22-17.木の実と虫と秘密基地と……
降の七刻半、ディケセル王弟とバルドゥーバの稀人との会食を終え、私室で休んでいたシハラの元に、客人の訪いがあった。
『お疲れでなければ、と重々お伝えいただきたいと』
取次の主神官補、シハラの遠縁でもあるケデゥナ・リィアーレの顔には、心配が見て取れた。シハラは彼女に安心させるように微笑むと、了承を伝える。
応接室に移動する為に、上着を羽織ろうと立ち上がれば、よろけた。咄嗟にテーブルに手をつき、転倒を免れる。
「……」
甥のオルゲィから手紙を受け取って三月。体調を崩す前以上に動けるようになって、『奇跡』『コントゥシャのご加護』などと言われているのは知っていたが、さすがにそろそろ限界が来たのだろう。
深呼吸を繰り返し、不調が去るのを待って、シハラは背筋を伸ばす。そして、微笑を顔に貼り付けた。
応接室へと続く扉を開ければ、背の高い青年が長椅子から立ち上がり、『夜更けに申し訳ありません』と深々と頭を下げた。
こうして頭を下げるのは、きっと稀人、日本人の礼の表し方なのだろう。サチコも郁も、事ある毎に同じことをしていた。
『お願いがあって参りました。宮部の祖父、コトゥド・リィアーレさんに会わせていただきたい』
下げた頭を戻し、シハラへとまっすぐ向けられた青年の顔は、微妙な幼さが残るものの、ひどく整っている。
彼を一目見るなり、気に入らないと思ったことを思い出す。彼の顔に浮かぶ美しい笑顔は、他人に見せるためのもので、自らの内心を隠し、相手を操る意図がある。シハラのものと同類だった。
なのに、その美しくも怜悧な顔が、シハラの弟の孫の前でだけ事ある毎に崩れる。情けないとしか形容できない顔をしていることも多くて、シハラはすぐに最初の印象を見直したのだった。
『来るだろうと思っていたけれど、案外遅かったわねえ。殿下がアヤにちょっかいを出さないよう、見張るのに忙しかったからかしら?』
そうからかえば、青年――江間は嫌いなものを食べた子供のような表情をした。
『すみません、それでご負担をかけることになりました』
それから苦笑し、あっさりと認めてしまうあたり、本当に素直で潔い。そして、こちらを気遣う、心の根の優しい子でもある。郁が彼に惹かれるのがわかる気がした。
同行を申し出てきたケデゥナを断り、彼の希望を叶えるため、シハラは外に出た。
『背負いましょうか?』
『後ろから首を絞められるかもよ?』
手ごわいな、と言いながら顔をしかめる江間も、おそらくシハラの体調を気遣っている。
『じゃあ、お姫さま抱っこならお気に召します?』
『殿下がアヤを抱えたやり方のことかしら?』
『やな表現……』
恨めしそうな顔にシハラは笑いを零した。
『……星が零れ落ちてきそうだ』
闇に目が慣れてきた。崖の上から、夜空へと目を向けた江間が唐突に呟いた。
『向こうの世界では、夜も街の光が目に痛いぐらいだとサチコが言っていたわ』
『そのせいで星は中々。……サチコさんとは、よくお話しされましたか?』
『いいえ、年に一回、参拝しに来る時だけよ。あの子はアーシャルと共にセルに閉じ込められていて、ずっと監視されていたから』
『それだけの時間で、あれだけのことを図った?』
『ええ、いつ城の外に出る機会が来てもいいように、とアーシャルのために周到に準備していたわ。機会を待つ間にサチコが死んでしまって、ようやく来た機会があなたたちの到来』
『惑いの森に行かせたのはリカルィデ――アーシャルに時間がなかったからですね』
夜風に吹かれながら、シハラは頷く。
思春期が来れば、男子と偽れなくなる上に、既に第二王子が生まれて‟アーシャル王子”はもう用済みだった。
『よりによって惑いの森、しかもバルドゥーバが来るだろうということがわかっていて、無謀なのは分かっていたけれど、後がなかった。結果、死なせてしまった』
『と思っていたら、生きていた』
『ええ、驚いたわ。オルゲィからの手紙で知ったのよ、私たちと同じ月聖石の首飾りを持つ者がいるって。それで全部繋がったの。だから、私、あなたとアヤに頭が上がらないのよ』
『……そんなふうには見えませんでしたが』
『あらあ、私の感謝の気持ちが伝わらないなんて、よほど心が歪んでいるのではなくて?』
『ああ言えばこう言う……。宮部そっくり』
かくりと肩を落とした江間の顔は、きっと貴重なものだ。郁や彼らがひどく可愛がっている様子のリカルィデ以外の者が見ることは、ごく稀だろう。
『シ、シハラさま?』
『ご苦労さま。遅くにごめんなさい』
夜更けの訪れに驚く門番のグルドザに声をかけると、シハラは帰還の祠の階段を上がっていく。
途中息が切れるが、意地で登り切った。優しい子だから、アヤの大事な子だから、気に病ませたくない、その一心だった。
『……』
上がった先の空間は、天然の夜光に溢れていた。森を見下ろす窓から届く星明りが、帰還者たちの遺物を淡く照らしている。
江間はコトゥドの骨の前に行くと、腰に差していた「カタナ」を脇に置き、両ひざを折りたたむ奇妙な座り方をした。膝の上に置いた両手をそのまま前方に押し出し、同時に上体を傾けて、首を垂れる。静かに身を起こすと、自分の胸の前で両の手のひらを合わせ、目を閉じた。
短くない時間が流れていく。
凛として美しいその空気は、武を志す人たちのもので、何十年も前に見た末弟の姿を、シハラに思い起こさせた。
『ありがとうございました』
江間はコトゥドに向かって、再度首を垂れたのち、シハラに向かって居住まいを正すと、先ほどと同じ作法で両手をついて、礼を述べた。
まっすぐに自分を見るその瞳は、ひどく眩しい。
(ああ、そうだわ、この子はこういうところもコトゥドに似ているのだ。まっすぐで誠実で、嘘つきな自分や郁が、太刀打ちできなくなる――)
「一人で生きていきます、余裕です」という顔をしている郁が、いいように翻弄される理由が分かった気がして、シハラは苦笑する。
『戻りましょうか。っ』
ふわっと体が浮いて、シハラは目を丸くした。
『頑固なのも宮部にそっくりなので、許可を求めるのはやめることにします』
『……お姫さま抱っこだったかしら? あなたは散々妬いたと聞いたけれど、アヤは妬かない?』
『アムルゼかリカルィデ、どっちだ……』
と呻いた後、江間は拗ねたように顔を顰めた。
『妬いてくれたことなんか、一度だってないです』
『あなたは実は鈍いとリカルィデが言っていたの、本当のようねえ』
「……」
きょとんとした江間に笑いを零すと、シハラは『せめて背負ってちょうだい。これだと荷物みたいな気分になるわ』と要求した。
体はきついものの、全身に温かい感覚が広がっていて、部屋まで歩いて帰るぐらいのことはできそうな気もしている。だが、大事な弟が愛した孫が、自分を犠牲にしてもいいと思うくらい大切にしている子に背負ってもらったと、死んでコトゥドたちに自慢するのも、中々面白そうだ。
『足を痛められましたので、お連れいたします』
帰還の祠を護るグルドザに声をかけ、江間はシハラの重みをまるで感じさせない足取りで進んでいく。
『……』
あれはコトゥドが十四、ミゲィドが十八の時だった。セルの城で発熱したシハラを二人が代わる代わる負ぶって、連れ帰ってくれた。いつの間にこんなに大きく、強くなったのだろうと驚いた記憶が蘇って、ひどく懐かしい。
『ねえ、エマ、ここだけの話なんだけど、私、神さまとか信じてないのよね』
『……神官?』
『そう、神官なのに』
江間の率直な呆れ声に、シハラはコロコロと笑った。こういうところが稀人の面白さだ。
寒風が吹き付けてくるが、江間から伝わってくる体温のせいか、苦痛ではない。
『あれだけアーシャルの幸せを願ったサチコが、何も見ないまま死んでしまって、いよいよそう思って……でも、そのタイミングで、コトゥドの孫がやって来て、アーシャルを連れ出したと知った時、神さまはいないとしても、人の想いは届くのかもしれないと思った』
『あなたはもう気付いているわね、』とシハラは続ける。
『私は長くない。とっくに死んでいてもおかしくない状態だと思うのだけれど……あの子、どうしてもアヤを私に見せたかったんだわ』
艶々光る木の実、ミゲィドと一緒に取りに行った虫、領地の秘密基地、初めて買ってもらったスオッキ、習った型、近衛の採用試験に受かってもらった証書――彼は大切な物を、必ずシハラに見せに来た。誇らしそうに自分を見ていた、はしばみ色の目が鮮やかに蘇る。
『宮部は知っていますか?』
『ええ、別れは済ませたわ。泣くかと思ったのに、静かに『寂しいです』って』
『……あいつ、全部内側にしまい込んで、出さないんです』
江間の声はひどく辛そうなものだった。申し訳なくなる一方で、心に温かいものが広がっていく。
本当は黙っておこうかと思った。けれど、別れの挨拶ができない辛さを、シハラもだが、郁も知っているはずだ。
迷った挙句、結局郁に別れを告げることにしたのは、彼の存在があったからだ。
『知らせが届いたら、一緒にいてやってくれる?』
『今度は絶対に』
『……ありがとう。あなた、いい子ねえ。最初は胡散臭くてしょうがないとか、思っていたのに』
滞在中、シハラは時間の許す限り、郁といた。時々からかい半分に、江間を追い出したりもしたが、彼は拗ねるくらいで一度も怒ったりはしなかった。一緒にいられる時間が貴重なことを悟って、郁とシハラの両方を思いやってくれたからだろう。
口が悪くて『魔女』だの『性悪すぎ』だの散々言われたが、肝心なところでこの子は優しい。その癖それは口にしない。
変なところで不器用な子だ、とシハラは笑いを零した。
『胡散臭い、ねえ。シハラに言われるのだけは心外です。断固として抗議します』
『可愛くないのは変わらないわ』
そう言えば、背が細かく揺れた。どうやら笑ったらしい。
広いその背は、本ばかり読んでいたミゲィドやずっと神職にあったイァズルテではなく、やはりコトゥドをシハラに思わせる。
死んだら、姉弟三人揃って会うことができるだろうか? ミゲィドは今コトゥドと何を話しているのだろう? 『やっぱり姉さんが一番長生きした』『好きにする人だったからね』と言っていることだけは、確実な気がする。
世界は違ってしまったけれど、サチコはどうだろう? 会いたいと切に願う。アーシャルのことを伝えなくてはならないのだ。とてもかわいく笑えるようになっていた、と、彼女と一緒にいる、この子たちのことも自慢しながら――。
『出立は明日のいつ?』
彼らの出立が急遽明朝に決まったことは、シハラも聞いている。あのバルドゥーバの稀人が来なければ、あと数日はここでこの子たちを見て過ごせたのに、と、何度目か判らない恨み言を思う。
『登の四刻です。ゼイギャクさまが一緒に来てくださることになったようです』
『そう……』
まだ暗いうちに、ゼイギャクがわざわざ、と江間の背でシハラは眉根を寄せた。
『……コトゥドと何を話したか、聞いてもいいかしら?』
『ご挨拶と誓いを――もらい受けます』
やっぱり。律儀なことだ、と呆れた。だが、彼と似ているコトゥドは、きっと破顔しているだろう。
『その誓いは、変わらないのかしら――アヤがどこにいることにしても』
江間の歩みが一瞬止まった。『そこまでお見通しか……』と呻くと、彼は大きく息を吸い込み、吐き出す。
『ええ、どこにいようとも』
その答えにシハラも、コトゥドと同じ顔をした。
『そう。なら、シャツェラン殿下に近い者たちに気を付けなさい』
『本人ではなく?』
『稀人との婚姻は、多分あなたたちが考えているよりはるかに価値が高い。神格化の手段にされるわ。あなたたちはもちろん、殿下の個人的な感情など一切考慮されない事態があると思いなさい』
『大神官の台詞じゃないですね。神殿はシャツェラン殿下を望んでいるのでは?』
『だってもう死ぬんだもの。これまで自分を押し殺して、献身的に神に仕えてきたのだから、最後ぐらい可愛い身内の幸せを願っても許されるはずだわ』
『“自分を押し殺す”、“献身的”の意味を、後で調べ直すことにします。てか、さっき神を信じていないって、仰ってませんでしたっけ』
『やっぱり可愛くないわねえ、あなた』
ケラケラと笑えば、声が星空に吸い込まれるように消えていく。反比例するかのように聞こえてきた遠くの滝の音に紛れて、『シハラ、ありがとう』という小さな呟きが響いた。
『……これ、あげるわ』
江間の背の上で、シハラは上体を起こすと、自分の首周りに手をかけ、江間の目の前に、それをぶら下げた。
闇の中で、その石は青と金の光を放つ。
『いいんですか』
『アヤにはコトゥドのものがあるから』
『“八十年来の恋人”は?』
『……アヤのおしゃべりめ。そっちはいいの、『君がいなくなったら、僕の体も長くもたない気がする』ってずっと言ってるもの』
『いいですね、そういうの』
優しい声を漏らした江間の首に、そのままそれをかける。
『大切にします』
江間の頭の向こう、彼らの故郷とこの世界を繋ぐ惑いの森から、青い月が上がり始めた。