26-2.軍靴
食料師たちが畦周りの水路に板を打ち込むのを、リカルィデたちが手伝い始めた。二十前後ぐらいの若い男性二人に落ち着きがなくなり、年嵩の土木司所属の副輔がそれを見て苦笑している。
「騙されてる騙されてる。見た目だけは可愛いからなあ、二人とも」
「中身も可愛いよ。って、知ってるか」
思わず笑えば、江間は面白くなさそうに顔を顰めた。
「さっきまでシャツェランのところにいたんでしょう? バハルやレジスタンスのこと、何か言ってた?」
周りに人がいないことを確認し、郁は江間に気になっていた話題を振る。日本語を介する人間はメゼルディセル近辺にはいないと知ってはいるけれど、内容が内容だけにやはり警戒してしまう。
「ジィガードたち、レジスタンスのところに第五師団の士官が入ったらしい。今、レジスタンス相手に軍事訓練を施しているそうだ。終わったら、メゼルディセル兵に合流させて、バハルに侵攻するってさ」
江間が極秘事項をあっさり話す。
続いて、砂漠のオアシス、バハルにいるバルドゥーバ軍は大隊ひとつ、五百名程度の見込みであること、対するレジスタンスは百五十名、そこにメゼルディセルから第五師団所属の大隊を一つ出す予定であることを付け足す。
「五百対六百五十……」
口の中で双方の兵の数を繰り返して、郁は視線を伏せた。決して大きくはない数字が、どうしようもなく生々しい。
向こうの世界でも戦争の話はあった。昔の日本でも、そして現在の世界のあちこちでも。何百何千何万の戦死者と負傷者――ついついその数の大小で戦禍のほどを考えてしまうけれど、どの『一人』の背後にもその人を大切に思っている人がいる。
例えば、郁の密かなはとこでもあるエナシャ・リィアーレ、グルドザの彼が戦争に駆り出されるようなことがあったら? もしそれで死んでしまったら? 彼の両親のオルゲィもサハリーダも兄妹のアムルゼもチシュアも、そして郁自身も恐ろしい悲しみに見舞われるだろう。
「……本当に戦争だ」
「ああ……火種は元々あったとはいえ、きっかけになってるのは俺たち『稀人』だ」
思わずつぶやけば、江間がやはり沈んだ声で応じた。その言葉がひどく重い。
「早く帰りたいけど……」
現実問題、帰り方がわからない。
それ以上の問題は寺下、そして誰より福地だ。帰る方法が見つかったとして、彼らを放っておいていいのだろうか……?
湖からの風が田んぼの若苗を揺らした。陽光を受けて、葉が銀に光る。同じ風が郁と江間の横を吹き抜けていく。
とても平和な光景だった。でも、薄氷の上にある。
今の時点では答えの出せない問いを振り切ろうと、郁はかぶりを振った。
「リカルィデがバハルはギャプフ村の東の山脈向こうに広がる砂漠の中って言ってたけど、侵攻経路はやっぱり砂漠かな。砂漠に生えてるっていう植物はどうするんだろう。棘だらけで密に生えていて、侵入を阻むっていう……『コイゥニの首』だっけ?」
「最近その植物を喰う家畜が、砂漠に放牧されるようになったんだと。バハルの奴隷たちが知っているその放牧地を辿って近づく計画だそうだ。向こうにもレジスタンスのメンバーが奴隷として潜入していて、連絡がとれる体制になってるってさ。まあ、当然リアルタイムかつ自由にって訳にはいかないだろうけど、ないよりは遥かにましだ」
出たとこ勝負、行き当たりばったりよりは確かに安全そうだ、とレジスタンスやメゼルディセル軍を思って安堵した後、郁は首を傾げた。
「じゃあ、菊田先輩のこともなんか聞いた?」
「知らん。聞いてないし、興味もない。感情任せで動くから、あいつに情報を流すのはやめるようにとは言っといたけど」
すげなく肩をすくめた後、江間は「それよりシャツェランがイェリカ・ローダの対策を立てろと言ってきた。バハルの侵入に成功した後は、バルドゥーバ軍よりイェリカ・ローダのほうが厄介なんじゃないかだと」と別の問いを向けてきた。
「“切り裂くもの”であれば、弱点は頭部の目。鎌と尾に気を付けさえすれば、普通の武器でも殺せるとは思うけど、一撃一撃の威力が高いし、できれば弱らせてからのほうがいい。問題は弱らせ方だけど……」
「月聖岩の粉か……効くかどうか、事前に確かめておくか。できれば、月聖石の武器も一緒に」
惑いの森で対峙した、カマキリに似た化け物を思うと、知らず眉間に皺が寄った。同時にあの時の胃がひっくり返るような恐怖が湧き上がったが、一応自力で仕留めることができた、と自分に言い聞かせてなだめる。
「……悪い、嫌な記憶だったな」
「そうでもないよ」
気遣うような視線に、郁は苦笑を零した。
「そういえば、シャツェランがお前はなぜ来ないんだって文句言ってたぞ」
「会うたびにいつも喧嘩になる。処刑されるのはごめんだ」
ふとゼイギャクの居城の農園で、同じような会話をシャツェランとかわしたことを思い出した。彼は今と同じセリフを口にした郁に、真剣な顔で『しないし、させない』と言い切った。
彼がおかしな笑いを見せたのは、その後だ。郁の祖父母が死んだ話をし、両親とは相変わらず疎遠だという話をした直後に、確か『よばれない』とか呟いて。
(親は私を探していないだろうから、それならこっちにいろという話だったけど……)
――なら、なぜ笑った?
また頭をもたげた違和感に、郁は目を細める。あの時のシャツェランは何かがおかしかった。
「ねえよ。あいつ、文句も憎まれ口も言いまくるけど、いつもそれだけだろ」
江間の言葉に、郁は再び彼に意識を戻す。
「となると……ただのかまってちゃん?」
思いっきり吹き出した江間には、思い当たることが大いにあるのだろう。
シャツェランの我がままに終始振り回されて苦労している彼に、これ以上負担をかけたくはない。
「じゃあ……私もぼちぼち顔を出すようにする」
「俺も付き合う。喧嘩になって、万が一にでも郁が処刑されるのはごめんだし」
「いいよ。そうならないように気をつけるから、せめてその間ぐらいゆっくりしたら?」
「俺がしたいからするんだ……定期的に会わせてガス抜きさせないと思い詰めそうだし」
「? ガス抜き?」
妙な言葉に眉をひそめれば、江間は「あいつ、稀人好きだから、あっちの情報源は多い方がいいって話」と爽やかに笑った。
(……何か隠してる、いや、企んでる……)
胡散臭い笑顔にそう気づいたものの、追及したところで江間が吐くはずはない。
だが、彼が自分に害をなすとはなんとなく思えない。
以前なら警戒を強めていただろうに、と思うと、自分に起きている変化に驚く。
「一緒に行くことも含めて気にすんな」
「じゃあ……お手数おかけします?」
そんな言葉にすら嬉しそうにする彼につられて小さく笑って……ふと後ろめたくなった。
江間の向こうに、チシュアが支える板へとよろけながら木槌を振り下ろしているリカルィデの姿も見えて、ますますその思いが強くなる。
多分シャツェランは、郁とは別の意味でずっと孤独だったのだろう。そして、郁と違って、それは今なお続いている。
彼は先王の第二妃だったという母を、それなりに慕っていたように記憶しているが、既に亡くなっているし、その直後に夢で会った時も『病弱な方で、あまり話したことがないから、よく知らないんだ』と言っていた。寂しそうに見えたが、母親が亡くなったためだったのか、関係の薄さを嘆いていたのか、その両方だったのか……。
加えて、今はもう崩御している父親についても、現国王である兄についても、彼はまるで上司が部下を評価するように淡々と話し、感情が見えなかった。当時剣の師匠だったゼイギャクについて話す時の方が、よほど感情豊かだった。
今、彼を支える恋人や婚約者などがいる様子はない。昔婚約者がいると言っていた時期があるにはあったが、顔もよく分からん、とつまらなさそうに話していた。
立場があって、気軽に友人と呼べる人間も彼にはごく少ないはずだ。
ゼイギャク、オルゲィ、シドアード、アムルゼ、エナシャ、近衛の数人……今彼が親しげに話す人たちを思い浮かべたが、この世界では当たり前のことではあるけれど、どの人も主従の関係を踏み越えるような真似はしない。
ひょっとして寂しいのかもしれない、と本人に聞かれれば、食って掛かられること請け合いのことを考えて、郁は視界の端に見える城の中央塔を見上げた。
「……」
そして、あまり接触させないほうがいいのかも、とまだ笑っている江間へと視線を戻す。人のいい彼のことだ、きっともう情が移ってしまっている、とこっそりため息をついた。