にこだわる気だな』
江間の呆れ交じりの言葉に、郁は『本気で移住を考えている』と真剣に頷く。
『――却下と言っただろうが』
背後を行きかう人々の間から声が響いて、四人は一斉に振り返った。
『ばれますよ、殿下。わざわざこんなことしてるのに……』
『ほら、さっさと行かないと』
フードを目深にかぶって声をひそめ、人目……というより、前方の女性たちの視線を避けるように身をかがめているのは、この城の主シャツェラン・ディケセルと、その護衛の近衛兵士団のグルドザたちだった。
『……憐れむ目で見るな、お前らは本当に無礼だ』
一様に沈黙する郁たちを睨むと、シャツェランは次の瞬間、人の悪い笑みを浮かべて、近衛の一人に耳打ちする。そして、『じゃあな』と言って足早に去っていった。
『エマっ、アムルゼっ』
「……は?」
十分な距離を取った後、先ほどの近衛のグルドザが叫んだ。女性たちの視線が、一斉にこちらに向き、どこか嬉しげに見える顔で足を踏み出してくる。
エナシャが『殿下、やるなあ』とケタケタと笑う傍らで、江間とアムルゼ、そして郁は顔をひきつらせた。
『先日我が領地に来た時以来ですね、エマ、アムルゼ』
『……ご無沙汰しております』
『ご機嫌麗しく』
『エマ、父からの書状は見ていただけましたか? 私、エマの気持ちを直接確かめたくて、ここまで来たのです……』
『オルゲィ内務処長経由で、すべて正式に返事をさしあげているかと。私の気持ちもその通りです。シャツェラン殿下のご意向も踏まえてのことです』
『アムルゼ、昔出会ったことがあるの、覚えていますか。こんなふうに再会できる日が来るなんて……』
領主の娘とその取り巻きが集まって来て、江間とアムルゼを中心に輪ができた。そこから、あっさり弾かれた郁は、同じ憂き目に遭っているエナシャと顔を見合わせて、肩をすくめる。
『うーわ、あの女、昔あのリィアーレ家も落ちぶれたものねとか言って、俺たちのこと笑ってたやつじゃん。兄貴も大変だなあ。俺、次男でよかった。けど、すごいのはエマだよな。身分もない、素性もよくわかんないって言うのに』
『だね』
『って、他人事みたいに言ってちゃ、お前はダメだろ、エマの婚約者のくせに。さっきのだって、結婚の申し込みだろ。てか、マジでしつこいな、引くわー』
とエナシャは言うが、それこそ他人事だ。
自分が出て行ってどうにかなるとも思えず、郁は眉根を寄せる。
それでも努力すると約束したわけだし、ちゃんと付き合うと言った以上、どうにかしなくてはいけないのかも、と覚悟を決めて、輪の中に入ろうとすれば、当の江間が焦ったような顔で首を横に振った。
『……期待されてなさそう』
『というより、あなたにとばっちりが行くのが、嫌なのではないかしら?』
申し訳なさと情けなさで、ため息をつけば、真横から涼やかな声が響いた。
『ゼ、レゥチェさま……?』
『ゼレゥチェで結構よ。お父さまが呼び捨てを許した方から、“さま”付けされるのは居心地が悪いわ』
いつの間に中心から外れていたのだろう、輪の外にひょっこり顔を出したゼイギャクの娘は、驚く郁とエナシャに『久しぶりね、ミヤベ。そっちのあなたはオルゲィ・リィアーレの息子のエナシャだったかしら?』と屈託なく微笑んだ。