24-1.ルテゼル
リバル村に別れを告げて、メゼルディセル領に帰る途中、郁たちはゼイギャクの領地に立ち寄った。
王都セルから戻るシャツェランたちとは、ここで合流することになっている。
郁的に何が嬉しいかといって、ディケセル中央部にあるウォルカ火山を要する、ここカードルテ地方には、あちこちに温泉があるということだ。ゼイギャクの城のある領都ルテゼルでも、そこかしこから温水が噴き出していた。
「なんてもったいない……!」
郁が連呼したせいで、「モッタイナイ」は湧き出るお湯を利用せず、そのまま川に流してしまうことだと、ルテゼルの人々には認識された。
とにかく温泉を楽しむ文化を作りたい、そのために皆が安心して湯に入れるようにしたい――本音は郁自身がゆっくり温泉を堪能したい!なのだが、そのために、傷や病、疲労の回復にいいと湯治の効能を切々と訴え、その文化ができれば、温泉のために人が集まるようになる、そうすれば街が潤う、とゼイギャクが引くぐらい説得したのだが、興味を示してくださったのは、彼の奥方様だった。
『あの湯は飲むに飲めず、畑にも使えず、洗濯にすら不向き。ここらの民はずっと悩まされてきました。それが利用できるかもしれないというのであれば、良いじゃありませんか。何よりあなたやグルドザたちが傷だらけで帰ってきた時、癒しとなるのであれば、私はすがります』
ふわりと笑ってそう仰った奥様に、ゼイギャクも頷かざるを得なかったらしい。とりあえずグルドザたちが利用できる湯治場と、領民がゆっくり浸かれる湯船を備えた「セントウ」、湯浴み場を作ってみようと仰ってくださった。郁の目に、夫人は女神にしかもう見えない。
「この世界に来て最大の成果」
「……ミヤベって時々おかしくなるよね」
そう胸を張った郁にリカルィデが半眼を向けたので、温泉の価値を今度こそと思って、郊外の露天風呂に誘ったが、江間の「のぼせたのは誰だっけ、“郁”?」の一言で、諦める羽目になり、足湯で我慢している。
ちなみに、これは城の一画、グルドザたちの鍛錬場のすぐそばに湧き出し、そのまま排水されていた温泉を、郁自身が穴を掘って広げ、周りを岩で囲い、砂利を敷き詰めて作ったものだ。江間と、ゼイギャクの腹心でもあり、私軍の師団長を務めるピンク髪のケォルジュが、呆れながらも手を貸してくれたおかげだ。
「確かに、これがちょっと気持ちいいのは認める」
「っ、でしょう? 全身になると、もっと気持ちいいんだってばっ」
「“のぼせる”ぐらい、だもんねー」
「……リカルィデ、人の傷をつついて楽しい?」
「最近その楽しさがわかるようになってきた」
「生意気どころか、性格、悪くなってきてるよ……」
郁が恨みの視線を向ければ、リカルィデはいたずらっ子のような顔をして、足をばたつかせ、湯をぱしゃぱしゃと蹴った。硫黄のにおいが立ち込める。
リカルィデの指摘通りだ――情けないことに、リバル村の川沿いの温泉に浸かったあの日、郁は湯あたりした。まずいと気付いて何とかお湯からは出たものの、あまりにフラフラしていたからだろう、江間が困った顔をしながら、バスタオルでくるんで、着替えを手伝ってくれて、挙句背負って連れ帰ってくれた。色んな意味で恥ずかしすぎる時間だった。穴があったら入りたい。待っていてくれたケォルジュにも思いっきり呆れられたし……、
≪悪いと思うなら、代わりに……≫
「郁」
「っ」
遠くから江間に名を呼ばれて、心臓がぎゅっと縮まった。
もう何回目だ、いい加減慣れろ、と自分に言い聞かせながら、郁は平静を装って振り向く。鍛錬場から江間がこっちへと歩いてくる。
「……」
リカルィデが人の悪い顔でこっちを見ているのがわかったから、そちらには絶対に目を向けられない。
≪アヤ? って、ミヤベの真名だったっけ? ……へー、ふーん≫
≪よかったね、エマ。殿下がアヤって呼ぶたびに、不機嫌になってたもんね≫
初めて彼がリカルィデの前で、郁の名を呼んだ時も散々からかわれたのだ。
(というか、私の方が彼女より十歳年上なのに、最近まったく勝てない……)
まあ、江間ですら勝てなくなりつつあるんだから仕方がないか、と結論付けて、ため息を吐き出した。
「お前、どこまでも温泉好きだな」
「エマもじゃん」
「訓練で疲れたんだよ。メゼルディセルのグルドザも強いけど、ゼィギャクんとこのグルドザ、半端ないのがそろってるからな」
そう言って江間は郁の横に座り、素足になった。そして、足を湯に差し入れる。
「そういや、シャツェラン、明日到着だってさ」
「殿下はジィガードにどんな反応をするんだろうね……。あの人、全身傷だらけなの、知ってる? 指も欠けてるんだ。元々六本あってよかったとか言って笑っていたけど」
とリカルィデは視線を伏せた。
「奴隷のいない、皆が飢えない国を作りたいと言っていたよ。自分たちは逃げられたんだから、どこかで平和に暮らしたっていいのに……」
ゼイギャクと一緒にとらえられた小屋で、ジィガードと交わした会話を思い出し、郁も表情を沈ませた。
彼は、ギャプフ村で死んだバハルの奴隷の子供のために、悲しんでいるように見えた。そして、人を奴隷扱いして平然としていると、福地や寺下に憤っていた。
「あの人、悪い人じゃなさそうだし、良い方に繋がるといいな」
「大丈夫だろ。ゼイギャクが連れてきたんだし、無茶苦茶なことにはならないさ」
「うん、エマやアヤよりは常識もありそうだしね……」
顔をひきつらせた江間が、「言うようになったな。というか、アヤって言ったか?」とリカルィデを睨むが、実際非常識な計画を持つ郁は、さりげなく顔を背ける。
春を感じさせる風が吹いてきて、湯の表面に立つ湯気を周囲に散らした。
『あ、俺も「アシユ」、入れてくれー』
『俺も俺も』
向こうから、コルトナとエナシャが賑やかにやって来た。