24-7.温度
『じゃあね。シドアードたちが心配してると思うし、シャツェランもそろそろ戻ったら』
『なあ、アヤ、エマと何かあったか?』
『……何か?』
とりあえず目を逸らしていた話題を不意打ちのように持ち出されて、心臓が音を立てて跳ねた。動揺を隠して、郁は不思議そうな顔を作る。
『いや、さっきエマの様子もおかしかったし』
『え、具合がってこと?』
『いや、そうじゃない。何か落ち着きがない感じで…………なぜ赤くなる?』
『……なってない』
シャツェランに半眼を向けられて、郁は咄嗟に目を逸らした。
『……今、どこに滞在している?』
『来客の従者用の宿舎だけど……』
『後で行く』
『い、や、おかしいでしょ、シャツェランは王子で大領主、私たちは位もない、正官でもない、ただの見習い従者。呼びつければ良くない?』
隠そうとしているのに、結局挙動不審になってしまったらしい。シャツェランはいよいよもって不審なものを見る目つきを向けてきた。
『エマには断られた。何が大事な用があるそうだ』
『大事……』
――待ってる、郁。
先ほどの彼の目と言葉を思い出してしまって、また心臓が鼓動を増していく。
シャツェランからの視線を感じて、郁は顔を背けた。
『なあ、アヤ、お前とエマの婚約、あれは本物か? 演技じゃなく?』
「……」
正面から静かに問われて瞠目する。
郁自身ずっと気になっている。なのに、はっきりさせたいような、させてはいけないような気がして、ずっと考えないようにしてきた。
『本物』
『……答えまでに間があった』
『気のせい』
『じゃあ、質問を変える――アヤ、お前、エマが好きか?』
『……それ、シャツェランに答える義務、ある?』
一瞬言葉に詰まってしまったのをごまかそうと、郁は肩をすくめてみせた。だが、うまく表情を取り繕えているか、自信がない。
『ないな』
彼があっさりと引いたことに、郁は胸を撫でおろした。
『けど……答えて欲しいとは思う』
そう言って郁を見てきた幼馴染の青い目は、郁がこれまでに見たことのない色を湛えていた。
* * *
「……」
シャツェランと別れ、割り当てられた自室に戻ったものの、江間にどんな顔をして会えばいいか、わからない。
『そんな顔をすることはないだろ……』
結局答えられなかった郁に、シャツェランはそう言って、彼には珍しく途方に暮れたような顔をしていた。
(そんな顔ってどんな顔だったんだろう……)
細長い部屋の壁沿いに置かれたベッドに腰掛けて、奥の窓を見れば、日はもうオレンジ味を増して、夕刻に差し掛かろうとしている。
――待ってる、郁。
江間の性格だ。そう言った以上、彼は律儀に待っているはずだ。
(自分から頼んだんだ。逃げるわけにはいかない……)
郁は大きく息を吐き出し、両手で顔を覆う。
出会ってしばらくの頃はともかく、それ以降、江間はチャラくて適当な人だと思っていた。ヘラヘラフラフラしていて、それでなお郁より優秀で……。
だが、こっちに来て一緒に過ごすうちに、それは表面だけのことだと知った。本質は真面目この上ない人だと思う。
生まれついて見た目や能力、家族に恵まれただけ、ただ運がよかっただけと言う人もいて、ある意味あたっているとも思うけれど、それはそれで別の苦労があること、彼が愚痴すら零さず、それに対処し続けていることも知った。
彼がなんでもそつなくこなせているように見えるのは、手元にあるものを大事にしつつ、それに甘えたり、嫌なことから逃げたりせず、努力し続けているからだ。そして、いつも誠実に、真面目に約束や責任を果たそうとする。
(出会った頃に抱いていた印象こそが正解だったんだよね……)
≪一緒に迷おう≫
桜吹雪の中で笑う、記憶の中の江間はまだ幼い。
「……」
大きく息を吸い込み、顔の覆いを外した。眩さに目を眇めながら、立ち上がる。そして、部屋を出て深呼吸を繰り返した後、隣の部屋の扉を恐る恐る叩いた。
ノックしたこぶしを下ろす前に扉が開いた。
顔をのぞかせた江間は、郁を見るなり、柔らかく目元を緩める。
「……っ」
(ああ、今わかった、私、どうしようもなく鈍い……)
その顔に胸が詰まって、結んだ唇が戦慄く。
形のいい眉を寄せ、江間が「郁?」と心配そうにのぞき込んできた。
「どうした? 何かあったのか?」
普段何が起きてもふてぶてしいまでに余裕のある顔をしているのに、郁が動揺すると、江間がそれ以上に動揺すると気付いたのは、大神殿で泣いてしまった時だった。本気で気にかけてくれている、そう実感した。
それだけじゃない。一緒にいてくれて、笑いかけてくれて、心配してくれて、怒ってくれて、同じものを見て笑ってくれて、共に悩んでくれて、嬉しいことも悲しいことも共有しようとしてくれる――そして、郁は江間がそうしてくれることが、どうしようもなく嬉しいし、郁も江間とそうしたい。好きかどうかなんてわからない。名前を呼んで神様が叶えてくれるとも思えない。でも、何をぐじゃぐじゃ考えても、それだけはもうはっきりしている。
大きな手が大事なものに触るように郁の頬に触れた。
「……」
江間の黒い目を見つめたまま、郁も両手を江間の頬へと伸ばす。そして、衝動のままに、彼への鎖骨に額を寄せた。
「みや、べ……?」
彼ががちがちに固まったのがわかって、しかも以前のように名字を呼ばれて我に返る。
「ごめ……っ」
「っ、違うっ」
謝罪を口にして離れようとした瞬間、息ができなくなるぐらい強く抱きしめられた。
「その、ちょっと驚いただけだ。なんていうか、いつも俺ばっかりで、みや……郁からってなかったから」
耳元でかすれた声が響く。
「あーと、嬉しい、って意味で」
郁は息を吐き出した。その瞬間拘束が強まる。
「なあ、」
耳に息がかかって、ぞくりと体を震わせる。
「キスして」
「っ」
耳をついばまれ、それが頬に移る。何度も唇が触れては離れ、徐々に唇へと寄っていく。なのに、その周囲をついばむだけ。
思考が痺れそうになるのに抗って、郁は顔を伏せる。
「……む、り。神殿、での、そういう関係、っていうの、も、私には……」
「俺も無理、もう我慢できる気がしない――して、郁から」
「か、ん違い、こんな世界にいるから……」
「違う」
大事にしたい、大事にする、それだけの関係にしておきたい、そう言おうとするのに、そう決意してきたはずなのに、強引に、けれど痺れるほど甘く遮られる。
「それに、もしそうでも構わない――キスして、郁」
甘えるように強請られて、薄目を開ければ、鼻が触れる距離で、江間の黒い瞳が自分を見ている。
彼の吐息が唇をくすぐる。体の奥がじわじわと熱くなっていく。
やめろ、どうせ彼もいずれ間違いに気付く、論外だと言っていたじゃないか、その通りだろうが、と頭のどこかが必死に警告するのに、逃げられる気がしない。
「……」
熱に浮かされるように、郁は一センチ分顔を江間へと顔を寄せる。触れたと感じた瞬間、結合は深まった。
息もできないくらい激しく、唇を、舌を、口腔を熱い塊がかき乱していく。自分の意志とは関係なしに生まれる、水音と荒い息に激しい羞恥を覚えるのに、勝手に体が震え、声が漏れてしまう。
「……」
立っていられなくなったところで、江間が離れていく。不安になったのも束の間、膝の裏に腕があたり、いつかのように抱え上げられた。
「ん」
腕の中で、またキスが始まる。お互いの吐息と湿った音の合間に、パタンという扉の閉まる音が聞こえた気がした。