22-13.偽計
『同じ世界から、来るた、友を、心配する、会いたい気持ちを、叶いてほしいと、言っています』
石柱の立ち並ぶ、天井の高い空間の奥から響いてくるのは、確かに覚えのある寺下の声だった。一瞬感慨に浸るも、向こうにいる時とは違って高圧的な響きがあることに気付いて、郁は目を眇めた。
『繰り返し友と仰るが、はて、言葉をお間違えでは? 先ほどの話では、お探しの相手は死刑に処されて当然の罪を犯した悪人という話でしたが、生憎とここにそのような罪深き者はおりません』
応じる大神官長の声は、穏やかで落ち着いているが、内容は明白な拒絶だった。
(佐野さんを可愛がっていたし、リカルィデにも親切だったそうだから、シハラにいいようにされている苦労人かと思っていたのに……)
と郁は目を瞬かせる。
『処刑した、は、私じゃ、ありません』
『なるほど。あなたは処刑の地に連れ戻そうとしているだけでしたな。これは失礼――随分な“友”でいらっしゃる』
(……そうだな、シハラの言いなりになる人であるわけがない)
≪あの人が私の“元婚約者”よ。……ほんと、どうしようもない人でしょ?≫
――でなきゃ、シハラがあんなふうに笑うはずがないのだから。
大神官長とはもう八十年近い付き合いだ、とシハラが話してくれた時の顔に、祖父についてのろけていた祖母を重ねて、郁は口元に笑みを浮かべた。
祖父が向こうに連れていかれたことで、彼女は人生を狂わされ、それゆえ不幸になったのだと思っていた。だが、そうじゃなかったのかもしれない、と思うことができた。
『私は、稀人です。バルドゥーバ国の使いです。宰相様にも、ちょうよされています。その意味、考えになって』
情に訴えたが、底が浅すぎて鼻であしらわれた寺下は、作戦を威圧に変えたらしい。
居丈高で、陶酔が入っている寺下の様子にだろう、郁の横にいるエンバが眉を顰めた。
「……」
郁は向こうの世界の彼女が必要以上にへりくだり、他人の顔色をうかがっていたことを思い出す。
集団で中心になれない人間は、当然多い。そういう時、中心の人が作る多数派に迎合する人は珍しくないし、身を守るための一つの手段として妥当だと思うが、寺下の特徴はそこに入れない少数派の反応や顔色を毎回律儀に確認することだった。
良心が咎めてのことなのかと思っていたが、ある時違うと気付いた。彼女はやられている側が、怒ったり怯えたり悲しんだりすると、隠しきれないとでもいうような笑みをこぼす。
彼女は多数派に乗れない人を見下したがっている、だから、その人がみじめな反応をするのが楽しくて仕方がないのだ、と悟ってから、郁は彼女が苦手だ。散々揉めた菊田以上に。
(なるほど、彼女は自分自身が中心に近づくと、こういうふうになるのか)
妙に納得しながら、郁はため息をついた。
『ひょっとして、重用されている、と仰りたいのかしら? なんにせよ宰相さまによろしくお伝えくださいませ。ついでに、うちから日本語話者のディケセル語講師を派遣しましょうか? とも言い添えてくださる? 今のご様子を拝見するに、寺下さまには特にお役に立てるのではないかしら』
『……またそんなふうに人の神経を逆撫でする……』
『さすがシハラだ』
大伯母であるシハラの鈴を転がすような笑い声にアムルゼが呻き声をあげ、シャツェランがくつりと笑った。郁も苦笑するしかない。明らかにからかっている。
寺下のディケセル語は佐野より拙い。いずれにせよ二人とも同じ時期に来た江間とは、比較にならない。母国語とディケセル語の両方ができるリカルィデと郁の存在もあるのだろうが、一番は江間本人の能力だろう。
彼が敵に回らなくて本当によかった、と郁は唇の右端を釣り上げる。
江間をだますのは、郁の能力ではかなり難しいだろう。だが――寺下なら?
『――頃合いだな。行くぞ』
ヒステリックになった寺下の声を背景にシャツェランが言い、主神官が扉を開く。そして、大神官へと訪いを告げた。
『ディケセル国シャツェラン殿下、ご来訪です』
郁は上げていたベールを顔にかけると、少し緊張した顔のエンバが差し出してきた右手に左手を置いた。そして、シャツェランとアムルゼに続いて、彼と共に歩き出す。
『っ、シャ、シャツェラン殿下……』
『テラシタ、昨年暑終の期以来ですね』
『え、ええ、あの、覚えてくださって』
『当たり前です。忘れようはずがありません』
きっといつものように「王子さま」な顔で微笑んでいるのだろう、悪質な、と郁はベールの下から白い眼を前方に向ける。
シャツェランの背の向こうに見える寺下の顔は、既に真っ赤で声も上ずっている。色々な意味で哀れになるが、シャツェランの中身を知らなければ、仕方がないことなのかもしれない。寺下の従者のバルドゥーバのグルドザも、呆けたようにシャツェランに見入っているぐらいだ。彼の詐欺のような見た目は、江間といい勝負だ。
『あの、殿下も、お祈り、ではなく、ご、きとう、に?』
『ええ、新年の礼拝を兼ねて。申し訳ない、少し早かったようだ』
『い、いえ、め、めっそ、も、ありません』
シャツェランの視線が、あからさまに背後の郁に向けられる。自然その視線を寺下が追った。
そして――
「……」
興奮していた顔に、疑念が乗った。
『あなたはこちらにおいでなさい。殿下、ご許可を』
『許す。エンバ、お前は下がっていい』
シハラとシャツェランの声にまずエンバが動いた。握っていた郁の手を恭しく掲げ、膝をついて跪礼をとる。
寺下の目の焦点がエンバに合わさったことを確認すると、彼は立ち上がり、歩み寄ってきたシャツェランへと郁の手を差し出した。そして、シャツェランに略礼をとり、退出していく。
シャツェランは彼が消えるのを確認した後、郁を前方にいるシハラへと誘う。その姿を寺下から隠す意図があるかのように、アムルゼが体を移動した。
歩みに合わせてベールを揺らし、横顔だけをちらりと覗かせる。
「っ」
寺下が息を飲んだのを確認すると、郁はさりげなくベールで顔を覆い直した。驚愕を露にした彼女は、食いつきでもするかのように身を乗り出し、郁を見ている。
『――しばらく待っていてくれ』
『は、い……』
シハラの前まで行った際のシャツェランの台詞は、打ち合せ通りだ。が、その後、彼は郁をじっと見つめた後、柔らかく微笑むと、握った郁の手を引き寄せて甲に唇を落とした。
「……」
殊更にゆっくりと触れ、ゆっくりと離れていく唇――
一瞬頭が真っ白になった郁だったが、彼の体の斜め向こうに見える寺下の顔が、蒼くなった後一気に赤くなったことに気付いて、納得した。
今、彼女は顔を歪め、郁の頭の先からつま先までを不躾に眺めまわしている。その目に混ざっているのは、嫉妬とも憎悪ともつかない暗い感情だ。背筋がぞくぞくする。
『テラシタ、失礼した』
『……シャツェラン殿下、あの方は?』
『私の従者だ。私の訪問に先立って、こちらに遣わしていたのだが、なんにせよテラシタが気にかけるような者ではない』
警戒を露に、シャツェランが郁を隠そうとする。すればするほど、寺下の猜疑心と暗い感情が強まる。
「……」
郁は小首を傾げつつ、寺下へと向き直った。
作法は違うが、基本は向こうもこちらも同じだ。祖父母に教えられたように、つむじを上に引っ張られている感覚で立ち、顎は引く。
その態勢から、こちらふうにローブの脇を摘まみ、腕をしならせて裾が美しく踊るように曲線を描きつつ、左脇へと回す。そして、膝を落とし、上半身をかがめる。
女性用の跪礼を終えて無言のまま立ち上がると、郁はシハラに伴われて足を踏み出した。
顔面を覆うベールが、重ね合わせた場所で二つに割れる。
「……」
その間から、郁は横目で寺下へと微笑みかけた。流し見て他者を蠱惑するような笑い方は、江間のものだ。もちろん彼ほどうまくやれるわけではないが……。
「……っ」
寺下の薄い目が皿のように見開かれたのを見て、郁は内心でほくそ笑む。
「待ちなさいっ」
――命令形だ。日本語なのに。
なんとなく見下されているのだろうとは思っていたが、さすがにこんなに露骨にされたことはなかった。バルドゥーバで過ごすうちに、上から目線が染みついてしまったのだろうか、と思いながら、郁は無視して歩く。
「っ、私が待てと言っているのっ、聞こえないのっ、宮部っ」