24-11.因子
「……」
江間はゼイギャクの用事が終わったら話そうと言ったけれど、会いたくない。
(大体無理だって言った。情けない話だけどその通りだった。なのに……)
だが、拒み切れなかった自分も悪い、自業自得だ、と気づいて凹み、さらに会いたくなくなる。
(でも、ゼイギャクの用事がなにか気になる。もし困ったことになっていたら……)
その場合、彼を助けないという選択肢は郁にはない――。
『アヤ、どうした、なんだか元気がないようだが』
「っ」
十年以上前に、時折かけられていたのと同じ言葉が響いて、郁はびくりと跳ね上がった。
どれだけ考え事に気を取られていたのだろう。シャツェランがすぐそばで顔を覗き込んでいるのに、まったく気付かなかったことにも動揺する。
いつの間にか、リカルィデたちは移動していて、エナシャもコルトナも彼らの会話に加わっていた。
『顔色も悪い』
『……ちょっと寝不足なだけ』
『じゃあ、寝て来い』
『そこまでじゃない』
眉根を寄せて、怪訝さに少しの心配を混ぜてのぞき込んでこられて、郁は顔を背けた。
『意地っ張りなのは変わらないんだな』
呆れたように言った後、シャツェランが『疲れていると、ろくなことを考えないんだろ?』とからかうように言ってきた。
神殿でまったく同じセリフを彼に言ったこと思い出し、やり返された、と口をへの字に曲げれば、彼は明るい声を立てて笑った。
笑い方が昔と変わっていないことに気付いた瞬間、少しだけ笑うことができた。
あの頃はいつも霧の中だったけれど、陽光の中で見る彼の目は一際美しかった。
『で、リカルィデは何をしているんだ?』
『土蟲の繁殖を止める方法があるかもって。一緒にいるのはシジニラ領主の息子のカガィエ・レックルズ――あの子、土蟲と惑いの森の関係を疑うところまで、自力で来ている』
『シジニラ……惑いの森に接してるな』
『かなりの被害が出ているらしい。そこで土蟲が共食いをするのを見て、彼はイェリカ・ローダみたいだと思った。それで、森が土蟲をイェリカ・ローダのように凶悪化させているんじゃないかという推測に到ったみたい』
郁はリカルィデに楽しそうに葉っぱを見せている少年を見て、目を眇める。
惑いの森でイェリカ・ローダは頻繁に共食いをしているという彼の話を聞いて、思い出したのだ。バルドゥーバ国のレジスタンスのリーダ―、ジィガード・フォレッツが、バルドゥーバで新しく孵化したイェリカ・ローダの一種、“切り裂く者”には攻撃性がないと言っていたことを。
であれば、土蟲がそうであるように、イェリカ・ローダも最初からイェリカ・ローダなわけではないのではないか。
土蟲の大型化は、大きい土蟲を食べた小さいものが、脱皮して起こる。大きいものは、大小どちらを食おうが、大きいままだったし、小さいものが小さいものを食べても、変化は見られなかった。ただ、他の虫に対する捕食行動は、大型の方が強いように思う。
仮に、土蟲の大型化イコール“イェリカ・ローダ化”だとすれば、共食いというより、他のイェリカ・ローダを食べることで、イェリカ・ローダはイェリカ・ローダになるのではないか。
その場合、実現の方法は別の問題として、イェリカ・ローダの共食いを止めれば、カガィエの言うように、イェリカ・ローダの数は減るだろう。
逆に、その辺の“不浄ではない”の生き物に、イェリカ・ローダを食べさせれば……? 仮にそれが人であれば……?
『あの子は話す相手を選ぶ性質なようだから、あちこちで言いふらしたりはしないと思うけど……』
郁はおぞましい可能性に行きついて、顔を歪めた。
祖父がイェリカ・ローダについて、『毒があって、食べられない』と言っていたのが、事実であってくれればいいと切に願うが、そんな情報を、例えばバルドゥーバなどに知られたらどうなるか?
あの国、いや、福地なら必ずやる――欠片の躊躇いもなく、人を含めた他の生物にイェリカ・ローダを食べさせる。
なぜダメなのか、と素で訊ねてくる彼の姿が簡単に思い浮かんで、郁は顔を歪めた。
それだけじゃない。今バルドゥーバで菊田が馴化しているという“切り裂くもの”を凶暴化させることにも繋がるし、惑いの森以外は“神の加護”により守られていると謳っているディケセル王や神殿などの権威を落とすことにも繋がる。いずれにせよ混乱は必至だ。
『……メゼルに連れて行ったほうがよさそうだな。確か次男だろ? あの様子なら本人も乗って来る』
郁と同じ懸念を持ったらしいシャツェランが、リカルィデとじゃれるように土をほじくり返し、笑っているカガィエを見ながら、厳しい目をした。
『でも、まだ十四だって』
『お前の世界の基準では、まだかもしれないが、こっちでは“もう”だ。結婚だって普通にある。リカルィデも直に十四だろ? そろそろ本格的に声がかかり始める』
特に女性は早いし、と何でもないことのように呟いたシャツェランを、郁は横目で睨む。
『――あの子はまだ一歳にもなっていない』
セルの王城から、自分を自分とすら認めてくれない場所から出て、リカルィデになってようやく一年。たった一年だ。サチコさんが、シハラが願い、あの子がようやく得た自由を、奪うような真似はさせない――。
『……わかった。本人が気乗りするものでない限り、潰すとしよう』
無言で青い目を見つめれば、言わんとすることをくみ取ってくれたらしい。『もったいない』とため息をつきながらも、シャツェランは不承不承頷いた。
『まあ、そんなことをすれば、サチコもだが、シハラにこそ全力で呪われそうだからな。知ってたか? リカルィデは橋者の一人ということになっている』
『? キョウジャ?』
『向こうとこちらの世界を橋渡す者という意味だ。神殿は歴代の稀人に教えを請い、ニホン語や文化の理解者を育成しているが、その中でも特に優秀な連中にしか与えられない称号だ。稀人に関することであれば、裁量は膨大、大神官長にすら意見することができる』
江間の身代わりとして寺下に会わせたエンバもその一人だ、とシャツェランは続ける。
『選抜の上、英才教育を施されている。特にサチコが来てからは、セルの知処博士など目じゃないほど博学なはずだ。実際、昨夏の流行り病も、地方神殿のある街だけ被害が少なかった』
『リカルィデをその一人に仕立て上げたのはシハラ……』
『ああ、何年も前から神官籍も来歴も準備されて、隠居した橋者の元で修行する幼い橋者がいると、密やかに噂を流していた。大神官長とサチコの元に、同じ年頃の子を定期的に訪問させてもいる。今後、もしセルやバルドゥーバがリカルィデの素性を疑うことがあっても、できることは少ないだろう』
シャツェランはそう言って、『私もオルゲィも騙されていた』と苦笑を零した。
リカルィデが神殿で妙に尊重されると首をひねっていた理由を知って、郁は目を瞬かせる。
『それ、神殿に戻れって言われない?』
『応接使とは別に、密かに森に派遣されたうちの一人だったが、稀人の回収ができなかった今、任を解かれた、という話になっている。幼少期から神官籍にいた者は、年頃になって神殿を出ることが珍しくないからな。で、今はメゼルディセルで求職中という触れ込みだ』
(本当に色々考えてくれたんだ、リカルィデのことも、私たちのことも……)
優しく笑った瞬間のシハラの顔が蘇って、泣きそうになった。
『……シハラのこと、何か聞いてる?』
今、彼女はどうしているだろう? あの優しい人に、苦しみの中にいてほしくない、という切実な願いが、質問という形で口からこぼれ出た。
『いや? 何かあるのか?』
『……ううん、ただ、その、元気、かなあって……』
『殺したって死なないタイプだろ』
(そうか、知らないのか……)
シャツェランが半眼で肩をすくめたのを見て、郁は視線を伏せた。
祖父より少しだけ緑の強い、シハラのはしばみ色の目を思い出す。
いつも笑顔の人だった。と言っても、胡散臭かったり、人が悪そうなのだったり、目だけ笑ってなかったり、そうかと思うと、本当に優しいものだったりで、あの江間ですら笑いながら振りまわしていたパワフルな人だ。
一緒に過ごせた時間は、本当にわずかだった。大神殿にいる間、毎朝一緒に散歩をして、可能な限り共に食事や休憩をとって、一度だけ一緒に料理して……それだけだ。
なのに、彼女はそれだけの間で祖父母にも話せなかった郁の重荷を取り除いてくれた。祖父への懺悔を聞き、信じるべきものが何か、自分で決めていいと言ってくれた。行く先を照らしてくれた。
あの彼女がもうすぐ死んでしまうなんて、信じられないし、信じたくない。
『……そんな顔をするなら、また会いに行く機会を作ってやるぞ? どうせ王都にはしょっちゅう行くし、ついでだ』
今すぐ行きたい――喉元まで出かかった言葉を何とか飲み込んで、郁は曖昧に頷いた。
シハラが郁の今の状況を見たら、なんと言うだろう? 彼女の発想は自由で、郁の想像を簡単に越えてくるから、正確には分からない。
でも、江間に会いたくないなんて言ったら、『情けないわねえ』と言うことだけは確かな気がする――頭に『足搔きなさい』という、彼女の声が響いた気がした。