23-11.騙すのは(シャツェラン)
郁たちが大神殿を発ってから、シャツェランはバルドゥーバの稀人、寺下の機嫌を取って過ごした。
その合間を縫い、バルドゥーバ側に気付かれないよう、フュバルこと佐野の様子を見に行く。大神官長からギビォナの香りのする洗衛石を手にして塞ぎ込んでいることが増えたと聞かされたからだ。
率直に言えば、どちらも煩わしい。『人気者は大変ですこと』とにやにや笑うシハラの存在も手伝って、『なぜ私がこんな目に遭わねばならない……!?』と江間か誰かに八つ当たりたい気分だ。
郁の目論見通り、寺下は郁に敵愾心と対抗心を燃やしているようで、何かと彼女の話題を振ってくる。そのたびに内心で辟易としながら、シャツェランはイゥローニャ人としての郁について過少に話し、稀人としての寺下を過大に持ち上げた。
郁が江間と共にやったことについて、寺下が向こうの世界の知識だと追求してきた時はサチコの名を借りて誤魔化し、素性について訊ねてきた時はリカルィデが巧妙に作り上げた、郁たちの嘘の来歴をそのまま利用した。イゥローニャ人を執拗に迫害してきたバルドゥーバにこそ、彼女たちの素性を調べる術はない。実によく練られている、と自分の姪の頭の良さに改めて舌を巻いた。
もちろんそれで『メゼルのイゥローニャ人ミヤベ』が自分の同朋の宮部郁という人間であるという疑念を、寺下から払しょくできたわけではない――この状態こそが郁の狙いだ。
『人は自分に都合のいい話を信じたがる。謙虚さを失った人間ならなおさらだ』
郁が醒めた顔で言っていた通り、寺下は『メゼルのイゥローニャ人は郁の可能性が高い。だが、恐れる必要はない』と思いつつあるようだ。
そして、『寺下さんにとって都合がいいから、彼女は内心フュバルこと佐野さんの存在をなかったことにしたがっているはず』という郁の予想も当たった。
綻びだらけの『大神殿にいるのはサノではなく、稀人に勘違いされたメゼルのイゥローニャ人』という説を受け入れてしまって、バルドゥーバ本国に報告の手紙を出したようだ。シハラが人悪く笑いながら、教えてくれた。
もう一人の江間について、寺下、そして福地はどう出てくるか?
郁は、福地は江間に執着し、常に行動を共にしたがっていた、江間の優秀さと人の癖の強さを気にしない性格がよかったのではないかと言う。
惑いの森で郁と共に彼らから離れた江間について、寺下が言及しようとしないのも多分同じことだ、彼女の場合はそういう江間が逆に苦手だったようだけど、とも。
事実、寺下は郁が生存していることを目の当たりにしたというのに、時同じくして惑いの森に消えた江間の生存については、追及しようとしない。
神殿の日本語話者の中から江間と似た容姿の男を選び、イゥローニャ人の“エンバ”として彼女に会わせたのだが、それで拍子抜けするほど簡単に納得した。
つまり都合のいいことを信じたがっている寺下にとって、江間は生きていられては都合の悪い人間らしい。
『強すぎる関心は人の判断力を狂わせるから』
それを利用してまず寺下を騙し、その寺下が福地を騙そうとすることで、結果福地を騙すのが、江間を隠すために郁が仕組んだからくりだ。
寺下の中で真実である郁の存在について、寺下は福地に「郁ではない」と嘘を吐く。同じく彼女の中で真実である江間の死亡については、嘘を吐かない。
疑心の強い福地はその二つを対比して前者は嘘と見抜き、その判断に影響を受けて後者に嘘はないと見るはずだ、と。
問題はそれを福地が信じるかどうかだと指摘したシャツェランに、郁は肩をすくめた。
『希望は残酷だからね。これ以上がっかりしたくなくて、福地は無意識に江間はもう死んだんだと思いたがる――だから彼は彼で、そう思うよう私に誘導されていることに気付けない』
『……お前、本気で性格悪くなったな』
『おかげさまで』
シャツェランの発した嫌味への痛烈なその返しこそ、性格の悪さの象徴だった。
その郁に欠片も引かないどころか、『誰も彼も俺を死んだことにしたがる……』と泣き真似をして見せ、リカルィデに呆れられていた江間は、やはりどこかイカレている。
今後の問題は、それらの情報を基にバルドゥーバ女王と宮宰の福地がどう出てくるかになるだろう。
『江間の存在さえ隠せるなら、私が稀人だとバルドゥーバ――女王や福地に伝えて構わない。今後予定外のことが起きた時もその方向で』
神殿を発つ前日、江間の耳から隠れ、郁はシャツェランにそう告げた。
なんとなく気に入らなくて、『そこまでエマが大事か』と問えば、郁は目をみはった後、苦笑した。そして、『存在がばれた時、より苛烈な反応が起きるのは、私じゃなくて彼だと言っているでしょう』と。
推測だが、今回こっちに来た六人の稀人の中で、江間の能力は群を抜いているのだろう。彼には知識とそれを活かす思考力があり、コミュニケーション能力にも秀で、グルドザに張り合えるだけの武の心得がある。郁のみならず福地たちも、それを知っているということだ。
『いっそ存在をばらして、バルドゥーバに送るのはどうだ? 女王を骨抜きにできるとは思わないか?』
冗談半分に郁にそう言ってみたら、『だろうね。する?』と真顔で返されて、『……しない』と返さざるを得なかった。
どこまでも可愛げのない女だ、エマが気の毒になる、とシャツェランは本気で思っている。
そうして、ようやく寺下がバルドゥーバに帰る日が来た。
『シャツェランさま、お会いして、光栄でした』
『道中お気をつけて――「なごりおしいです」』
『……ありがとうございます。「私もずっとお側にいられたらと……」失礼いたします』
『……』
(側にいて欲しいなどと誰が言った……? ずっと? 冗談じゃない)
昔郁に教わった日本語を社交辞令的に使えば、寺下は頬を染め、同じく日本語を交えて返してきた。なんとか微笑んでみせたが、嫌悪が混ざっていなかった自信はない。
元の美醜以前の問題だ。寺下の卑屈さと傲慢さの両方が滲み出る顔つきが、心底厭わしい。
(この女が郁を見下す? ――ありえない)
嫌悪しか感じないというのに、彼女本人に見破られなかったところを見ると、郁の『人は信じたいものを信じる』という言葉は確かなのだろう。
気色悪いのがようやくいなくなった、とせいせいしたのも束の間、シャツェランはシャツェランで、すぐに王都セルに向けて発つことになった。
『寂しくなります……』
フュバルは大きな目に涙をいっぱい溜めて、見送りに出てきた。涙を零すまいとしていたようだったのに、結局泣いてしまって、神官たちが懸命に慰めていた。
それは当然のことに思えた。江間はフュバルを好いていないようだったが、彼女は郁や江間、サチコと同じく、誰に対しても基本親切だ。付き従ってきたバルドゥーバ人たちに尊大にふるまい、彼らからも嫌悪の視線を受けていた寺下に比べると、はるかに善良に見える。
郁が彼女に対して好意的だったことも、シャツェランのフュバルに対する印象に大きく影響している。
『困らせるつもりは、なかったのに……ごめんなさい、殿下。ずっと不安だった、ので、お話しできて、本当に嬉しかったです』
目を潤ませていてもなんとか笑おうとする心根が健気で、庇護欲をそそられる。
知らず微笑んだその瞬間、郁との別れの光景が思い浮かんで、シャツェランは片目を眇めた。
リバル村への出発を早めることにし、そのための打ち合わせを終えた後、シャツェランは『……何かないのか?』と郁に声をかけた。
彼女はほんの少し不思議そうな顔をし、『何かあればゼィギャクに頼んで連絡する』とだけ言って、さっさと引き上げて行った。振り返りもしない。
夢の中で郁と喧嘩別れした時、あれが最後になるとは思っていなかった。何の奇跡か、再びしかも生身の郁と会うことができたが、よりによって今回の彼女の行き先は、惑いの森のすぐそばだ。
いつまた別れが来てもおかしくないと知っているシャツェランからすれば、ひどく苛立たしい。
あいつは再度別れても、「そんなもの」程度にしか考えないのだろう。
『で、できる、じゃない、できれば、またお会いしたいです』
『また立ち寄る』
別れを惜しみ、再会を望むフュバルの可愛げを、本気であいつに分けてやって欲しいと思う。
(まあ、アヤはおそらく向こうにはもう帰れないんだが、問題はエマだな……)
郁からはこっちに来る前「ジドウシャ」の事故に遭ったと聞いている。そして霧に入った、と。であれば、本人が知らないだけで、それは郁の力だ。
(今後気にかけるべきは霧、そして残り二つの条件を悟られないことのみ。ゼイギャクたちには霧が出た場合、二人をそこに放置するなと言ってあるが……)
国盗りを狙う以上、手元にやってきた郁と江間、稀人二人を失うわけにはどうしても行かない――。
シャツェランは佐野から目を離し、東に広がる惑いの森を睨む。
『殿下、先日お話ししました件、どうかご検討を。神殿としましては、ディケセルのためにも、どうか真剣にご検討いただきたいと願っております』
フュバルの担当をしているという主神官がやってきて、シャツェランへと頭を下げた。
『……?』
フュバルは、自分に関わる話ではないと判断したらしい。シャツェランと目が合うなり、横で首を傾げつつ、小さくはにかみを浮かべた。
これが郁であれば、素知らぬ顔で聞き流したふりをし、あとでシャツェランなり主神官なりを誘導して、内容を確かめるだろうな、とシャツェランは幼馴染を思い浮かべつつ、返事を避けた。
『考えておく』
フュバル、稀人をシャツェランの正妃として迎えてはどうかという話だ。大神官長も承知だという。だが、そこまでする価値が彼女にあるとも、今のところ思えない。
(大体、稀人の肩書があれば、誰でもいいという話なら、別にフュバルでなくてもいいのでは……?)
『……』
シャツェランは、見送りの場に出てきているシハラをちらりと見た。
郁の正体を知る彼女の反応が気になったのだが、例の得体のしれない、整った笑顔を返された。
シハラが郁の正体に気付いた理由は、『両親からもらった月聖石が彼女の物と共振いたしましたので』。
なぜ彼女が稀人だと神殿に言わないのかと聞いた際には、『あら、アヤは神殿が保護したわけでも、神官が確認したわけでもありませんが? 稀人なんですか、知らなかったわあ』としゃあしゃあと言ってのけ、とどめに『大体コトゥドの孫であることが、なぜ稀人ということになるのか、さっぱり』と含みたっぷりに笑われて、ぐぅの音も出なかった。
その上、ダメ押しとばかりに、『さて、オルゲィはじめ、私どもの身内に何をどう話そうかと……まあ、特には必要ありませんわね――殿下があの子を大切してくださる限り』と、江間曰くの「アクマ」のような顔で笑っていた。
『では、シャツェラン・ディケセル殿下、ごきげんよう――“あの子たち”を“くれぐれも”よろしくお願いいたします』
今彼女が向けている顔も同じだ。
『それがあなた自身にもたくさんの幸福をもたらすと信じています』
彼女と郁は間違いなく血が繋がっている――そう確信しながら、シャツェランは自らの故郷である王都セルに向けて、大神殿を後にした。