24-18.相愛
「……」
喘ぐように口を開けては閉じるを繰り返していた郁は、額に手を当て、うずくまったままの江間を呆然と見つめる。頭の中を「嘘」という言葉だけが、ぐるぐる回っている。
「本当にごめん……」
これまで郁が聞いたことのない、聞くことがあるなんて思わなかった、ひどく落ち込んだ声でもう一度謝罪すると、江間は顔を伏せたまま、立ち上がった。
「……悪い。ちょっと合わせる顔が、思いつかない。部屋に戻る」
そう言った江間の表情は、髪と影のせいで、郁からは良く見えない。
彼が踵を返したところで、郁は焦りのまま、彼の手を捕らえてしまった。
「……あ」
汗が出てくる。引き留めて何をしたかったのか、自分でもわからない。何かを言わなくては、と思って口を動かすのに、声にならない。
「……」
振り返って、驚いたように郁を見つめていた江間が苦笑した。
郁が握る、自らの左手にもう片方の手をかけ、丁寧な手つきで郁の手を解く。そして、その手を一瞬強く握って悲しそうに微笑むと、放した。
「……っ、ごめんっ」
その顔を見た瞬間、体が勝手に動いた。離れて行こうとする手を、咄嗟に捕まえた瞬間、謝罪が口をついて出た。
そうだ、言わなきゃいけないのは、これだ――傷つけてきた。
(傷つけられたことを言い訳にして、私のほうこそ江間をたくさん傷つけた……)
「わた、し、こそ、ごめん……。ずっと気にかけてくれて、親切にもしてくれていた。のに、分かるはずだったのに、傷つきたくなくて、見ないふりしていた……」
こっちの世界に来てからはなおさらそんなふうだった、と郁は唇を引き結ぶ。
「ごめんなさい」
それから、もう片方の手も伸ばして、江間の手を両手で握った。顔を隠すようにその手に額を寄せる。また解かれてしまうのではないかと、怯えてつい力が籠った。
「っ」
無言だった江間が不意に膝をついたことで、郁はびくりと体を震わせる。
ふっと息が吐き出されて、郁が両手で握る左手へと残りの手を添え、江間は同じ場所に額を寄せてきた。
伝わってくる熱と吐息にお互いの緊張が解けていく。
「おかしいだろ、なんでおまえが謝るんだよ……」
「だって私の方が悪い」
「どう考えたって俺だ」
「違う、私だ」
「……馬鹿だな、怒って当然だろうに」
「馬鹿は江間だ。怒って見捨てればよかったのに……」
目の前の江間の黒い目が泣き笑いの形に動く。
その目に映る郁の目も同じ形をしている。
近くにいた。でも遠い――お互いそう思っていた。
「……ずっと、」
郁の手を一際強く握りしめた江間は、眩しいものを見るように郁を見つめ、握り合う手を引き下げた。
「ずっと、好きでした。“宮部さん”、俺と付き合ってください」
「……」
真剣な声に郁は息を止める。
「この世界にいるからじゃない。その前からずっと、ずっと好きだった」
ごめん、ちゃんと伝えてなくて、と江間はまた謝った。
「返事をくれないか、郁?」
少し緊張を含んだ顔で江間に真正面から見つめられて、郁は視線を揺らす。
「わ、たし、私、は……江間が好きなのか、わからない……」
「なんで? 俺のこと、大事だって言っていた」
「だって……江間が幸せなら、隣にいるのは私じゃなくてもかまわないと思える。そういうのは本当の好きじゃないって。誰にも渡したくないと思うって」
言いながら、郁は泣きそうになった。
だから霧の中で江間を呼んでも、そんな郁の願いを神様は叶えてくれない、そう思う。
「そう言う奴もいるな。でも、郁はそうじゃないと俺は思う」
「……?」
半泣きのまま小さく首を傾げた郁に、「お前は人のためにする我慢に慣れてる。どれだけ苦しくても、人のために耐えちまうだろ」と江間は苦笑した。
「俺が幸せならそれでいいってのは、そういうお前の中での最大の愛情表現だ」
「……」
「でも……もっと望んで欲しい。もっと我がままを言ってほしい。ちゃんと聞くから――」
握り合った手に力が籠った。
「おまえは俺のこと好きだよ、絶対」
自信満々に言われて、郁は流石に眉を顰める。
「でなきゃ、論外と言われて気にし続けるはずがない――だろ?」
思わず目を見開いた。
(ああ、そうだ……。江間が普通に話してくれて嬉しかった。あり得ないと言われて、皆に笑われて居たたまれなくなった。ただの友人だと思っているなら、確かにそれで終わるはずだ。その後もずっと「この人は自分を異性として見ない」なんて、自分に言い聞かせ続けたりしない……)
「……なんか、本当に全部江間の思い通りになる気がする」
口をへの字に曲げれば、江間は小さく声を立てて笑った。
「俺は我慢しないからな。わかってるなら、抵抗すんな」
「ムカつく」
「でも……好き、だろ?」
江間が目元を緩ませて、顔を寄せてくる。
その台詞にやっぱりムカついて、でも諦めないでくれたことが嬉しくて、郁もおずおずと顔を寄せた。
触れる寸前で顎をすっと引くと、彼の額に自分のをこつんとぶつける。
「いっ」
わずかに怯んで引いた彼の唇を追って、捕らえる。
「……」
触れるだけの口付けを交わし、郁は真っ赤になりながら、江間の目を見つめた。
「その……私、でよければ、よろしくお願いします、“江間君”」
江間の黒い目がまん丸になった。そして、歪む。
両手が自由になったと思った瞬間、力強く胸へとかき抱かれる。息もできないくらいきつく。
やっと……やっと、届いた――
掠れた囁き声が、耳朶を打った。