22-14.煽惑
『随分と扱いやすそうなお嬢さんね』
横にいるシハラがくつりと笑いを零した。
『正直意外です。もう少し煽らなくては乗ってこないと』
『権力に触れて、壊れる人間はいっぱいいるわ。ほら、今にも飛び掛かってきそうな顔で、あなたを見ているわよ』
シハラに促されて郁は立ち止まり、寺下にもう一度向き直った。
『……私に仰っているのでしょうか? そうであれば、大変失礼いたしました』
ベール越しに真正面から寺下を見る。彼女の顔面が蒼白になっているのを確認して、郁は微笑んだ。口元だけは見えているはず。
≪いいか、笑顔は武器になる。特に口角と下瞼だ。思い通りに動かせるようにしておけ≫
江間がリカルィデを捕まえて、鏡の前で練習させていた時に、「お前もやれ。無表情もいいけど、使える手は多い方がいいだろ」と郁もやらされたことを思い出して、一瞬素で笑ってしまった。
「だって俺、顔いいもん。損することもあるんだから、使える時は使う」と言い切る江間は何気にあざとく、たくましい。
「っ、やっぱり宮部さんじゃないっ、顔見せて、日本語で話しなさいよっ」
『……恐れ入ります。なんと仰っているのか、教えていただけないでしょうか?』
郁は困惑を声に載せて、彼女の従者に問いかける。
『あ、その、テ、テラシタさま』
『っ、わまきえなさいっ、私に、さ、さしずできる立場で、ないっ』
(それを言うなら『わきまえなさい』じゃないかな……)
誰も指摘しないのか、と郁が従者たちを見た瞬間、寺下は手にしていた笏のようなものを彼らに投げつけた。そのうちの一人の額にそれが命中し、鈍い音がした。
「……」
(あれは人に投げていいものでは、絶対にないはず……)
重く、尖ったそれに傷つけられた額から血が噴き出し、横の同僚が慌てて巻頭衣の袖で抑える。
『っ、このしんせい、な、場所を、血でよごす、など、ゆるされるないっ。さっさと下がれ、なさいっ』
呆気にとられていた郁は、寺下の言葉に我を取り戻すと、慌てて怪我人に近寄った。懐に忍ばせていた好水布のハンドタオルをそっと額に押し当てる。
『ごめんなさい。大丈夫ですか?』
私のせいだ、とすぐに赤く染まっていく布を見つめる。
「偽善者ぶってっ、その布剥がして、今正体暴いてやるからっ」
ベールの下で眉をひそめながら立ち上がると、ずかずかと近寄ってきた寺下からさっと距離をとった。ムカつきと困惑を抑えつけ、軽くお辞儀した。
『テラシタさまと仰いましたか。僭越ながら、何らかのご用命がおありと拝察いたします。大神官長と殿下からお許しをいただいてからのことになりますが、善処いたしますので、落ち着いてお話しいただけますか?』
「っ、だからっ、一体なんのつもりなのっ、あなた、森で死んだんじゃなかったの!? 福地君だって気にかけていたのにっ」
寺下と郁の身長差は十センチほど。彼女は鼻の上に皺を寄せて郁を睨み上げ、詰め寄ってくる。
寺下のこの類の顔を見たことはなかった、と少し新鮮な気持ちになりながら、バルドゥーバの従者たちを見れば、稀人の言葉で郁を怒鳴りつける寺下への非難と不審が見て取れた。
寺下がここまで他人を軽んじるようになっているとは思わなかったが、それ以外はほぼ思惑通りに事が運んでいる。
郁の操るディケセル語に訛りはほぼないし、使う語彙も一般のディケセル人と同じか、少し多いぐらいのはずだ。来て一年にならない稀人のものではないと誰しもが思うだろう。
その郁に稀人の言葉で何かをまくし立てる光景は異様としか言いようがないはずだ。それは“テラシタさま”への疑いにつながる。
(これで寺下さんがバルドゥーバに戻って何を言っても、信憑性が一段落ちることになる……)
寺下の変化に対する戸惑いを抑えてシャツェランを見れば、彼は一瞬隠さない笑いを零した。
『森で死んだとはどういうことかな?』
郁の手を取って引き寄せながら、シャツェランが寺下との間に身を割り入れた。彼が日本語を解すということを、寺下はようやく思い出したらしい。一気に蒼褪めた。
『っ、いえ、その、その者は』
『私の従者だ。イゥローニャ族ゆえ、バルドゥーバには不快に思う者もいるかもしれないが――』
そう言いながら、冷たい目をちらりとバルドゥーバ人たちに向けた。郁は寺下の反応をうかがうが、彼女は「ゆーろーにゃ?」と苛つきを露に呟いただけ。
(……イゥローニャ族自体知らない)
バルドゥーバの何者かが、メゼルディセルの“自称イゥローニャ人”である郁と江間を探っている。せっけんやタオル、疫病対策など、郁たちの活動がそのきっかけなのであれば、気付いたのは稀人のどちらかのはずだ。だが、寺下はイゥローニャを知らない。だとすれば、探りをかけてきているのは福地だ。
もう一つ、福地を中心とするグループに彼女は多分属していないし、福地から個人的に彼女に情報がいっているということもない。つまり、彼と寺下がやり取りしているとしても、おそらく彼女からの一方的なもの。
(それでこそ福地だ)
郁は小さく唇の端を吊り上げた。江間同様、疑い深い彼をだますのは容易ではない。そのために彼女、寺下が要る――。
『惑いの森を抜けての急ぎ旅だったと聞いた。奴隷たちも含めて多くの者が死んだと。さぞかし疲れているだろう、少し休んでは? あなたが辛そうなのは、私も辛い』
郁を背後に庇いつつ、柔らかく優しく、シャツェランが宥めるように寺下に話しかける。
「私はあなたに、ディケセルに、来てほしかった。そうすれば、そんな無茶はさせない、のに…」
「……」
寺下が信じられないものを見る目つきで、日本語で囁いたシャツェランを見つめる。
そして顔を上気させながらも顔を背け、『み、身に多い、言葉、お言葉です』と澄まして答えた。
(身に余ると言いたいのだろうけど……)
と郁は呆れの息を吐き出した。
異世界にきてしまったものの、有能さゆえに活躍し認められる。その結果、美形の隣国の王子に求められる――多分そんなストーリーが彼女の頭の中で生まれている。
ベールの陰に隠れて、これぞ王道の異世界転移だ、と皮肉に笑う郁へと、寺下が自尊心と自信に溢れた顔を向けてきた。
自慢げに顎をつき上げ、鼻を鳴らすのを見て、「シャツェラン、よくやった」と喝采を送りたくなる。
さて、この上どうすれば、彼女のこれからの動きが見通しやすくなるだろう?
彼女をこちらの意図通りに躍らせて、それで福地を間接的に操る、そのために必要なことはなんだ……?
(彼女が価値を見出しているものは……)
郁はシャツェランの影に隠れ、目を眇める。シハラと視線を交わせば、人の悪い笑みを返された。
『……殿下、申し訳ないのですが、気分がすぐれなくて……退出しても?』
『っ、大丈夫か……っ』
後ろからシャツェランの袖を引き、弱弱しく言ってみれば、思ったより強い反応が返ってきた。引きそうになったが、なんとか踏みとどまる。
『早く言え、お前はいつも平気なふりをするから、わかりにくい』
眉根を寄せて不機嫌そうな顔をしながら、シャツェランが身をかがめた。え?と思う間に膝が浮き、倒れると思った瞬間に背がすくい上げられた。
『――ちゃんと捕まっていろ』
生理的な反射で抗おうとした瞬間、真剣に心配する声と共にぎゅっと抱きしめられ、頭が真っ白になった。
『テラシタ、失礼する。大神官長、大神官、申し訳ないが、祈祷はまた改めて』
ほやほやした顔の大神官長が了承と郁への労りを告げ、横のシハラがにやっと性質の悪い笑みを見せた。
「っ」
シャツェランが踵を返した瞬間、寺下から響いた歯ぎしりに、郁は我に返った。そして、憤怒を露にした形相と赤い目に確信する。
(ああ、やっぱりだ。彼女は他人に、特に自分より上の立場だったり、好意を寄せていたりする存在に、認められたくて仕方がない。おそらく佐野さんが彼女にやられたのも同じ理由――)
「……」
シャツェランが歩き出して、ベールが揺れた。広がった隙間から、郁はシャツェランに抱えられたまま、彼の肩越しに彼女と目線を合わせる。
そして、『餌』のシャツェランへと心持ち頭を寄せ、優越感が見えるように寺下へと挑発的に微笑みかけた。