22-16.嘘と真実とその嘘
着替えることになんとか同意を取り付けて、郁は髪につけられていたコームを抜き、ベールを剥いだ。晴れ晴れと空気を吸い込む。
「それで、寺下は? お前に気付いたか? エンバには?」
郁は「見込み通り」と笑って頷いた。
「……その人の悪い顔、シハラそっくりだ」
「光栄」
「マジか」
唖然とした後、呻き声をあげた江間に、郁は声を漏らして笑う。
「寺下さん、そうかもと思ってたけど、想像以上に承認欲求が強かった。ついでにものすごく高慢になってて……シャツェランがその辺をうまく煽ってくれたおかげで、今のところ首尾よく進んでいると思う」
「私だけが宮部に気付いた、この秘密をどう利用するか――今、寺下の頭はそれでいっぱい。それゆえに判断を誤っていく……」
「そして、その誤りによって、福地の判断を狂わせる」
再確認して江間と郁は皮肉な笑いを交わす。
みな騙されているのに、私だけは宮部に気付いた、私だけは宮部が大したことがないと知っている、見下されるべき宮部がそんな有能な私より良い目にあっていいはずがない、美しい王子さまに重用されることは許されない――傲慢さに気付かない限り、彼女は信じたいものだけを真実だと信じ、この先の判断を誤っていくことになるだろう。
そして、自ら作った世界を守るために筋書きを立て、福地に嘘を吐き始める。
だが、福地の能力であれば、寺下のその嘘を見破り、“真実”を見抜くだろう――寺下が隠すその“真実”こそが、実は嘘であるにもかかわらず。
「手始めに、寺下はここに保護された“稀人らしき者”を“お前”だということにする。罪人の佐野はちゃんと処刑された、大神殿にいるのは別人だ、とバルドゥーバに報告するわけだ」
江間が話す傍ら、郁は着替え始めた。背のボタンを外そうとしたが、うまく届かない。顔をしかめれば、江間がさらっと手を貸してくれた。
平静な彼の顔を見て、赤面しそうになるのをなんとか堪える。
「一方で、寺下さんはそれが私、宮部だとは、福地にも誰にも言わない。大神殿にいると噂になっているのは、メゼルディセルでせっけんを作ったという稀人モドキのイゥローニャ人だと、バルドゥーバに、ううん、福地に伝えるだろうね。私たちの正体を知らない人間にとっては、それこそが正解なわけだし、江間に似せたエンバの存在も、きっと彼女にそう嘘を吐かせる動機になる」
「佐野とお前が別人だと認識した上での嘘の報告であれば、佐野はもう安全だ。寺下個人による暗殺の危険は残るが、バルドゥーバが公式に佐野を大神殿に要求してくることはなくなるからな。福地はいずれ嘘を見抜くだろうが、それでもしばらくは動かない……」
「猜疑心が強くかつ自分を賢いと思う人間ほど“自分だけが知っている”という状況を崩したがらない」
「その心理につけこんで寺下と福地を操る、と。その意味ではあの二人は似た者だからな」
くすっと笑った郁に、江間もにやりと笑って応じた。
「寺下はその後どうするかな」
「シャツェランがそう仕向けたというのもあるけど、陶然というか、夢見心地というか…そういう感じでシャツェランを見ていた。彼と一緒にいる私を睨み付けてきたことから考えても、私を目の敵にするのは確かだと思う。私の価値を貶めようとする……だけならまだましで、正直、内密に殺そうとしてきても、まったくおかしくない気がする」
「殺す? メゼルディセルにいるのに?」
「……寺下さん、大分変わっていた。人相も周囲の人への振る舞いも。あの様子を見たら、急いでここに来るためだけに惑いの森を無理に通って、人を散々死なせたというのも信じられる。佐野さんの処刑を寺下さんが勧めたというシャツェランの話も、多分事実だよ」
喘ぐように口を動かした後、江間は「……そこまでおかしくなってるのか」と漏らした。
この世界では、向こうの世界では考えられないほどに、人の命も人生も軽い。こっちで生きるために、それに少しずつ染まっていっていると感じることは郁にもあるが、それでも寺下の変わりようは、うすら寒いものがあった。
「となると、この後リバル村に行くのは正解だな。しばらくはメゼルに近づかないように……ってどうした? 着替えないのか?」
「……」
(いや、どうした、ではなく。出て行くなり、後ろを向くなりしてもらえないと、ローブを脱げないんだけど。脱いだら半透明の襦袢の様な下着一枚になるし)
……と口にするのも自意識過剰な気がして、郁は口をへの字に曲げた。
「ああ、そっか、見られてたら、やりにくいな」
妹がいるせいか、江間はある意味鈍くて、ある意味察しがいい。
郁は息を吐き出すと、ローブから左肩を抜いて……止まった。江間がさっきと変わらずこっちを見ている。
「気にせず続けてくれ」
含みのある目つきで笑うその顔の方が、よほどシハラに似ている。
「……と言われても、その、気になる、かな、と」
「それはよかった」
何かが噛み合っていない気がして、郁は眉を顰める。
江間が手をのばしてきて、ローブに触れた。その瞬間、びくっとしてしまう。
小さく目をみはった後、彼は意味深な目で郁を見、口角を上げた。
「っ」
するっと右肩からもローブが落ちた。慌てて胸元を両手で抑える。
「手伝ってやる」
「い、らない」
「遠慮しなくていいのに」
目の前で彼がくくっと喉の奥で笑ったことで、口を尖らせた。
「からかうな」
「――からかってない」
冗談で返されると思っていたのに真剣な声が響いた。疑問のまま江間の顔に見て、後悔する。
「急かす気はないつもりだったんだが……」
「っ」
長く、節の目立つ人差し指が唇に触れた。次いで顎を、首筋を、鎖骨を撫で、さらされた肩で止まった。動きに応じて、背筋がぞくぞくする。
「俺は宮部とそういう関係になりたいと、ずっと思ってる」
射貫くように見つめられて、息が止まった。
「……まあ、そんな顔されるだろうな、と思ってたから、返事はまたでいいけど」
江間はそんな郁を見て苦笑すると、頭に手をのせ、二回宥めるように叩いた。
「じゃあ、先に戻ってる。終わったら来いよ。さっきの件、シャツェランとも詰めよう」
さっきの空気が嘘のように爽やかに笑いながら江間が出て行って、ようやく頭が働き出した。
「……」
心臓があり得ないくらい早くなって、郁は床にへたり込む。指先までが真っ赤に染まりあがっていた。
「……やっちまった」
江間は扉に背を預けると、天井を仰いで右手で顔を覆う。
以前リカルィデに言った通り、宮部の気持ちが自分と同じになるまで待つつもりだった。警戒されたくないのもあるが、それ以上に、急いて傷つけたくなかった。
万全に網を張って、絶対に逃げられないようにして、からめとるつもりだったのに、原因は……――。
『ア、ミヤベはまだ戻らないのか?』
(……こいつだ)
江間がこっちの部屋に戻ったことに目敏く気付いて、シャツェランが声をかけてきた。
『見た目よりややこしい造りの服なので』
『……手伝ったのか?』
『そのために付き添ったわけですから』
『……』
ひどく不機嫌な目つきになったことに、本人は多分気づいていないのだろう。
『途中まででしょ? ミヤベ、そういうの、嫌がりそう』
「……」
(リカルィデ、お前は俺の味方なのか、それとも裏切る気なのか。サチコさん好き同士の連帯感はそれほどに強いのか……?)
思わず半眼を向ければ、彼女は目を泳がせながら、『……ヤバイ、やっちゃった』と小声でつぶやいた。
『なるほど“まだ”なわけだ』
「……」
思わず顔をしかめれば、ふふんという顔をシャツェランがみせる。その幼さに毒気を抜かれた。
シャツェラン・ディケセルは、悪い奴じゃない。でも色々気に入らない。
さっきだってそうだ。当たり前のような顔で郁を抱えて部屋に入ってきて、それが気に入らなくて奪い返せば、その瞬間ひどく剣呑な目で睨んできた。
多分彼は自身の思いに気付いていない――。
『それで、寺下たちはここに滞在することに?』
『だそうだ。厚かましい』
ため息をついて話題を変えれば、案の定、シャツェランはあっさりと乗ってきた。
このまま気付かないでほしい。
だが、いつか気付くことがあり得るなら……?
なら、その前に、と卑怯を承知で思ってしまう。
「……」
シャツェランと話しながら、江間はまだ出てこない、壁の向こうの宮部へと視線を向けた。