23-10.待つ者(江間)
湯あたりしそうになって、江間は湯から出、岩の上に腰を下ろした。川上から吹いてくる風が、ほてった体を撫でていく。
「……」
それから傍らの岩の上に析出している黄色い物体を見つめた。
(これって単体硫黄だよな……?)
公害が問題になって、石油の脱硫が行われるようになった今でこそ廃れたが、火山国の日本では単体硫黄が採掘可能だった。製錬も煮詰めて不純物を取り除くという程度だったはずだ。
(硫黄は確か黒色火薬の添加物……)
火薬――嫌なものを思いついてしまって、江間は眉をひそめた。あやふやではあるが、昔どうやって火薬が作られていたか、知識がある。
もし、福地も同じだったら……?
あいつのことだ、躊躇なく作って利用するだろう、と思いついて眉間の皺をさらに深くした。
「どうかした?」
「……いや、ちょっと湯あたりした。宮部は?」
「満喫中」
少し離れた場所から声をかけられて振り向けば、宮部は再度湯につかって幸せそうに伸びをしている。
「メゼルだと家の中でたらいを使ってちまちま洗うしかないもん。大神殿の湯浴み場もよかったけど、温泉浸かりたい放題。リバル最高……」
「そのリバルで殺されかけたくせに。というか、そこまで風呂好きだったんだな」
苦笑すれば、「実は」とはにかんだように笑顔が返ってきた。
「……うちの婆さんと気が合ったかもな」
「? お爺さんじゃなく?」
「いや、爺さんはのんびり温泉に浸かるような性格してない。全然。まったく。死んだ婆さんが温泉好きで、それに付き合わされてるうちに詳しくなったってだけ」
「……仲のいいご夫婦だったんだね」
優しい顔でそう呟いた宮部の顔を見ているうちに、言葉が口をついて出た。
「なあ、ここにいたいか?」
「? 温泉は捨てがたいけど、そろそろメゼルに戻らないと、いい加減田植えが――」
「いや、この世界」
「……」
さっきまでのまぶしいような顔から一転、一切の表情がかき消えた。後悔が広がるが、避けて通れない話題だ、と江間は気力を振り絞る。
「正直に話してくれ」
見落としがないよう、宮部の様子を全身の神経を凝らして窺う。
「嘘つきにそれを言う?」
宮部は自嘲と悲しみの混ざったような笑いをこぼした。
「話してくれると信じる」
「……その言い方はずるい」
困ったように呟いて、宮部は視線を伏せた。
沈黙の中、傍らを流れる川の音がひと際大きくなった気がした。
「本当のところ……わからない、どうしたいのか」
しばらく考え込んでいた宮部は、江間へとまっすぐ視線を合わせてきた。不安そうな顔をしているのに、それでも彼女は沈黙で回答を誤魔化すことも、話題を逸らすこともしない。
自分が彼女から離れられないのは、こういうところだ、と不意に気づく。
「江間には帰ってほしい。ご家族が心配していらっしゃると思うし、何より……明年の期みたいなことがあるのはもう嫌だ」
「……」
彼女が一瞬見せた泣き出しそうな顔に、体の芯が揺すられる。
明年の期に二人で出かけた時、襲撃された直後に江間が意識を失ったことを言っているのだろう。
その翌朝、目を覚ました江間を見て、宮部がぼろぼろと泣いたことを思い出す。
わかりにくいだけで、優しいことはずっと知っていた。けれど、あそこまで自分を心配してくれるとは、正直思っていなかった。
「リカルィデはどうしたいんだろうって思ってる。向こうの世界に行ってサチコさんを探して、家族に会わせたいと言っていたけど、リカルィデとしてこの世界で生きていけると聞かされた今は、残りたいと思っていてもおかしくない気がする。実際、ここで霧が出た時も中に入るのを戸惑っていたでしょう」
(……こういうやつなんだよな)
真っ先に出てくるのは、宮部自身のことじゃなくて、江間とリカルィデのことだ。彼女は自分自身のことを気にかけない――それが愛しくて、でもそれ以上に寂しくて悲しい。
「宮部はどう思うんだ?」
「……帰りたい、気がする。でも……」
口を開いては閉じる動作を何回か繰り返した後、宮部は寂しそうに笑い、「誰も私を待ってないのは確かだ」と、湯船の中で体を丸めた。
「できれば、だけど、シハラが生きている間はこっちにいたいな……」
「……そっか」
その程度の返事しか思いつけなかった。
あっちは江間たちにとっての故郷だ。安全で、便利で、快適で……でも、祖父母が亡くなった今、宮部を向こうで待つ人はもういないということなのだろう。
むしろ危険で不便な異世界のこっちにこそ彼女を必要とする人がいる。リカルィデとシャツェランはその代表だろう。宮部が望むように、シハラのほうも時間が許す限り、彼女の存在を感じていたいのではないか。それに、ヒュリェルやオルゲィたちだって……。
「なあ、俺にも聞いてくれない?」
と言えば、宮部は顔を跳ね上げた。鳩が豆鉄砲を食ったような顔というのは、こういうのを言うのだろう。
「え、帰りたい、よね? 当然……」
「それがどっちでもよかったり」
しれっと嘘をつく。
「……」
信じられないものを見る目つきをしていた宮部は、ぎゅっと眉根を寄せると、「嘘つき。人には正直に言えと言ったくせに」と泣き笑いをこぼした。
「嘘じゃない」
ばれるだろうと知っていた江間は、敢えてそう言い通す。
本当は宮部の言うとおりだ。江間の本音は「どっちでもいい」じゃなくて、「帰りたい」だ。ただし宮部を連れて、という絶対条件が付く。
だが、そう口にしてしまえば、人のいい宮部はきっと江間の希望の通り帰ろうとするだろう。もし彼女が迷うことがあるとすれば、リカルィデがこっちに残りたいと言い出した時だけだ。
もちろん宮部の押され弱さに付け込んで、強引に連れ帰るという手もある。だが……それはしたくない。
「まあ、今すぐ決めなくていいんじゃね? シハラもだけど、今帰ったら、色々気になりすぎるだろ? そもそもまだ帰り方、わかんねえし」
敢えて軽く言ってみせるが、江間の頭の中では、この村で一人霧に包まれた時の記憶が蘇っている。
以前、シャツェランが笑いながらぽろっと漏らした「お前には呼ぶ者がたくさんいそうだな」という言葉――あれこそが鍵なのではないか。
「……うん」
その江間をじっと見ていた宮部は、視線を泉の底へと向けた。
普段の彼女からは想像もつかない迷子のような横顔に、逡巡を見てとる。
「……」
究極のところ、宮部が幸せでいられる場所なら、どこにいたっていい。一緒にいる――喉元まで出てきた言葉を、江間は飲み込む。
その言葉は、今の間柄では重すぎて、逆に引かれてしまう気がする。
≪アヤがどこにいることにしても?≫
別れ際のシハラの言葉が脳内に響いて、江間は大神殿の方向、西へと顔を向ける。
散々からかわれたし、引っ掻き回されもしたが、シハラは最後の最後まで自分たちを心配してくれていた。
それなのにいまだに宮部本人に気持ちを伝えられないなんて、死の淵にいるシハラには知られたくない。きっと悲しませてしまうだろう。
(……って、そんな訳ねえか)
脳裏に現れたシハラは、『あなた、けっこう情けないのよねえ、アヤに教えてやりたいわ』と人悪く笑っている。
江間は情けなく眉を下げると、頬をかいた。