23-13.石板(シャツェラン)
『シャ、シャツェラン、殿下……』
『構わずともよい。懐かしくなって、少し立ち寄っただけだ』
王の部屋を辞去したシャツェランは人の注目が途切れていることに気付いて、蔵書庫に足を向けた。
目的は存在自体知る者のほぼいない、その最奥だ。だが、ふと思いついて、その前に蔵書庫の内部を見て回ることにする。
蔵書庫に入ってすぐの人目を引いている状態で、そこに向かうのを避けるという理由もあったが、郁が言っていた、リカルィデの幼い頃の居場所をなんとなく見てみようと思った。
だが、すぐ後悔した。蔵書庫の作り自体はシャツェランの記憶と何も変わらないのに、全体的に埃っぽくて薄暗く、陰鬱な雰囲気になっていた。
書物は整理されることなく乱雑に積み上げられ、書架に並んだ本は日に焼けて傷み、ろくな手入れがされていない。
護衛のシドアードも一緒に入ってきたが、ぐるっと頭を巡らし、『……メゼルにすべて引き取ってはいかがですか』と肩をすくめて、口を閉じてしまった。
『……』
歩むたびに巻き上がる埃が、高窓から差し込む光を乱反射する中を、シャツェランは奥へと進んでいった。
昔は多くの蔵書師が働き、シャツェランを見かけると、皆が嬉しそうに『何かお探しですか?』『新しい本が入りましたよ』などと話しかけてきたのに、今いるのは沈んだ顔の、腰の曲がった数人だけ。
『ひどい有様で……本当に面目次第もございません』
そのうちの一人がシャツェランに気付き、挨拶の後悲しそうに顔を俯けた。
『いつからだ?』
『……以前から少しずつ。どうにも手が回らなくなりましたのは、サチコさまが亡くなられた後からです。それでもアーシャル殿下が何とかしようとしてくださったのですが、あの方も……』
『アーシャルはどんな子だった?』
『……申し訳ありません。聡明そうな方だった、としか。繊細な方故、話しかけてはいけないと言われておりましたので……』
『……そうか』
(あの娘はずっとこんなところにいたのか……)
リカルィデはどう育ったのかと聞いた時、郁が怒りと悲しみの混ざった顔をしていた理由が分かった気がした。サチコが彼女を――当時はアーシャルだったが――気にかけてやって欲しいと言っていた理由も。
知識に富み、聡明で思慮深く、ひどく優しいサチコを、セルはアーシャル共々ただ飼い殺しにしていた。宝の持ち腐れどころか理不尽以外の何物でもない扱いに、シャツェランの方が耐えかねて、サチコをメゼルに誘ったが断られた。
ならばせめてと思って、訊ねたのだ、帰る方法があるとしたら望むか、と。
≪ええ。アーシャル殿下と一緒であれば≫
静かな決意に満ちた彼女の顔を思い返して、シャツェランは視線を伏せる。
(あと少し、ほんの数年だったのに……――)
『手向けとしたい。アーシャルの好んでいたものはあるか?』
『……ありがとうございます。今お持ちいたします』
何もかも今更で、贖罪になるとは毛頭思っていないが、何か一つぐらい彼女の手元にあってもいいだろう。
『しばらくここで待っていろ』
シドアードにそう告げ、シャツェランは蔵書庫の更に奥へとゆっくり進んでいった。
幼い頃、大伯母にあたるトゥアンナ王女の行った先が向こうの世界だと郁から聞かされたシャツェランは、その真偽を確かめたくて、様々な資料や記録を追い求めた。そうして行き着いた先が、この先の禁書の間だった。
先王崩御のどさくさにまぎれ、本来であれば入れないこの場所にシャツェランは入り込み、そこにあったこの国の成り立ちと始まりの神について書かれた書を目にした。そして、コントゥシャを始めとする王族がいかにあちらの世界と繋がり、自らの力としたかを知った。
『殿下、そちらには陛下のお許しが……』
一人の年老いた蔵書師が目敏く気づいて、慌ててやってきた。だが、そこまで言って、彼は口を噤む。
そして、シャツェランの顔をじっと見上げてきた。元は青色だっただろう眉は白いものが混ざり、水色に見える。その下から理知の光を湛えた瞳が覗いている。
『……』
彼は無言で身を引き、古びた鍵を懐から取り出した。
『他にここを訪れた者は?』
『昔、カィセンテ殿下がご興味をお持ちになったと伺っておりますが、先代も今上陛下もお許しにならなかったと』
外国で暮らしている大叔父の名に、シャツェランは目を見開く。
何度か出会ったことのある彼は、完全に“向こうの世界”にとり憑かれていた。異様なまでの傾倒具合に、国外に出され、再三にわたるサチコとの面会の申し入れもセルに断られていたはずだ。
≪見た、見たぞ、あれがお前の“アヤ”――トゥアンナの孫だ≫
狂気と共に笑っていた男を思い出し、シャツェランは目を鋭く眇めた後、軽く首を横に振った。あれは王族の血を引く子らに薬物を与えた罪で追放された。何度かディケセルに戻ってきた際も厳重な監視付きだったと聞いている。今更何もできまい。
老蔵書師が慎重に鍵を回せば、鍵穴の奥がゴトリと重々しい音を立てた。
『この場所の存在が秘されてより、既に五十数年経ちました。陛下には口伝てに伝えられているはずですが、覚えてはおられまい――朽ちるのを待つばかりです』
歪な音を立てて、鉄で補強された分厚い木戸が開く。蔵書師から手燭を受け取り、内部へと入れば、湿った、かび臭い匂いが鼻についた。
シャツェランは天井の低い廊下を進み、奥の石室へと向かう。足音が歪に反響し、消えていく。
そして、行きあたりの扉を押し開けた。五ガケル四方の、さらにかび臭い石室。その祭壇中央に据えられた石板へと歩み寄った。
『……』
それは昔と何も変わっていなかった。手燭の明かりを頼りにそこに刻まれた古い装飾文字を読み、シャツェランは目を閉じる。
コントゥシャから五百年、あちらの世界とこちらの世界を繋ぐ、ディケセル王族の力はほぼ失われた。惑いの森の霧に入れば、任意で行き来ができたという祖先に対し、ここ百年で、自分の意志で渡界する能力のあった者はトゥアンナのみ。それも郁と佳乃の話を聞く限り、一回きりの力だったようだ。
死の危機に瀕した場合は、ほぼ確実に違う世界に逃げられたという、一族の血を繋いできた能力も今は持つ者は少ない。現王の血を引くリカルィデも、惑いの森で死にかけたというが、結局発動しなかった。
(逃げた王女の血を引くとはいえ、向こうの平民の血が混ざったアヤには、少なくともその力があったのに……)
皮肉な気はするが、おかげでまた会えた。
『シャツェラン』
(もう一生、アヤに名を呼ばれることはないと思っていた……)
大神殿で窓枠越しに自分に向けられた黒茶の瞳が、脳裏に蘇る。死なないでくれて本当によかった、と思うともなしに思ってから、軽く首を振った。
郁のことだ。向こうに、日本に帰る方法があることには、間違いなく気付いている。
だが、知らずに使える力はもう使い切った。
もう一つの方法を知るためには、ここに行きつくしかない。その方法を知っていた王族たちもサチコも皆あの世に逝った。
『わかった。もういい』
郁と喧嘩別れした最後のその場面を、何度夢に見ただろう。その度に彼女の名を叫びながら、シャツェランは跳ね起きた。
居て当たり前と思うともなしに思っていた郁は、そうじゃなかった。彼女の代わりはいないとようやく気付いた時には、もう取り返しがつかなくなっていた。
ずっと後悔して生きていくのだと諦めていたところに、再び郁は現れた。メゼルの城の中に彼女を見つけた瞬間、頭が真っ白になって、気付いたら名を叫び、走り出していた。
今度は夢じゃなかった。
今は触れて、彼女の体温を感じることもできる。
成長した声で、自分の名を再び呼ぶようにも、また笑いかけてくれるようにもなった。
郁だと名乗りもした。敬語をやめて、昔のように気安く、親し気に話し始めた。
シャツェランは手燭を祭壇に置くと、ディケセル王家が長く宝としてきた石板を持ち上げ、頭上に掲げた。
もう二度と失いたくない、失えない――帰さない、絶対に。
『っ』
力任せに、床に叩きつける。そして、粉々になった石板の文字の刻まれた部分を、踏みつけ、さらに破砕した。
『……』
ただの砂礫と化した石板からようやく目を放し、シャツェランは気を落ち着けるように、長々と息を吐き出した。
再び手燭を手に取ると、高く掲げ、石室の最奥を照らす。
壁にかかっているのは、コントゥシャが唯一残した「カタナ」――今江間が持つものとよく似たそれを見つめる。
ディケセル王家の始祖、コントゥシャこと、コンドウ・シンザの墓はない。なぜなら、“帰った”から。
『……』
郁はもう帰れない。石板は壊した。王族であると名乗ることはもちろん、稀人ということすら隠している郁が、正解にたどり着ける可能性はもうない。
そう結論付けると、シャツェランは、踵を返した。
三本ある手燭の炎のうちの一つが、ジッと音を立ててかき消えた。白い煙がシャツェランの鼻をついた。
* * *
『殿下、お手紙が届いております』
滞在先の部屋に戻るなり、アムルゼがシャツェランに声をかけてきた。
『こちらは夜会などのお誘い、こちらが婚約の打診です』
『相変わらずの数ですねえ。早く身を固めたほうが、いっそ楽じゃないですか?』
『もう何回も聞いた……』
『それ以外がこちらになります』
シドアードの関心とも呆れともつかない呟きに、手紙を仕分けするアムルゼが苦笑するのも、いつものことだ。
円筒状の紙封に虫羽と蝋で綴じられた一通は、リバル村に行ったゼイギャクからのもので、土蟲の調査を含め、すべて順調に進んでいることと、村での日常について語っている。
その中で、ゼイギャクの領地と同様、リバルには温泉が湧いていて、ここに宿を中心とする町を作ってはどうかと提案する者と出会った、近々自領に帰るので、一緒に連れ行って検討するとさらりと触れていた。
前半は土蟲対策がうまくいっていることと、探していたコレ――郁によれば、正確には「コメ」、日本での主食らしいが――が見つかり、栽培を始めたということだろう。
問題は後半だ。あちらの世界では温の泉を目当てにした物見や宿泊の旅が盛んだと、昔郁が話していたことがある。ならば、街づくりの提案自体は、おそらく郁か江間のはずだ。
(それなのに“出会った”とあるのは……)
ゼイギャクは、セルに知られたくない何者かの存在を暗に伝えてきているのではないか、と考えついて、シャツェランは眉根を寄せた。
(セルに伏せておきたい理由は、セルもしくはバルドゥーバに関することか、それとも稀人、アヤたちに関わることか……)
『……面倒だな』
セルにいるとどうしても連絡に不都合が生じる。シャツェランはため息をつきつつ、セルからの帰り道に、ゼイギャクの領地に寄ることを決めた。
次にメゼルディセル領を任せているオルゲィからの書状を開く。
こちらも土蟲の駆除を中心に当たり障りのない内容に見せかけてあった。注目すべきは、土蟲に関して“懸念されていた地域は、懸念通りの状況にある”という一文だろう。
『あの大型の土蟲はやはりイェリカ・ローダということらしいぞ』
イェリカ・ローダは“コントゥシャ神の加護”のない惑いの森にしか生息できないというのは、ただの迷信ということになる――。
神の権威を何より雄弁に貶める発見だ、と皮肉に笑えば、アムルゼが感情なく頷いたのとは対照的に、シドアードは長々と息を吐き出した。
『信じていたものが、全部ひっくり返された気分です。前ミヤベたちがそんなことを言い出した時は、半信半疑だったんですがねえ』
『外には漏らすなよ。信心深い奴らに狙われるぞ』
これは様々な意味で、外には出せない情報だ。笑いを交えて返したが、それが分かるのだろう、シドアードのみならずアムルゼも真顔で同意を返してきた。
『もう一つの問題は、バルドゥーバのイェリカ・ローダを飼い馴らそうという企みを、不可能だと笑っていられなくなったことですね』
『その通りだ』
(エマは絶対に阻止すると言っていたが、具体的な策はあるのだろうか……)
まあ、なければ出させよう、と決めて、シャツェランは口角をあげた。
稀人を手に入れ損なったと知った時は、自分の運もこの程度かと落胆したが、なんのことはない、まったく逆だ。あの二人、いや三人を手に入れた自分は、バルドゥーバのウフェル女王よりよほど天に愛されている。
難点は――
『バルドゥーバのバハルに忍び込もうと思う』
手に入れたはずの駒が、勝手に、勝手に、それはもう実に勝手に、動こうとするところだろう。