26-1.変化
暖かい風が吹いてきた。郁はメゼル湖にそそぐ小さな川の河川敷に作られた田んぼに向けていた顔をあげる。
今日は少し曇っていて、メゼル湖の対岸に広がる街は霞んで見える。その左手前に見えるのが白い石造りのメゼル城だ。いくつもの塔が立ち、それらの屋根の先端には、青や黄の石が光っている。
「苗、思ったより丈夫そうだな。そっちの反応はどうだ?」
「酸性は酸性。で、酸度は食酢よりはない……っぽい?」
「……それ以上は言えねえよな。この青い色素も向こうのとまったく同じ物質とは限らないわけだし」
「そうなんだよね……」
郁はもう一度、手元のガラス瓶に入った青い花をすりつぶした液体に、田んぼの水を混ぜて、色の変化を見る。
紫がかっていた液体は、先ほどと同じく少しだけ赤みを強めた。
灰を溶かした水と食酢を入れた時で、異なる色を見せたこの液体の今の反応を見る限り、この田んぼの土壌は米が好む程度の酸性のはずだが、江間の言う通りだ。それが本当なのか、確証はない。
畦にしゃがみ込んでいた郁は「うまく育つといいけど……」と言いながら、立ち上がった。
『土壌の性質を調べると言っていたが、それで何がわかるんだ?』
『この水の色が赤っぽくなる土を好む植物と、青っぽくなる土を好む植物がいる。「米」、コレは赤っぽいのを好むはずなんだけど、いまいち確信がなくて』
傍らで稲のスケッチをしていた食料司長セゼンジュは、『コレは再発見されたところだというのに、なぜそんなことを知っている』という、ごく当たり前の質問を相変わらずしてこない。
作物に関する知識欲が満たされさえすれば、あとは本気でどうでもいいのかもしれないというかつての郁の推測は、今では確信に変わりつつある。
案の定セゼンジュは『おもしろい、他の植物にも使える』と言って立ち上がると、『いくつかの作物で、生育の良い畑とそうでない畑の土壌を比べてみるとしよう』と、郁の持っていた青い液体を奪い取って、いそいそと城に戻って行った。
「の、農業? だっけ、農業以外本気で興味なさそうだね……」
「ある意味やりやすいけど、マジで変人だな」
呆れたようなリカルィデと江間のやり取りに、郁は笑いを零した。
リバル村で準備し、馬に似た生物ホダの牽く車で送り出した育苗箱は、無事にここメゼルに届いていた。そして、手紙で頼んだ通り、食料師たちにより緑化も済まされていた。
メゼルに戻った郁たちはその苗と、内務処長オルゲィと食料司長セゼンジュが協力して用意してくれた湖畔の田を確認するなり、代掻きを済ませて、田植えを行った。
あれから十日。田んぼでは等間隔に植えられた十五センチほどのまだ若い苗が数本ずつ、風に靡いている。風に抗う力強いその様に、郁はとりあえずほっと息を吐き出した。
「わざと、じゃなくて、敢えて? 水の中に植えるって、奇妙な作物だね……」
リネルの裾をまくり上げて、田に足を付けているリカルィデが、苗をつつきながら、首を傾げた。
「メリットとしては土壌や栄養が流出しにくい、雑草が生えにくい、土につく虫、『土蟲』とかにやられにくい……他には?」
「植物にとって必要ないくつかの栄養素が、供給されやすいもしくは利用されやすい形で保たれる。デメリットは水を大量に使う。うまくやらないと臭う……後は何だろ」
また風が吹いてきて、稲を揺らす。水面に映るリカルィデの姿がさざ波でかき消された。
「リバル村の稲はどうなっているかな……そういえば、タグィロとは話したか?」
「うん。ボルバナの書いた税金対策の指示書を持った使者がメゼルを明日発つらしいんだけど、彼女、そのうちの一人に入れてもらったって」
「そっか。あの統官、不器用そうだったし、色々誤解があったのかもな」
「真面目で要領が悪いあたり、タグィロと血の繋がりを感じる。どっちもずっと苦しんできたみたいだし、うまくいくといいな」
「だな」
傍らに立つ江間に優しい顔を向けられて、温かい感情が湧き上がる。気恥ずかしくなってつい顔を逸らせば、小さく笑った江間に肩を抱き寄せられて、頬に口づけを受けた。
『エマー、ミヤベー、これ、どこに置くー』
米の育成を担当することになった食料司の青年が、畦を強化するための木の板を運びながら、湖畔の道を歩いて来た。
「あ、チシュアだ。また手伝いに来てくれたのかな」
その横で黒髪の少女が手を振っているのを見つけて、リカルィデも振り返す。
母親のサハリーダに似て園芸好きな彼女は、オルゲィから話を聞いて米作りに興味を持ったらしい。土地探しの段階から、ずっとオルゲィやセゼンジュ達食料師たちについて回っているそうだ。
『じゃあ、こっちに頼む』
そう言いながら、江間が食料師を手伝いに駆けていく。赤くなって固まったままの郁を残して。
「……アヤ、いい加減慣れなよ。大体おかしくない? エマは前とさほど変わってないじゃん」
ぬかるみに苦労しながら田んぼを移動してきたリカルィデが、半眼をよこした。
『なあに、何の話?』
『エマのいちゃいちゃに、ア、ミヤベがまた固まっているんだ。前は平気そうにしてたくせに』
『あれじゃない、ほら、エマの“付き合うことになった”宣言。あれで意識しちゃってると見た。ミヤベ、純情……というか、お子様だしね』
駆け寄ってきたチシュアが会話?に加わってきて、黙ったままやり過ごそうとしていた郁は、呻き声をあげた。
ルテゼルで江間に付き合ってほしいと言われて頷いたくせに、それから郁はどうやって江間に接したらいいのか、わからなくなった。
江間が近寄ってくるたび、触れられるたびに、体がうまく動かなくなる。リカルィデたちに言われるまでもなく、不自然だという自覚があってひどく情けない。
江間は本格的におかしくなったのか、そんな郁を「可愛い」と言うけれど、リカルィデがいない時はそれで彼にいいようにされてしまうこともあって、情けなさに拍車がかかる。
『大体それも順番がおかしいんだよ。婚約の後で付き合うことになったって』
『正確に言いなさいよ、婚約して、キスして、それから付き合うことになった――逆であるべきだわ。エマはやっぱり最低な遊び人だと思う。ミヤベ、考え直すなら、今じゃない?』
『――聞こえてるぞ、チシュア』
なんで知ってるの、と顔をひきつらせた郁と違って、板と工具を運んできた江間がチシュアを睨み、低い声を投げかけてきた。
『……「ジゴクミミ」って言うんだっけ?』
『やだやだ、怖い怖い』
そんなことを言っているくせに、チシュアは怖がるそぶりもなく、靴を脱ぐとリネルの裾をたくし上げて、田んぼへと足を踏み入れた。
『気持ちいー』
『……どこが? 足、取られるじゃん』
『それも楽しくていいんじゃない。ほら、苗についた虫がいないか、見よう』
春風の中、二人は笑いながら、再び田んぼの中へとジャバジャバと入って行った。
『そういえば、一緒に笑ってくれない? お父さまったら、ミヤベが女だって聞かされて、四半刻ぐらい固まっていたのよ。アムルゼ兄さまが必死で慰めてたけど、エナシャ兄さまが『アムルゼもだろ』って茶化して喧嘩になって……信じられる? あの人たち、二十五と二十三よ?』
『……サハリーダさんは?』
『お母さまはそもそも人の性別に興味ないから。あの人、両性愛者だし』
『そうなの?』
『ちなみに私も両性愛者よ? だから、シジニラ領のカガィエ・レックルズだったかしら? 私のリカルィデに手を出そうというのなら、挑戦は受けるわ』
『手を出す……って、恋人とかそういうの? じゃないってば……』
『にぶーい、ミヤベ並みににぶーい』
『げ、それは言い過ぎ』
キャッキャ、キャッキャと楽しそうなのは良い。けど、私を引き合いに出すことなくない?と、畦で二人の様子を見ながら、郁はため息をつく。
「手に負えないレベルになってきたな……」
「……」
ぼやきながら江間が横に戻ってきて、郁は息を止める。その郁へとちらっと視線を落とし、江間は隣り合う白い手を握った。
「……なしだからな」
「?」
ぎこちない動きで、斜め上にある江間の顔を見上げれば、彼の窺うような、不機嫌そうな目と目が合った。
「さっきの、考え直す、ってやつ」
「……」
思ってもみないことを言われた気がして、郁は目を瞬かせ、まじまじと江間を見つめた。目元が赤い気がする。
「……ないよな?」
眉根を寄せた江間に問われ、つられるように皮膚の表面に血液が集まってくる。
「……ない、よ」
「そっか」
我ながらどうしようもなく愛想のない答えだと思うのに、それでも江間はほっとしたように顔を綻ばせた。シャツェランの台詞じゃないけれど、彼は本当に趣味が悪い。