22-12.脅威
大神殿で最も奥深く、高い場所に位置する聖山の間。二日後、そこにほど近い小部屋で、郁はシャツェランと二人、“稀人テラシタ”への大神殿長の祈祷が終わるのを待っている。
部屋の前では、アムルゼと神殿の日本語話者の一人、エンバという江間によく似た風貌の青年が待機してくれている。
シャツェランの従者であるアムルゼはともかく、エンバは江間の目くらましの役割を担うのだそうだ。この先の展開によっては、江間の代わりに狙われる可能性が出てくるかもしれない。そう危惧し、止めた郁と江間に、彼は『稀人であらせられるフュバル様の御為であれば』と言い切った。
彼は今回の芝居の目的を、『フュバルことサノを守るため』としか聞かされていないそうだ。役目も『稀人疑いをかけられているメゼルのイゥローニャ人のふりをする』と言われているだけで、その理由も郁たちの本当の正体も知らない。
それなのに、彼はさっきも『私も私の役目をまっとういたします。よろしくお願いいたします、ミヤベさま』とか言って、頭を下げてきた。
稀人への崇拝というか信仰というか、なんせ得体のしれない何かを見せられた気がして、ひどく気が重くなっている。
「……」
吐いたため息に、郁の顔を覆うベールが揺れた。
メイクは計画通り佐野に頼み、身につけているのは神殿が急ぎ用意した衣だ。
ここの神官たちが身につけているローブは、男性は腰、女性は胸の下で絞ったチュニック風のもので、足首ほどの裾丈はゆったりとしている。
郁が受け取ったものも似たような感じだったが、後ろ裾が彼らのものより長く、床に引きずっている。使われているのは半透明の糸で織ったコーカ生地で、感触は向こうの絹に似ている。薄いその生地を何枚も重ねて作られた衣装は、白っぽく見えながら、光に乱反射して様々な色に輝く、一見して高価なものだった。
頭の周囲は、薄手のコーカ生地に所々銀糸で刺繍を施したベールで覆い、金細工のコームで髪に留めて、顔を隠すことになっている。
シハラに借りた、月聖石の首飾りやらイヤリングやらで、あちこちが重い。
(煩わしい)
郁はもう一度ため息をつき、雑な仕草でベールを上にあげた。
別室で支度をしていた郁と一緒にいた江間は、準備が進むにつれ、珍しいまでに不機嫌になっていった。
決定打は佐野が「本当にウェディングドレス。エンパイアラインにベール、素敵…」と呟いたことだったと思う。勉強熱心なリカルィデが「ウェディングドレスって何?」とこっそり江間に聞いたのも、多分マイナスに働いていた。
その後、彼は迎えにやってきたシャツェランをひどく冷えた目で見、何か話しかけていたが……。
(何を話していたんだろう。妙に静かだけど)
先ほどから珍しく大人しいシャツェランに目を向ける。青い目と目が合った瞬間、露骨に逸らされた。ぼそっと呟く。
『……まあまあだ』
『どうも』
美しいのは髪だけと面と向かって言い切ったやつだ。彼の精一杯の褒め言葉なのだろう、きっと。郁は肩を竦めつつ、微妙な褒め言葉に微妙な礼を返した。
『褒めているんだ』
『知っている。気に入らないなら、ありがとう、あたりでどう?』
『……その可愛げのない反応、なんとかならないのか?』
『ならない。というか、中も外も可愛くないと知っているんだから、この手の話題にそもそも触れるな』
そうため息交じりに言えば、シャツェランが怒りを顔に載せた。途端にイラっとした。
地味だの、髪しか取り柄がないだのずっと言われ続けてきた挙句、最後には佳乃と比較して、散々貶されたことを思い出し、郁も睨み返す。
『っ、エマには……っ』
『? 江間?』
『…………何でもない』
激昂しかけていたはずのシャツェランがいきなり平静に戻って、郁は目を丸くした。
『シャツェラン?』
『……』
『いきなりどうした……?』
明らかにおかしいと思って、おそるおそる問えば、じろっと青い目に睨まれた。椅子の上に踵をあげて両腕を折り曲げた足に回すと、そこに顔を埋める。ひどく子供っぽい仕草に、郁は顔を引きつらせる。
『その、大丈夫、か?』
そう言った瞬間、記憶に重なった。
(ああ、彼はいつも一生懸命で、よく疲れて、こんな風になっていた。野心に見合うよう、努力を人知れず続けて……)
「……」
理由はわからない。だが、色々あるのかもしれない。
口をへの字に曲げながら、郁は対面から、彼の右横に移動する。
髪の色も、見えるつむじの巻き方も全く一緒だ。けれど……大きくなった。抱え込んだ足、膝から踵までがひどく長い。
彼の顔を見ないようにして、肩が微かに触れる距離に無言で座った。昔と違って、触れる場所からは、熱が伝わってくる。
『……アヤ』
どれぐらい無言でいたのだろう。唐突に名を呼ばれて、郁は長々と息を吐き出した。
(なるほど、自分のそれまでの態度には触れずに、別の話題を出せというあれだ、相変わらずわがままな……)
『リカルィデの件、あらためて、本当にありがとう』
『別にお前のためじゃないと言った』
『素性の話だけじゃない。サチコさんを覚えていてくれたことや、その話をしてくれたことを含めてのことなんだ。これまで彼女のことを話す時、ただただ悲しそうだったのに、ここのところ笑顔が混じるようになった』
『……イゥローニャ族の話を持ち出したのは、彼女か?』
『ああ。あんな知識、私にあるはずがない』
『この国でもあそこまで知っているのは、数人いるかいないかだ。一体どんな育ち方をしたんだ?』
聞かれて一瞬答えに詰まった。
『……教師も世話人も日々変わって、他人との会話も極端に制限されていて、やれることが王宮の蔵書庫で本を読むことだけだったって。応接使に選ばれるまで、城の外に出たこともほぼなかったみたいだ』
『そんな生活をしていたのか?』
シャツェランは、信じられないものを見る目つきで郁を見た。
彼は陽の光の下を歩いてきた人間だ。関わりのない、ずっと日陰に置かれてきたリカルィデに目が向くはずもない。彼は腹違いの年の離れた兄の“息子”に、ただ無関心だっただけで、それも王族なら普通のことなのだろう。
でも、小さなリカルィデが書庫でひとりぼっちで本をめくっている姿や、サチコさんが死んで本当に一人になった時の彼女の気持ち、そして、その彼女を残して死んでいったサチコさんの気持ちを想像すると、責めたくなってしまう。
シャツェランには珍しい沈鬱な表情を見てなんとか非難を飲み込むと、郁は言葉を続けた。
『そうして得た知識をうまく使う方法を、サチコさんが教え込んだ』
会ったことはないが、ヨコテサチコという人はとんでもなく頭のいい、そして愛情深い人だったのだろう。不自由な環境にありながら、生きる知恵と力をリカルィデに授けると同時に、彼女の解放を目指して、頭一つでディケセルとバルドゥーバの二か国を騙しにかかった。そして、成功させた。
――ねえ、シャツェラン、帰る方法を知っているの? 知っていて、サチコさんを帰さなかったの……?
「……」
目の前の幼馴染に、そう尋ねようとして、でもその顔を見ていたら、なぜかできなくて、結局郁は口を閉じる。
『……稀人は恐ろしいな』
小さく聞こえてきたシャツェランらしからぬ言葉に、少し驚く。
『江間も怖い?』
『怖くない。と言いたいところだが、やっぱり何かが違う。恐ろしいと思う瞬間もある』
『仲よさそうなのに』
『まあな。あいつはいい奴だ。馬鹿だと思うことも多いが』
『まったく同じことを江間も言っている』
そう笑えば、『あいつめ』と言いながら、シャツェランも微かに笑ったようだ。振動が肩から伝わってくる。
『……お前も、だ。基本は怖くないが、怖いと思うことがある』
『私も?』
ものすごく意外な気がした。十年前も再会してからも、郁を怖がるような殊勝なそぶりや遠慮を彼が見せたことはない。
『ああ……こんなはずじゃない、ということがしょっちゅう起きる』
振り向けば、いつの間にかシャツェランがこちらを見ていて、目が合った。青い目もその距離も、昔と同じだ。けれど、その目に見たことのない色が浮かんでいる気がして、心臓がどくりと音を立てた。
『殿下、そろそろよろしいですか? ミヤベも』
扉越しにアムルゼの密やかな声が響いた。