24-9.不穏
『おはよ。って、なんか不機嫌?』
部屋にいたって鬱々とするだけ――とりあえず朝食を取りに出てきたものの、宮部たちはいなかった。代わりにそこにいて話しかけてきたエナシャを、江間はじろりと一瞥する。
『ミヤベは……一緒じゃないのか。なるほど、一緒じゃない原因こそが不機嫌の理由なわけだ』
「……」
睨まれたというのに、エナシャは肩をすくめただけで、まったく気にする様子がない。江間は軽く息を吐き出すと、彼の横の席に腰を掛けた。
『コルトナは?』
『あいつも落ち込んでるよ』
『俺は落ち込んでない。一緒にするな』
口の端を曲げつつ、江間は皿に盛られたスープに手を付ける。干したロロの肉と、数種類の野菜を煮込んだもので、見た目は白いのにトマトそっくりな味がする。脳が微妙に混乱する。
『落ち込みの原因はリカルィデ?』
『あいつが食欲失くすなんてそれ以外ないだろ』
『まあな。けどリカルィデのほうは、昨日上機嫌だったぞ? 俺たち以外に土蟲を調べている人に会ったって』
昨日辺りがすっかり暗くなった頃だ。リカルィデは部屋に戻って来るなり、その件をずっと話していた。
彼女は恐ろしく鋭くて、妹以外の誰も気づかない江間の本音や演技を看破する。落ち込んでいることも、結果何をしでかしたかもすぐばれる、そうしたら殺されかねない、と冷や汗を流していたのに、昨日に限って言えばまったくだった。
止める江間にかまう気配もなく、隣の部屋の宮部を呼びに行って、疲れているからと誘いを断られたことも、リカルィデには珍しくそのまま信じ、深く追及しなかったぐらいだ。
『そいつだ、シジニラ領主の次男。コルトナの目には“熱く語り合っていた”になるらしいぞ』
江間の顔を見て、知らないと判断したのだろう。シジニラ領はここカードルテ領の東方にあり、領主は青月位レックルズ家、シャツェランを大領主とする一派のうち、もっとも有力な家の一つだと、エナシャは補足した。この辺の機転は、アムルゼやチシュアを含めたリィアーメ兄弟全員に共通している。
『話題、土蟲だぞ? うちのチシュアと気が合うだけあって、リカルィデも大概変わってるけど、そいつも相当でさ、親に出ろって言われた昨日の茶会を抜け出して農園に行って、そこにいたリカルィデと出会ったんだ。で、そっから二人で土を掘っては土蟲を探して、並べて比較したり、「カイボウ」したり、火を起こしてあぶってみたり、』
『随分と、なんだっけ? ロマンチック? な話だな……』
『だろ? シジニラ領でも土蟲被害が出始めてるらしくて、お互い名乗りもしないで、ぶっ通しで午後ずーっと、土蟲土蟲土蟲、だ。だから確かに熱はあったけど、色気とか一切ないんだけどなぁ。……おぉ、噂をすれば、だ』
「……」
ぎくりとしながら、エナシャが目線を向けた方角を見れば、宮部がリカルィデと一緒に食堂に入ってきたところだった。視線が絡んだ瞬間、目がそらされる。
予想できたことだが、思っていた以上のダメージを食らって、江間は顔を歪めた。
『あー……、ゼイギャクさまの奥方が、ミヤベをしばらく借りられないかって言い出したらしいけど、それと関係してる?』
『は?』
『げ、聞いてないのかよ。奥方が殿下に頼む時に、後見が親父だからって、うちの兄貴にも』
エナシャは眉をひそめた。
『殿下は断ったそうだけど、愛妻家で有名な方だし、ゼイギャクさまから改めて頼まれるようなことがあれば、考え直す可能性はあるぞ。何があったか知らんが、はやく仲直りしたほうがいいんじゃね?』
『……忠告どうも』
『マジで凹んでるなぁ』
そう言いながら笑うところがエナシャだ。兄のアムルゼなら、心配しながら言ってくれるだろうに。
『おはよう、エマ。先に来てたんだな』
リカルィデが朝食の載ったトレーを持って、目の前に座った。少し頬が染まり、汗をかいた様子がある。ちらりと横の宮部を見れば、同じ様子。リカルィデに護身術を教えると、宮部が言っていたことを思い出す。
『護身術、どうだ?』
『おもしろいよ。こうやって体を動かせばいいんだって、納得もできるんだけど、アヤが考えなくても動けるようにしろってさ。先が遠そうで気が滅入る……』
『そりゃそうだ。皆そうやって身につけるんだよ』
『エマもアヤとおんなじことを言う』
凹んだリカルィデに和んで笑えば、思わぬ言葉が帰ってきて、つい宮部を見た。同じようにこっちを見てきた彼女と目が合って、また逸らされる。
『では、護身術が身につくまで、お出かけの際は我々グルドザをお供になさってください――ってことで、リカルィデ、今日の予定は?』
『おはよう、エナシャ。コルトナは一緒じゃないの? 今日は、昨日の……誰だっけ? ええと、昨日の子とまた農園で会う約束をしてるんだ。あの子、セケルの根を食べさせると、土蟲が繁殖しなくなるって言うんだよ』
『名前、まだ聞いてないのかよ……』
グルドザ然として気取ってみせたエナシャは、打って変わって残念な子を見る目線をリカルィデに向けた。リカルィデのほうも一転、『あ、失礼だったかも』と顔を曇らせる。
『向こうも訊いてこなかったなら、お互いさまじゃない? 気になるなら、私が名乗る時に聞いてみる』
『ありがとう、アヤ』
にこりと笑うリカルィデに、宮部は先ほどのまでの固い顔を緩めた。相変わらず彼女は江間を見ない。
『今日はミヤベも一緒?』
頷く宮部に、エナシャは『じゃあ、よろしく』と笑いかけ、次に江間を含みのある目で見た。
『エマも来るだろ?』
『ゼイギャクさまに呼ばれているから、その後でな』
助け舟を出してくれたらしい、と江間は思わず微笑む。
『ゼイギャクさまに? なんで?』
リカルィデが目をぱちくりさせている。宮部も目をみはって江間を見ていて、それでさらに緊張がほどけた。
『知らん。昨日使いが来て、登の八刻半にって』
宮部から向けられる心配を含んだ視線に、江間は胸をなでおろした。同時に昨日の失敗を悔やむ気持ちが一際強くなった。
『終わったら農園に顔を出すから――話そう、郁』
「……」
宮部に向けてそう言えば、一瞬顔を強張らせたものの頷いてくれて、江間はようやく息を吐き出した。
『私はミヤベを殿下の妃に推そうと考えている』
――だが、その前にやるべきことがあるようだ。
ゼイギャクの私室に呼ばれ、茶を運んできた侍女が退室するなり、ゼイギャクは世間話も前触れもなく、切り込んできた。
激昂、敵意、疑問、不快、様々なものが湧き上がったが、江間はそれを瞬時に抑えつけた。
『させない』
その答えに、ゼイギャクは微妙に眉を跳ね上げた。
『私にそういう答えを返す人間に、久しく出会っていなかった』
そして、『やはりお前はいい度胸をしている』と、くつりと笑いを零した。
睨む江間を前に、ゼイギャクは泰然とした様子を崩さない。その姿は彼の向こう、広大な窓の外に聳える雄大な活火山に似て見えた。
『どうしてもかね?』
『絶対に』
再び鋭い目を向けてきたゼイギャクに、江間も同じ目を返す。
何十人を相手に悠々と生還し、象より大きい化け物トカゲに囲まれても平然と切り抜ける彼の目は、人間というより大型の肉食獣のものに思える。四肢が震え出しそうとするのを意地で堪えた。
『まあ、そうだろうとは思っていたが』
「……」
だから、切り出した時と同じようにあっさりと引いていったことに、驚きを隠せなかった。
ゼイギャクは静かにサッ茶を口にする。安定していて無駄がないその所作に、江間は故郷で彼同様武を嗜む祖父を思い出した。もっとも祖父の方は、人を殺したことはなかったはずだが。
それこそがこの世界と故郷の日本との差に思われて、江間は眉根を強く寄せた。
言葉にも食べ物にも習慣にもそれなりに慣れてきた。知り合いも増えて、この国に情を持つようにもなっている。
けれど、やはり決定的に違うのだ。ここでは人の――自分や郁のを含めて――命も人生も何もかもが軽い。
ゼイギャクの口元から、テーブルへと戻された茶器が音を立てた。
『では、質問を変える。ミヤベが望んだ場合はどうだ?』
『……望ませない』
昨日の失態が思い浮かんだ。本当に出来るのか、と頭によぎったが、それを振り払う。
(絶対にさせない。ようやく、ようやくなんだ)
ようやく目を合わせてくれるようになった。無防備な笑い顔をみせてくれるようになった。三十センチの距離が当たり前になり、触れることもできるようになった。今更彼女を自分の元から手放すなんて、死んでもできない――。
ゼイギャクは微かに眉をはねあげた。それから意味深に微笑む。
『決意は立派だが、ミヤベが望んだ場合は認めると言っているように聞こえる』
「……」
心情のままに白髪の老人を見つめれば、『殺意を露に見られるのも、ひさしぶりだ』と、彼は喉の奥で笑い声を立てた。そして――なぜか目元を緩めた。
『君がそういう男であるならば、無理強いはしないでおこう』
「……?」
戸惑って彼の紫の瞳を見つめれば、ゼイギャクは『私はグルドザだ。受けた恩は返す』と平坦に述べた。
『恩……?』
(俺が彼に? ……まさか)
江間の脳裏に、蛾のようなイェリカ・リーダに襲われた夜が蘇る。あの時、彼の目は血と閃光で、完全につぶれていたはずだ。
驚愕を露わにした江間に、ゼイギャクは『視覚は外界を把握する手段の一つであって、すべてではない』と静かに返してきた。
(つまり、彼は最初から知っていた? 俺たちがあの場にいたこと、リカルィデがアーシャルであること……)
「……」
本気で人の枠を超えている――口内にたまった唾液を飲み込めば、ごくりと音を立てた。
『鍛錬を重ねれば、いずれ君もそうなる』
ゼイギャクは異常なものを見る江間の目線にも動じず、何でもないことのように言い放った。
『同時に、私はミヤベに対しても恩がある。私も彼女の意思を尊重することにしよう。逆に言えば、彼女が望むなら君さえも排除する』
『……そこにシャツェラン、王弟殿下の意志は?』
『……』
緊張と警戒を込めた問いに、ゼイギャクは含みのある笑みだけを返してきた。