22-11.“死者”の扱い
『似合ってる』
「……っ」
いつの間にか近くに来ていた江間が、ぼそっと呟いた。
無表情を保とうとして成功するのに、顔に血が集まってくるのを止められない。郁はさりげなく顔を伏せる。
『そうでしょう? 私の故郷の、結婚の服、そんな感じの、ありました』
『――本当に』
「っ」
リカルィデに構う傍らに話しかけてきた佐野に、江間が視線を郁に向けたまま答えた。無表情でいることにも失敗して、郁は眉根を寄せる。
小さく笑う音がして、次の瞬間全身を包み込まれた。
「……俺以外の人間に見せるの、本気で嫌だ」
耳元で小さく小さく囁かれて息を止めた。顎に手がかかって、上へ持ち上げようとするのに、全力で抗う。
『あきらめろ』
面白がるような声と共に、下から吐息が近づいてくる。
『ひと、が、いる……』
『だから?』
(リカルィデだけじゃない、佐野がいる。記憶が戻ったら彼女がどう思うと――)
「……」
そう思うのに、江間は郁の抵抗をものともしない。結局上を向かされ、唇に江間が触れてしまう。
離れていく彼を睨んだのに、余裕の顔で笑い返してくるところが本当に嫌いだ。
「……らぶらぶ」
『「らぶらぶ」って何?』
『ああいう感じのこと』
『イチャイチャする?』
『ごめんなさい、『いちゃいちゃ』がわからないわ』
『イチャイチャは』
『――いちいち解説しなくていい』
再度開いた扉の向こうから、リカルィデと佐野の会話を遮ったのは、シャツェランだった。
「……」
郁は反射で眉根を寄せる。目を眇めた江間がその郁の後頭部をとらえ、自分の胸へと押し付けた。
『女、性……』
『……アムルゼ、お前、あれだけ一緒にいて、気付いてなかったのかよ』
『えっ、兵士団長はご存知だったのですか? いや、だって父も一言も……』
アムルゼとシドアードの声もする。江間に隠れながら、さすがアムルゼとオルゲィ、やはりおじいさまに似ている、と考えているこれは間違いなく現実逃避だろう。
『……化粧が落ちる』
『本番は二日後。問題ないかと』
『出来栄えを確認しに来た。私の隣に立つのに不足があっては困る』
『隣じゃなくて、後ろでは? 正確にお願いします』
にこにこと笑い合う江間とシャツェランに、リカルィデがため息をついた。
蒼褪めなくなってきたあたり、大分慣れてきたらしい。だが一番は、シャツェランが彼女を『リカルィデだ』と言い切ったことが理由だと思う。
そう、シャツェランは根っからの悪人というわけではない。むしろいい奴で紳士だ――郁以外には。
『せっかくなので、殿下にも、見ていただきたいです』
にっこりと無邪気に笑った佐野に江間が怯んだ瞬間、シャツェランは郁の二の腕を取り、引っ張った。
『……』
咄嗟に顔を背けたのに、シャツェランが無言で凝視してきているのがわかって、郁は片頬を吊り上げる。
『……まあ、そう、だな。その、思ったより悪くはな、いっ』
『申し訳ございません、足が滑りました。なにぶん着慣れないもので』
脛を蹴りあげたつもりだったのに、残念ながら微妙に逸れてしまった。期待よりダメージが少なかっただろうことに、郁は内心で舌打ちする。
『っ、前もそう言って手を滑らせていただろうが……!』
『重ねてお詫び申し上げます。反省を示すためにグルドザたちに混ぜてもらい、訓練することにします。今度こそ正確に急所を仕留められるように……失礼しました、適切に体を動かせるように』
『っ、お前は見た目云々以前に、その性格が問題だっ』
『あ、あのお怒りにならないでください』
間に割って入ってきた佐野はその大きな目を潤ませ、シャツェランを見上げた。郁より十五センチほど低い、彼女の小柄さもあって、郁もシャツェランも毒気を抜かれる。
『ごめんなさい、私が、もう少し、お気に召すよう、できればよかった、です……。流行とか、あるでしょうし』
『いや、フュバルを責めているわけでは決してない』
『ですが……』
(つまりは素材の問題です――)
顔を微妙に引きつらせつつも王子然とした振る舞いで佐野のフォローをするシャツェランと、それでますます落ち込んでいく佐野を見ながら脱力すれば、江間に引きずられ、二人から引き離された。
「あいつ、本気で馬鹿かも」
「?」
「こっちの話」
それから江間は、片眉をひそめて顔を寄せてきた。
「あー、と、一応言っておくと……その、俺の方は、全部ちゃんと本音、だからな?」
聞こえるか聞こえないか、微妙な音量で届いた言葉に、郁は思わず江間を見上げた。
彼は瞬時に顔を背ける。が、耳が赤い。
(俺の方はって、あれだろうか、似合うとか見せたくないとか……)
「江間って自分や葉月さんの顔を見過ぎて、審美眼が狂ってたり……」
「……しねえよ。というか、お前な……」
江間が肩を落とした隙に、郁は早口に「ありがとう」と言う。そして、リカルィデへとそそくさと歩み寄った。多分自分の顔も赤くなっている。
『私もミヤベ、すごく綺麗だと思う。嘘じゃないからね』
『……どうしてこんなにかわいいんだろう』
『疑ったら怒るよ?』と口を尖らせるリカルィデこそ、この世で一番かわいい。何の疑いもためらいもなく、ただ好きと返せる相手がいるというのが、心底幸せだ。
≪私の宝物。大好きよ、郁≫
思わずぎゅうっと抱きしめたら、ふと祖母の声が響いた。
ちょうどリカルィデぐらいの時期だった。抱きしめられるのが恥ずかしくなって、仏頂面をして見せていたけれど、嬉しかった。
祖母はそれからすぐに体調を崩すようになってしまって、抱きしめてもらうことがなくなって、高校生の時には亡くなってしまった。不承不承みたいな態度を取らなければよかったと心底思う。
『可愛くない! 子ども扱いするな!』
『可愛い。子供じゃないけど可愛いし、大好き。あと、それとは別にお願い』
というわけで、嫌がられても放さずに思いの丈を伝え切ると、別件をささやいた。
『リカルィデ、フュバルを言いくるめて、あの笛を見せてもらって。他の人に内緒で』
『……わかった』
多分あの笛には送り主の名が書いてある。シャツェランには佐野をバルドゥーバに戻すつもりはない。だから、彼女が無意識に恋しがっている、女王の従弟の名を彼女に告げることはしないだろう。
人が寄ってくる気配に、郁はリカルィデを放す。
『そういう格好してると、どっからどう見ても女だなあ。男の格好してる時はちゃんと男に見えるのに。お前、本当に面白いな』
『化粧のせいかと。兵士団長もなさってみては』
しれっと言い放つ郁を聞き終えることなく、リカルィデがふき出した。
その彼女を小突くと、二メートル近い身長のシドアードは『俺が答えるまでもなく、こいつの反応が『無理』って言ってるだろ』と半眼で答えた。
『……本当に女の子だ。ごめん、気付かなくて』
複雑な顔で落ち込みを見せるアムルゼに、郁は『チシュアはかなり早いうちに気付いていたのに』とからかいを口にする。
『えっ、本当かい? だって、そんなこと一言も』
『だってチシュアだもん』
『……だね』
アムルゼの妹である彼女と親友と呼び合う仲になったリカルィデに断言されて、アムルゼはかくりと肩を落とした。
それから彼は『この間もチシュアがエナシャと……ってこんなことを話しに来たんじゃない』と気を取り直した。
『ミヤベ、バルドゥーバからの使者への対応を確認したいから、後で大神官のところに来てくれるかい?』
『使者の到着は?』
『惑いの森を抜けてくる気らしいから、全滅しなければ、多分予定通り明後日かな』
『全滅……迂回すれば安全だけど、余分に八日ほどかかるんでしたか』
『……よほど早く確認したいらしいね』
そう言ってアムルゼは、シャツェランと話すフュバルこと佐野を同情を含んだ目で見た。
『連れ戻す気なんでしょうか』
『向こうでは死んだことになっているはずだから……』
殺す気だろう、という続きを飲み込み、アムルゼは不快そうに眉根を寄せた。
(やはりそうか……)
郁も嫌気を表に出す。
死んだことになっている佐野を、その通りに殺そうとするバルドゥーバと寺下達。
かたや、死んだことになっているアーシャルことリカルィデを、それを利用してそのまま生かそうとするシャツェラン。
郁は美しい微笑を浮かべて、佐野に応対している幼馴染の顔を見る。
個人的には相変わらず色々引っかかるが、彼が上に立つ方が人々はきっと幸せになる。
昔からだ、傲慢な一方で、彼は上に立つ者としての責任をはっきり自覚していた。
シャツェランが郁の妹の言葉――郁の祖父のコトゥド・リィアーレがトゥアンナ王女をさらったという話を信じて彼を憎んだのは、同じ王族たるトゥアンナがその責務を放棄するなど、到底信じられなかったからだろう。彼からすればあり得ない選択だからだ。
(優先すべきは江間とリカルィデの安全、そして、彼らを向こうに渡すこと。次に、それまでの間、この国の人たちのためにできることをすること――多分シャツェランを助けることはその近道になる……)
――もし、そう言ったら江間はなんと言うだろう?
「……」
彼へと視線を向けると、どこか楽しげに見える笑いが返ってくる。
釣られて笑って……あの大双月の晩、惑いの森で彼が「望んでくれ」と言ってくれたことに、改めて感謝したくなった。