2-9.日本語話者
『久しいな、ゼイギャク・ジルドグッザ』
恐竜の背上から響く壮年の男の声はつぶれていて、ひどく耳障りだった。
『茶番はいらぬ。ガジュ、お前もここで死ね』
圧倒的な存在を前に剣をおろした若いグルドザを横目に、血まみれのゼイギャクは構えを解かず、鼻で笑って言い捨てる。
その男は『……変わらぬな、お前は』と嘲りと奇妙な憧憬を含んだ応えを返すと、『私はもう一線から退いたのだ』と、横に退いた蜥蜴兵とその上の福地たちへと目線を投げた。
『身一つで戦いに投じる野蛮な行為には、もう飽いた。無用に命を奪うのにもな。稀人は我々が応接する』
そう宣言すると、恐竜の背後から続々と蜥蜴兵と奴隷たちが姿を現し、ゼイギャクとアーシャル、グルドザたちの周囲を取り囲んだ。
「……どうなってる?」
「バルドゥーバの上官みたいだ。稀人をバルドゥーバのものにすると宣言し、ディケセルに退くよう言っている」
早々に動き出そうとするバルドゥーバの一団の前に、アーシャルが飛び出した。
『待て』
『……これはこれはアーシャル殿下、わざわざお越しでしたか』
ガジュと呼ばれた男は兜をとると、アーシャルへと意味深な視線を投げた。
『ディケセル国の太子にして、先の双月教総主教の甥でもあらせられる殿下に、とんだご無礼をいたしました』
そうして恐竜から降ると、慇懃無礼そのものの挨拶をアーシャルへと投げ、最後に『殿下には此度の仕儀、ご理解いただけるかと』と薄く笑った。
『っ』
一瞬顔を赤く染めたアーシャルは、だが次の瞬間引きつった笑いを顔に浮かべた。
『ここまではるばるやってきた私の顔も立ててほしい。貴国今上陛下は私のはとこ、我が母は退いたとはいえ貴国国教の総主教だった方の姉だ。それぐらいの好意があってもよかろう?』
怪訝な顔をしたガジュを無視し、アーシャルは福地たちへと向き直り、一歩踏み出した。
「はじめまして。私はディケセル国のアーシャルです。異なる世界、二ホンの方、会え……お会いできて嬉しいです」
「……」
「日本、語……」
呆気にとられた郁と同様、横の江間が呆然とした声を出した。菊田たちも「嘘、日本語!」と歓声を上げている。
「あなたたちは行く国、を選べます。どうか、私の国のディケセルに、来てください。私はディケセルの王子です。約束します。あなたたちを大事に、むかえ……か、歓迎、します。バルドゥーバ、あなたが一緒にいる人の国は、恐ろしい国です」
「……あいつ、バルドゥーバに通じてるんだろう? ああ、でもさっき神官姿の俺たちに攻撃してきたな。一体全体何がどうなってんだ」
「……二重スパイみたいなものかも」
江間の呻き声に、郁はうわの空で答えた。
郁と会ううちに、シャツェランがそれなりに日本語を使うようになったことを思い出した。あの日本語は彼が教えた――訳はないか、と郁は皮肉な笑いをこぼした。話をしたくて必死に言葉を覚えたのは郁の方だけで、彼の日本語はいつまでも片言だった。
となれば、おそらくこれまでの稀人、もしかしたら彼と会わなくなって以降、別の稀人が現れたのかもしれない。他にもそういう場所があるのかはわからないが、少なくとも惑いの森は、日本と繋がっている。
「一緒にいるディケセルのグルドザ向けのパフォーマンスかもしれないし、今の説得もどこまで本気かわからない。バルドゥーバ王と血の繋がりもあるみたいだし」
郁は気を取り直すと、福地たちに目を凝らした。言葉が通じるという安堵は大きい。福地たちは思い直してディケセルに行くかもしれない。
「王子さまだって……」
「マジで? ほんとに小説みたい……」
興奮を交えた声を諌めた後、福地が静かな問いを発した。辺りは先ほどの喧騒が嘘のように静まり返っていて、その声はひどくよく響いた。
「福地と申します。ここが異なる世界だというのは、理解しました。お気遣いも感謝いたします。ただ、私たちの一番の望みは、元の世界に帰ることです。それは可能ですか?」
王子が落ち着かなさそうに身じろいだせいか、福地は「元の場所に帰ることができますか?」と言い直す。
「……わかりません」
(――バルドゥーバ行きだ)
郁は返事を返さない福地にそう確信した。彼はそういう男だ。
アーシャルがバルドゥーバ寄りならわざとだろう。ディケセル寄りなら、駆け引きに慣れていないか、語彙力の問題だ。本当に帰すことができないにせよ、帰す気がないにせよ、「善処する」ぐらいのニュアンスで濁せばよかったのに。
福地たちは、異界の森の中で初めて出会ったバルドゥーバ兵に、ただでさえ好意を抱いているはずだ。その好意を覆せるだけの力はあの王子の言葉にはない。
福地の沈黙と背後の三人のひそひそ声に、ガジュと呼ばれたバルドゥーバ人は隠さない笑みをこぼした。そして口を開く。
「……英語?」
「……」
今度こそ郁は放心した。奇妙ななまりがあるし、文法もおかしい。たどたどしくもあるが、何となく通じる。
彼は自らを女王を助ける第一の身――おそらく宰相の様なものだろう――であると名乗り、この世界の仕組みを説明していった。ディケセルとバルドゥーバの違いを述べ、バルドゥーバの優れた点について、語っていく。
意味不明な部分がかなりあるものの、要約すれば、ディケセルはここ十年、各地で内戦が起きるようなありさまで、頻繁な飢饉もあり、現在良くない状況にあるらしい。五十年ほど前に外交上の約束を損ねたせいで、諸外国からの援助も受けられぬ状況だという。
対するバルドゥーバは若いが美しく、賢い女王が支配しており、現在周辺諸国の盟主のような立場にある豊かな国だという。
彼はさらに、今話している英語を引き合いに出した。曰く、この言葉は昔受け入れた稀人が残したものであり、それが表すとおり自分たちはあちらの世界の者を受け入れることに熱心で、それゆえ安心して自分たちのもとに来て欲しい、と。
そして最後に、「帰る方法についても考えがある」と匂わせ――あくまで匂わせただけだが――バルドゥーバへ来るよう、自信に満ちた笑顔で締めくくった。
「……あの話が本当なら、あっちのほうがよくないか?」
「そう、だな。本当なら……」
江間の声に郁は考え込む。あの説明をすべて信じる気になれない一方で、目の前の人々を比べれば、内部で揉めている弱小国ディケセルと安定した強国バルドゥーバという点については、事実である気がした。
稔り多き、のどかで平和な国ディケセル――祖父の思い出が粉々に散っていく。
だが、彼の国の宰相がまるで天国のように形容したバルドゥーバは、その実王が絶対的な力を持つ身分制国家なはずだ。祖父がディケセルに逃げてきた奴隷の話をしてくれたこともあったし、現に今目の前にいる徒歩の兵士たちの身なりは一様に貧しい。そんな国に排除の対象となりやすい『異質』な者として足を踏み入れるのは、やはり避けたい。
(大体……)
「……」
恐竜の足元で、血や骨を露に無残に踏みつぶされている徒歩兵たちの骸を見て、郁は唇を引き結んだ。
「どんな話も裏はあるからなあ。けど、女王様、美人らしいぞ。見てみたくないか? RPGっぽく化け物が出るなら、お姫様も必須だろ」
「姫じゃなくて女王。いずれにせよ遊び慣れている江間なら、相性がいいんじゃない?」
江間ならうまくやるだろうし、と思って、「それこそ漫画や小説にありがちな展開? 異世界ハーレムとかいう」と答える。
「たださっきも言った通り、私と一緒だったとはわからないように合流して欲し」
「――待て。冗談で言ってみただけだ。行かねえよ」
なんとも言えない顔で、「遊び慣れているってなんだそれ」と江間はうめいたが、福地たちの見解は郁とはやはり違ったようだ。予想通り福地たちがディケセルの王子に首を振った。バルドゥーバの者たちの喝采が響く。
再びあたりが慌しくなった。周囲のグルドザたちにかしずかれた宰相は、福地らを呼び寄せると、恐竜の背に据えられた箱のようなものに同乗させる。拳を胸に当てながら、一人一人に何事か話しかけると、最後に地に控えていた者に何事かを耳打ちした。
土煙と大きな足音を立てながら、宰相は恐竜の向きを変えた。直後、背後を振り向き、ディケセルの王子に向けて、『お別れのご挨拶を忘れておりました。アーシャル殿下、これにて失礼いたします』と慇懃に告げる。そして……
『――永遠に』
と、嬲るような目線を投げかけた。
『っ、待てっ』
追おうとするアーシャルを、剣と槍の切っ先の海が阻む。
宰相はそれに哄笑で答えて、遠ざかっていった。