2-8.混戦
※残酷描写あり
王子らと遭遇しないまま、洞窟の入り口に辿り着いた二人は、内部へと目を凝らした。入り口と奥の双方からわずかに射し込む月明かりを虹色の鍾乳石が乱反射し、洞窟内部はほんのり光って見えた。
中ほどに郁たちが使っていた焚火の後があるが、それ以外に人の気配はない。そこにさきほどまで稀人がいたという証もなかった。
(谷底に落ちた車は回収できないはず。他はそれぞれの身の回り品、懐中電灯、バッテリー、車載工具の残り……文明を不自然に発展させてしまいそうな物は何かあっただろうか……)
そんなことを考えながら、郁は洞窟のそこかしこにある暗がりへと視線を走らせる。
「いない……」
「……まずいな」
王子たちとどこかですれ違ったのだとすれば、今頃拘束された神官たちを彼らが発見しているかもしれない。神官たちは後ろの蜥蜴兵たちと通じているのだから、遅かれ早かれ、神官の格好をしている郁たちの正体を暴きにかかってくるだろう。
背後から近寄ってくる蜥蜴兵たちの気配に、自分のフードを目深に下した江間が、郁のフードを引き下げようと手を伸ばしてきた。
「っ」
その腕にそのまま引き倒された。脇を何かが掠める。直後に洞窟の入り口に立つ木がカッと音を立てた。――矢だ。
「あっちからだ」
郁ごと木の陰に転がり込んだ江間の腕の中で、その矢が自分の心臓を狙っていたことに気づいて蒼褪める。
背後で木々がざわつき、梢が乱暴に折れた。地鳴りがする。
こちらに動きがあったことに気づいたのだろう。バルドゥーバのトカゲが押し寄せてくる。聞こえる甲高い悲鳴は多分佐野のものだ。
「っ、あっちもこっちもっ。来い、宮部っ」
再び矢が飛んできて、郁と江間は巨大爬虫類と矢の始点の双方から離れるべく、転びそうになりながらも木立へと走り出した。
背後からついてきた江間の舌打ちが聞こえた瞬間、体が右に傾いだ。巨木の背後に江間と共に倒れこむと、その幹の背後で再びカッと乾いた音が立った。
『殿下、お待ちくださいっ、そちらはヤルツィヤ首司祭ですっ』
『向こうだっ、蜥蜴兵――バルドゥーバ……っ、六騎いる』
そんな声が響く中、バルドゥーバの兵たちが姿を現す。
洞窟の左手前の木立の中にいたディケセルのグルドザたちが、剣とスオッキを鞘から抜いた。彼らへと距離をつめるトカゲの足元には、剣を抜きはらった奴隷と思しき徒歩兵たち。上のバルドゥーバ兵たちも凶暴な顔つきで槍を構えている。
少し離れた場所で立ち止まったトカゲ上のゼミ仲間たちの顔は、月光を受けて青ざめていた。
ディケセルのグルドザたちが剣先を敵兵に向けて、突進していく。先頭はあの白髪のグルドザだ。
『我はゼイギャク・ジルドグッザ』
森を揺るがすような大音声をあげると、彼は一瞬で徒歩兵の腕を打ち落とした。血飛沫が上がる。
『獣と共に、惑いの森の土となるがいい』
ゼイギャクはバルドゥーバ兵がトカゲの上から振り下ろしてきた槍を、左に握った三叉の剣で捻り弾く。そのまま間合いに踏み入ると、右手の剣をトカゲの首へと振り上げた。ザンっという音と同時に、トカゲの首は胴から跳ね飛んだ。首を失ったトカゲは、傷口から血を吹き上げ、つんのめりながら前に倒れてくる。
ゼイギャクがその巨体を左に回避すると、恐怖に目を見開いた騎乗のバルドゥーバ兵の顔が郁の目に入った。その兵はなんとか上身を立て直し、ゼイギャクへと槍を突き出す。
が、振り上げた剣を返すゼイギャクの動きが勝った。悲鳴を上げる暇すらなく、兵の首が地に転がり落ちる。目を剥いたまま。
「……っ」
奥で金切り声が上がった。木陰に潜んで様子を見ていた郁も悲鳴を上げそうになったが、江間の手に口をふさがれる。
大きな手の上で目だけを動かせば、郁を抱きこんでいる江間が、目の前の光景を見つめたまま、「冗談じゃねえ……」とつぶやいた。夜目にもわかるほどに顔が青白く、額には汗が浮かんでいる。感じる細かい体の振動が、自分のものか江間のものかわからない。
ゼイギャクの動きは止まらない。
「もういやあああっ」
「下ろしてっ、私帰る……っ、下ろしてったらっ!」
『稀人』こと、向こう側の人間の反応もあってか、バルドゥーバ側は完全に浮き足立ち、ゼイギャクを含むディケセルの戦士グルドザ三名に、いいように翻弄されていた。
「っ」
また一人、ゼイギャクに喉に剣を貫かれて絶命した。人の首に、赤い血の滴る金属の棒が生えている光景――その金属の向こうに見える、ゼイギャクの顔には、恐怖も残忍さも悲壮さも、何一つ見当たらない。その首の主は喉から奇妙な空気音を立て、最後に口から血を吹き上げる。その血が頬にかかってなお変わらない、平静そのものというゼイギャクの顔に鳥肌が立った。
自分たちと同じ姿をした“人”が、同じ“人”を当たり前の顔で殺す――
「……」
(世界、が違う……)
初めてそう実感して戦慄した。四つ目の哺乳類似の動物を見た時も、月を二つ見た時も、初めて『神に疎まれしもの』に遭遇した時も、結局は頭で理解していたに過ぎなかった。体が細かく震え出す。
怖いと思った。化け物より何より、見た目は同じなのに決定的に中が異なる“あれ”が怖い。
「宮部」
耳元で囁かれて、郁はびくりと体を震わせた。
「逃げるぞ、歩けるな?」
「……」
言い聞かせるように言われて、郁はごくりと唾液を飲み込んだ。彼の目が既に落ち着きを取り戻しているのを見つめ、なんとか頷く。顔を覆っていた手がゆっくりと離れていく。
身をかがめ、騒音に背を向けて、歩き出した江間の背を追っているうちに、動揺している自分がひどく情けなく思えてきた。
『――止まれ』
「……」
先に立っていた江間が、ぴたりと足を止めた。その向こうには、クロスボウに似た武器の先端がこちらへと向けられている。
――シャツェランにそっくりな、あのディケセルの王子だ。
癖のある金の髪の間からのぞく青の瞳に、燃えるような憎しみを宿らせ、構えたクロスボウ越しに自分たちを睨んでいる。
『侮ったな、ヤルツィヤ』
「……」
郁より頭一つ低い身長の子供は強い目線のせいか、こちらに向いた鈍く光る矢じりの力のせいか、ひどく大きく見えた。
枯葉を踏みつぶし、アーシャル王子と呼ばれていた子供が近づいてくる。距離はもう五メートルほどしかない。
『お前たちは、ここでイェリカ・ローダによって哀れ命を落とした、ということになる――いつまでも私を思い通りにできると思うな……っ』
彼はバルドゥーバのためにディケセルを裏切ったと見せて、さらにバルドゥーバを裏切ったらしい。幼い、高い声にひどく不釣り合いな嘲りを口にしながら、さらに近づいてくる。
「……」
「……」
郁は江間と目線を交わした。
隙を誘い出さなくてはならない――日本語で話しかければ、稀人だとばれる。が、攻撃の対象からは逃れられる。ディケセル語で話しかければばれないが、攻撃の対象となる。
(どっちも嫌だ。だが、それが許される状況でもない……)
郁は緊張で乾いた唇を下で湿らせると、口を開いた。
『……裏切りの王女、トゥアンナ・ウィゼリスリ・ディケセルの消息を知りたいか?』
青い目が驚愕に見開かれた。クロスボウの照準がぶれる。
『っ、ぐっ』
江間が郁の右前方へと大きく踏み出し、体の背後に回し隠していた棒でクロスボウを下から切り払う。放たれた矢が上方の樹冠を貫いた。
葉と枝が降り注ぐ中、郁は体を低めながら前に飛び出すと、クロスボウを握る彼の腕を内側から打ち据え、鳩尾を蹴りあげた。華奢な体がくの字に仰け反り、崩れ落ちる。
「走れ」
江間に言われるまま走り出しながらも、郁は、やり過ぎた、と唇を噛む。背後で咳き込み、嘔吐する音が幼くて、罪悪感を誘われる。
『ゼイギャクさまっ』
瞬間、背後で絶叫がとどろいた。
反射で振り返れば、大トカゲに肩を噛まれ、今にも左右のバルドゥーバ兵の槍に貫かれようとしているゼイギャクの姿。
『……っ、ゼイギャクっ!』
地に膝を落として咳き込んでいた子供は、その光景を振り返るなり青ざめ、悲鳴を上げた。ひどく色濃い、絶望の色――
(……っ、あたれっ)
服の内に隠し持っていた神官から奪った短剣を、郁は大トカゲめがけて全力で投げつけた。
まっすぐ狙いに向かったそれは、ゾブっという不気味な音と共に、トカゲの目にめり込む。悲鳴をあげたトカゲはゼイギャクを放し、後ろ足で立ち上がって乗り手を振り落とした。さらに、前足と顎、尾まで使って、周囲のバルドゥーバ兵を手当たり次第に攻撃し始める。
女性の甲高い悲鳴が響く混乱のさなか、ゼイギャクと他二名のディケセル兵が、再びバルドゥーバへと攻撃に転じた。
その隙に郁と江間は再び走り出す。
「宮部、こっちだっ」
洞窟横の崖を駆け上がった江間に手を貸してもらい、郁も這い上がった。そして神官服を脱ぐと、車を落とした谷底へと投げ落とした。歩きながら下に着ていた巻頭衣を脱ぎ、バックパックの奥底に詰め込む。この格好なら万が一見つかった場合でも稀人だと言い張れる。
背後では、トカゲの咆哮とグルドザたちの雄叫び、剣戟が続いている。
「離れるぞ」
江間に手を引かれ、足早に歩き出す。だが――
「……」
騒乱の背後の森に生じた異常に、またすぐに立ちどまった。
木々がなぎ倒される音が耳をつんざく。
「っ、今度は何なんだよ……」
(枝どころじゃない……)
呻き声を漏らした江間の横で、郁はあまりの轟音に音を立ててつばを飲み込んだ。
洞窟上の崖からは、月明かりを受けた黒い樹冠の海が見渡せた。その一点で何かが蠢き、月光に時折光っている。森の木々の悲鳴はそこから生まれていた。幹ごと押し倒されていく木から、夜だというのに鳥様の生き物が雄叫びを上げて飛び立ち、遠ざかっていく。
近づいてきたそれの姿が露になった――バルドゥーバ兵の乗るトカゲの三倍はある、二本角を持つ恐竜そのものという生物。その後ろには十頭ほどの新たなトカゲと、徒歩の奴隷たちが続いていた。
それを操るのは、中世ヨーロッパのものに似た金属製の鎧を着た男だ。
「……っ」
ゼイギャクたちに殺されたバルドゥーバ兵の遺体が嫌な音と共に躊躇なく踏みつぶされていく様に我に返ると、郁は顔を大きく歪めた。