24-4.偽り
ディケセル国メゼルディセル領と、バルドゥーバのレジスタンスは、結局緩い協力関係を結ぶという形で、お互い様子見することになった。基本レジスタンスからはバルドゥーバに関する情報提供、メゼルディセルはその見返りに武器や金銭などを供与するという形になる。
両者のリーダーであるシャツェランとジィガードは、手始めに稀人の解放およびイェリカ・ローダの馴化の阻止を目的に、バハルへの工作を開始することを約し、会談は終了した。
シャツェランがジィガードと、ゼイギャクと彼の側近であるケォルジュがリバルで知り合っただろうレジスタンスの男と話し始める中、退出しようとしていた郁は、意を決して横の江間に話しかけた。
「江間」
「ん?」
「後で、その、部屋、に行っていい……?」
「? そりゃもちろん」
彼に思いっきり不思議そうにされて、郁は顔が引きつりそうになるのを必死で抑えた。
いきなりやってしまった。横の部屋に行くのにアポとかありえない、いつもいきなりじゃないか、改めて聞く必要なんかなかったのに。
「じゃあ、奥方さまに呼ばれているから。……っ」
踵を返し、一歩踏み出したところで、後ろ手を取られた。驚いて振り返れば、江間に顔をのぞき込まれて、郁は息を止めた。
「な、なに?」
「いや、何って言うか……」
黒い瞳に穴が開くように見つめられて、声が上擦ってしまった。なんとか表情を取り繕ったのに意味がなくなってしまう、と内心で焦る。
「じゃあ、また」
微妙に逃げ腰になりながら言ったのに、手も視線も離されない。
「……待ってる、郁」
まっすぐ顔を見たままそう言われて、郁は唇を引き結ぶと、顔を俯けてその場を逃げ出した。
真っ赤になっていることに気付かれていないといい。
旧ワセズッル王国の知己の消息を、ジィガード・フォレッツに尋ねていたシャツェランは、江間と郁のひどく不自然な様子に気づき、意識をそちらに向けた。
彼らの話す日本語に耳を澄ます。
(アヤ? ミヤベじゃなく? 「ヘヤニイッテイイ?」……「へヤ」は部屋、に、行っていい? ……許可?)
いつになく慌てた様子で歩み去っていく郁の後ろ姿を、信じられないものを見るような顔つきで、江間が見つめている。気のせいでなければ、郁のみならず彼のほうも落ち着きを失っているようだ。
郁は基本的にいつも冷静だし、江間は常に余裕を見せている男で、動揺したのを見たことはほとんどない。二人にはひどく珍しいその光景に、シャツェランは眉間に皺を寄せた。
『よりよい未来のために』
『お互いの……というより、できるだけ多くの者にとっての、だな』
『私もそう望んでいます』
話しかけてきたジィガードとあいさつを交わして、シャツェランは江間へと歩み寄った。
『どうした、エマ?』
『っ。どうした、とは?』
『……一瞬びくっとしなかったか?』
『気のせいかと』
にこやかな笑みを張りつけた彼の顔を、シャツェランは胡散臭げに見遣る。
付き合いが長くなればわかる。この笑顔が彼の内心をそのまま表しているということは、まずない。
『さっきアヤと呼んでいたか?』
『本人に許可をとりました』
やはり何かがおかしい。郁の名を呼ぶことは、彼にとって特別な意味があるようだった。ようやく呼べるようになったらしいのに、大したことではないかのように言う。
興味ないふりをして『まあいい』と言えば、彼は微かに安堵を見せる。それでますます疑念が強まった。
『ところでこの後茶会があるんだ。付き合え』
『面倒なんでお断りします』
『私も面倒なんだ。お前がいれば、私に寄ってくる連中の気が逸れる』
『シドアードもアムルゼもエナシャもコルトナも皆独身、近衛のベルゲーザたちだってそうでしょう。そいつらに頼んでください』
『お前も独身だ。婚約はいつでもなかったことにできる』
『あー、三日ください。大神殿まで往復します。シハラ大神官に立ち会ってもらって、この際正式に』
『許可しない』
思わず顔を顰めれば、江間は江間で露骨にうんざりとした顔を見せる。いらないところまで率直なあたりは郁と同じだ。本当に気に入らない。
『茶会から逃げることもだ』
『殿下は民への配慮を欠く方ではないと思っていたのにひどい……』
『……わざとらしい悲しみ方をするな』
『本気ですって。あまりに悲しくて、身の振り方も考えたくなるぐらいには』
冗談めかして泣きまねをして見せたりするあたりはいつものことだが、やっぱりおかしい。いつになく強硬で、いつになく必死な気がする。
『……』
シャツェランは目を眇め、江間へと顔を寄せた。
これが江間でなければ、裏切りや背信などを疑う。だが、江間に限ってはない。彼の人格を信頼しているという意味ではない。彼は仮に裏切るとしても、涼しい顔をしてやってのけるだろう。
(そんな彼が様子を変えるのは……)
『アヤ』
『……がなにか?』
『と、さっき何の話をしていた?』
『今後の予定について。ゼイギャクさまの奥方さまに呼ばれていると』
軽い調子で答えた江間の様子に確信する。何かある。自分が彼女を『アヤ』と呼んでも、笑顔のまま――逆に不自然だ。
『そうか』
ならば、ついでもあることだ、郁の方に聞くとしよう。
『湯浴みの習慣をつける、か……』
『はい、体を清潔に保ち、感染症を防ぐだけでなく、傷や疲れを癒し、健康を増進させる――その効能が広まれば、温泉を目当てに人が集まり、お金を落としていきます』
『農業に向かないこの土地でも潤うわね』
『体を他人に見られるのに抵抗がある人もいるでしょうから、専用の湯浴み着を一緒に広める、もしくは男女それぞれで湯を分ける……のはこの国ではあまり意味がないかもしれませんね、個別湯を設けるなどの対策がいるかと』
郁はゼイギャクの妻ルガゥネに呼ばれ、彼らの嫡男ゼィルジャと共に、ここルテゼルでの公衆浴場の建設について話をしている。
彼女の部屋からは、この国の中央に位置する火山が見えた。富士山を思わせる形のその山の頂からは、時折薄い噴煙が立ち上っている。標高は四千メートルぐらいだろうか。裾野にはやはり樹海のように森が広がっていた。
『ねえ、ゼィルジャ、あの邪魔な湯を有効活用できるなら、悪い考えではないと思うの』
メゼルからここに移り住みたいと半ば本気で思っている郁は、「信じられない、かけ流しの温泉が邪魔だなんて!」と夫人に向かって叫びそうになるのをぐっとこらえ、既にゼイギャクの仕事の多くを引き継いでいるという、彼の息子を見つめた。
『あの厄介ものが金に変わる可能性がある――試す価値はあると私も思います』
『っ、ありがとうございます!』
郁は両手を天に突き挙げた。決めた、なんとかしてここに移住しよう。
『温の泉のこととなると、君は別人のようだね……』
跡継ぎの息子さんには呆れられてしまったけれど、夫人はコロコロと笑ってくださった。
『さて、じゃあ、難しいお話はおしまいにして、お茶にしましょう。ゼィルジャも付き合いなさい』
ルガゥネの一声で、部屋の隅に待機していた侍女たちがてきぱきと動き出し、茶や茶菓子を並べていく。郁は勧められるまま席につき、サッ茶を受け取った。飲むふりをするだけで、もちろん口にする気はない。
明け放した窓から、温かみのある風が吹き込んでくる。そこにはかすかに硫黄の匂いが混ざっていた。年若い女性たちの鈴を転がすような笑い声も一緒に耳に届く。
『今日もにぎやかねえ』
『シャツェラン殿下がおいでの際はいつもです』
『ふふ、華やかで皆可愛らしいわ』
ゼイギャクの妻、ルガゥネは見るからに優しげで品がある方だ。濃いオレンジに白い髪が混ざり、光の具合によって、金だったり銀だったりを反射し、本当に美しい。
同時に……、
『ミヤベ、あなた、ゼイギャクのこと好き?』
――とても個性的な方だ。
『グルドザとしてはもちろん、人としても尊敬申し上げております』
『もう、そういう意味じゃないのよ』
子供のような顔でぷーっと頬を膨らませる彼女に、郁は苦笑を零す。
同席している彼女の息子が、『母上、お聞きになりたいことがあるなら、普通にお聞きなればいいでしょう』とまたため息をついた。
『ゼイギャクが好きだったら、それに気づかずに話を進めて行った時、後で気まずいじゃない』
『何度も聞きましたが、そういうことはそうそうありませんから』
『聞き捨てならないわ、ゼイギャクがカッコよくないとでも言うの?』
彼女は六十に手が届こうという今でも、ゼイギャクが好きで大事で仕方がないらしい。
ここまで率直に言葉に出したりはしなかったけれど、祖母も祖父のことがずっと好きだったな、と思い出して、とても温かい気分になる。
『まあ、そういう好きじゃないならいいとして――ミヤベは好きな人はいるの?』
そして、恋バナが好きらしい。若さを保つ秘訣なのだそうだ。末の娘さんが未婚らしく、日々話題を振っては、苦笑されていると言っていた。
『……婚約者はいます』
好きな人――今まさに悩んでいる話題に一瞬息を止めた郁は、江間との表向きの関係を意識して淡々と答えた。
その話題が出た時、前は誰も浮かんでこなかったのに、最近はいつも彼の顔が浮かんでくる。自分を見て、普段は冷たく見える切れ長の目の端を緩める瞬間――それがいつからだったのか、はっきりとは思い出せない。
好きか嫌いか選べと言われれば、確実に前者だ。けれど、と郁は眉根を寄せる。
≪大切な人の名を呼ぶといい。本当に愛し合っていれば、神さまが憐れんで諦めてくださるってさ≫
リバルの村で聞いた言い伝えが耳の奥で蘇る。たとえそれが本当だとしても、自分と江間の場合は、神様は見逃してくれないだろう、と思ってしまったことも。
『シャツェラン殿下?』
『ないです。というか、そうであれば、奥方さまはご存知のはずでしょう』
思いもよらぬ名に顔をひきつらせた後、郁は『……江間です』と答えた。居心地の悪さに身動ぎしそうになるのを、ぐっと抑える。
『あら、そうなの。昨日の夜会で殿下があなたのことを話しているのを聞いて、てっきりそうかと思ったのに』
『絶対ないですね』
シャツェランだけはないし、シャツェランから見た郁はもっとない。
見た目については、ひどい言われようをされた覚えしかない。美しいのは髪だけとかは序の口で、男に生まれていれば救いがあったのに、とか、この容姿だから妬んで佳乃に嫌がらせをしているんだろう、とか。再会してからは、その感覚が変わっていないことも確認した。
加えて、性格が悪いと散々言われている。確かにその通りではあるが、同じように性悪なくせに、猫をかぶって周囲を騙す悪質さまで兼ね備えたシャツェランにだけは言われたくない。
『つれないわね。あなたが望むなら、後押ししてもいいと思っているのに』
『望みません』
『母上、ミヤベが困ってますよ。そもそも殿下は異性愛者でしょう』
『あら、この子、女性よ?』
『え?』
驚く息子に、ルガゥネは『あなたもまだまだねえ』と呆れの息を零した。
『それで、エマとはどうやって出会ったの? お付き合いはどうやって始まったの? 婚約はいつ? 結婚の予定は?』
『出会い、は、ガッコウのような、皆で勉強するところ、で……』
矢継ぎ早に質問されて、郁はぎこちなく口を開く。稀人だとばれないよう、かつイゥローニャ人という触れ込みに矛盾が生じないように話さなくては、という緊張以上に、今その辺の話題に触れられたくなかった。