24-8.緩怠
「……郁?」
早朝、外がまだ藍に染まっている時間帯に、江間は隣の宮部の部屋の扉を叩いた。
緊張しながらしばらく待ってみたが、応えがない。性格上、居留守を使うとは思えないから、本当にいないのだろう、と息を吐き出した。会いに来たはずなのに、会えなくて安堵してしまっている。
すると、次は彼女の行き先が気になってしまって、さらに隣のリカルィデの部屋をノックした。
「……」
こっちも返事がない。
二人で出かけているのであれば、問題はなさそうだ、と江間は色々な意味で胸を撫で下ろした。
昨日、宮部が「部屋に行っていいか」と聞いてきた時、何を当たり前のことを、と素で頷いた。リカルィデも含めて三人でずっと一緒の空間で過ごしてきて、それが普通のことになっていたから。
だが、彼女が妙に緊張していることに気付いて、まさかと思う一方で、期待を持ってしまった。
茶会に出ろというシャツェランを振り切って、部屋に戻り、落ち着かないまま何時間か過ごした。約束した以上、彼女は来る。気は急いたが、疑いはなかった。
そろそろ夕刻という頃、ようやくノックが響いた。ベッドから跳ね起きて、慌てて扉に走り、最低限の落ち着きを取りつくろって、ドアを開ければ、約束通り宮部がいた。
そこで、彼女は初めて江間に腕を伸ばして顔に触れ、身を寄せてきた。夢でも見ているのかと思った。だが、抱きしめた感触は現実で、キスして欲しいという願いも、叶えられて――。
「えま、はなし、を」
「後で――俺のものになって、郁」
そこからは、彼女を自分のものにすることしか考えられなくなった。話そうとする唇を唇で封じた。
彼女に触れる五感だけが、すべてになっていく。
体を隠そうと身を捩って逃げるのを、刺激を与えることで阻んだ。
美しい姿態と隠すもののない秘所、触れられて堪えきれずに漏れる官能的な声、平静を保とうとしてできなくて焦り恥らう顔、鼻腔に届く甘い香り、神経が高ぶった瞬間に薄く染まる、なめらかで柔らかい肌、懇願するかのように自分を見る潤んだ目、這わせた舌に感じる味、そのすべてに欲情した。
体の下に組み敷いて、全身に隈なく唇と舌を這わせた。自分のものだと主張したくて、白い肌をついばみ、赤い跡を残した。彼女の反応を確かめながら、あちこちでわざと水音を立てる。弱い場所を優しく、だが執拗に責め、何度も高みに上らせて、最後に下肢の間に割り入った。
頭の中で何千回と彼女を犯した。ようやく手に入る、と支配欲と嗜虐の混ざった興奮を覚えていたが、同時に本能のまま突き進んで、傷つけたくないとも強く思っていた。
彼女がひどく緊張しているのは伝わってきていたし、初めてだと知っていたから、全力で理性をかき集めて、「優しくする」と伝えた。
だが、その瞬間、どこかとろんとしていた宮部は素に戻り、表情も体も固くして「気にしなくていい」と。挙げ句「初めてじゃない」と言い張った。
大学での宮部のことは、知っているつもりだった。大体あの反応で、経験済みなんてことがあるとは思えない。される行為すべてにいちいち戸惑って、少し触れるだけでめちゃくちゃ感じて、真っ赤になりながら逃げようとしていたくせに。
だが、絶対にそんなことはない、とまでは言い切れなくて、「――相手は誰だ」と大人げなく聞いてしまって、それに宮部も「江間には関係ない」と大人げなく返してきた。
あんな顔を俺以外の男に見せた……?と思った瞬間、理性が切れた。
宮部を再度押し倒し、相手を訊きながら、答えが返せないよう、弱い場所を執拗に責め立てた。何度も達した彼女に許しを請われたのに、それでも逃がさなかった。
結果、息を切らし、涙目になった宮部が「江間の相手なんか、それこそたくさんいるくせに」と……。
(完全にやらかした)
自室の扉を開けながら、江間は昨日からもう何度目かわからない自己嫌悪のため息を吐き出した。
思い返せば、おそろいの腕輪を作ろうとした時だって戸惑っていたし、最初にキスした後もぎこちなくなって逃げ腰になっていた。「そういう関係になりたい」と伝えた時も固まっていたし、昨日は「無理」と口にしていた。
郁は関係が深くなることを怖がっていたのだろう。なのに、嫌悪する様子がないことを免罪符に強引に進めて、結果傷つけた。
「……」
部屋から飛び出していった時の彼女の泣き顔が思い浮かんで、江間はぐっと眉根を寄せた。胃が痛い。
そもそも初めてかどうか、彼女を最後まで手に入れてしまえば、確認できたことだ。適当に流してしまえばよかったのに、他の男を受け入れて、喘がされている宮部の姿を想像してしまったら、理性も自制もすべて吹き飛んだ。
「……カッコ悪。てか、その前に最低すぎ……」
自己嫌悪をまた吐き出し、ベッドに身を投げる。
こんなに嫉妬深いはずじゃなかった。これまで付き合った相手の中には、それなりに経験がある人もいたが、そんなものだと思っていた。勝手に話してくるのでない限り、過去の相手について聞いたこともない。
別れる理由は大抵、相手の心変わり、もしくはそうほのめかされたことだ。その瞬間、冷めてどうでもよくなった。「少し妬いてほしかっただけ」と泣かれても、ますますうんざりするだけで、嫉妬なんてしたことはない。
いつかリカルィデが「エマは嫉妬深い」と言っていた時は、聞き流していたけれど、結果宮部を傷つけてしまったのであれば、目も当てられない。
「つーか、いないだろ……」
ぶつぶつ言いながら、寝返りを打ってみる。
九十九.九九パーセント、そう確信している。だが、万が一、宮部の言う通りだとしたら、相手は誰だ?
中高は女子高だったはずだ。祖母が、次いで祖父が体調を崩して、日々付き添っていたと。加えてあの妹がいたなら、そういう相手がいたとは考えにくい。
大学は小河、神林、堀田。小河と堀田は、妹に流れた。江間が焦ったのは、神林だったが、彼は妹が出て来た時、離れていった。真面目でいい奴だが、かなり奥手だったし、宮部の方は、いつものごとく彼の好意に気付いてもいなかったはず。
「樋口さん……?」
元々研究室の卒業生で、社会人のまま博士課程に入ってきた人だ。二十九だと聞いた。
≪江間君、確認しておきたいんだけど、宮部さんのこと、好きとかないよね? この歳になると、ぐちゃぐちゃな関係に足を突っ込むのはごめんなんだ。海外赴任することになったら連れて行きたいし、どうしても結婚を意識するからさ≫
ある日、実験室に二人きりになった時、江間は彼にそう問われた。彼はいざとなれば宮部を連れて逃げられる、と感じ取った江間は、いつものようにはぐらかす余裕を持てなかった。
≪惚れてます。間違いなくぐちゃぐちゃにしにかかります≫
そう返せば、樋口は「やっぱりそうか……。それは嫌だし、諦めるか」と肩を落としてみせた。
そのくせ、江間たちがこの世界に来るきっかけになった見舞いは、彼が宮部にメールで依頼してきたことで、まだ諦めていなかったのか、と驚いた記憶がある。
だが、露骨に面倒そうに「電車も通ってない場所なのか……」とため息をついていた宮部の方にはそんな気はなかったはずだし、こっちに来てから知った、あの護身術を考えれば、無理強いされたとも考えにくい。
「山口さん、ではさすがにないか」
大学の用務のじいさんで、江間とも宮部とも仲がよく、こっそり屋上の鍵をくれた。向こうにいる時、誰にも邪魔されない、宮部との唯一の接点をくれた人だが、江間のみならず宮部のことも完全に孫扱いだったはずだ。
(まさか……シャツェラン? いや、そんな機会はなかったはずだ。それこそあいつには常に護衛がいて一人じゃない……はずだよな? ひょっとして夢の中とか? そういえば、前、宮部の最初のキスの相手は、俺じゃないみたいなことをほのめかしてたような……)
「……」
江間はついに呻き声をあげた。
シャツェランは普段人と接する時、相手が期待する姿を完璧に演じる。
他の領主たちに見える時は有能な覇者、部下に接する時は困難な状況でも揺るがないリーダー、若い異性に会う時はおとぎ話に出てきそうな王子様、領民に接する時は慈悲深く頼りがいのある領主。
親しい相手にはもちろん素を見せるし、江間自身かなり気に入られていると思うが、彼が一番気を許しているのは、宮部だと思う。結果、彼女を怒らせたりしているが……。
昨日の、バハルに潜り込みたいという話もそうだった。無謀な提案に激怒していたくせに、シャツェランは宮部の身の安全については譲らず、一方でジィガードらレジスタンスと組んで、バハルを落とすという部分については受け入れた。
他にもある。蔵書棟で宮部が望むなら必ず助けると言ったことに始まり、宮部が地図を見せてほしいと言った時、土蟲がイェリカ・ローダだとしても悪用はしないで欲しいと望んだ時、月聖石のペンダントを貸した時、佐野の前で日本語を話せと言った時、リカルィデの素性を不問にすると決めた時、寺下の前で気分が悪いと言った時……。
自分も同じだからわかる――シャツェランは甘いのだ、宮部だけに微妙に、だが確実に。
かつてシャツェランを嫌悪していた宮部は今、彼を手の焼ける幼馴染、もっと言うなら弟というふうに扱っている。自分が特別扱いされているとは、シャツェラン自身が気づいていないように、まったく気づいていないはずだ。
もし、それに彼らが気づいたら? その時、彼らはどういう行動に出るだろう……?
「あいつ、権力者も権力者なんだよな……」
率直に認めるなら、江間はシャツェランが好きだ。高い能力とそれに見合う自信があって、明るくて、一緒にいて気持ちがいい。良い奴で気も合って、馬鹿を言い合って笑える。
(だが、この世界で、あいつはその気になれば宮部を好きにできるだけのものを持っている――)
「……なおのことこんなことやってる場合じゃないってのに」
江間は前腕で視界を塞いで、長々と鬱屈の息を零した。