2-6.誓約
バルドゥーバから正式に暗殺の指令が出たらしい、ディケセル王子アーシャルを追うことになり、郁たちはコクラミの洞窟へと引き返している。
青の月は真上に輝き、少し離れた場所にある黄の月には細長い雲がかかった。その薄雲が月光を散らし、空全体をぼんやりと照らし出す。対照的に明るさの落ちた地上では、二人が落ち葉を踏みしめる音だけが響いていた。
だが、耳をすませば、背後から巨大な爬虫類もどきと裸足の男たちの集団が後をつけてくる音が聞こえるはずだ。
ゼイギャクの名声はかなりものらしい。バルドゥーバ兵のリーダーのみならず、誰もが彼と真正面から相対することに怯んだ。おかげで油断を誘うためという名目で、バルドゥーバ兵を後方に離すことができているのだが……。
「……説明してもらおうか」
バルドゥーバ一行とゼミ仲間の姿が木立の向こうに完全に消えた時、江間がついに声を発した。いつも陽気で軽い調子で話す彼のものとはとても思えない、押し殺したような声音に体が震えた。
「……」
頭半分上にある黒の瞳は刺すように、郁を見つめている。嘘も言い逃れも許すまいという江間の意思が見えて、郁は奥歯をかみ締める。
(何をどこまで話していい? 何を話してはいけない?)
「……だんまりか? なら今ここで、そのフードを取り払ってやろうか。そうすれば、福地たちの反応で、すぐにもここにいるのがお前だと、異世界人だとわかるだろうな――なぜかこちらの言葉がしゃべれる、異世界人、な」
「っ」
江間の右の口角が、歪につりあがった。
森の中、樹冠の合間から降り注ぐ青い光に、彼の顔に浮かんだ冷たい笑いが照らし出された。体の芯が冷えていく。
「さっきの連中を見かけた時もそうだったな。お前は自分が“そう”だと、俺たちはおろか、こっちの人間にも知られたくないんだ。つまり俺たちはもちろん、こっちの人間にもお前のような人間がいることは想定外――違うか?」
「……」
(うまくやっているつもりだったのに)
細部を何も知らないはずなのに、江間は郁の意図を正確に見抜いている。されて嫌なことを勘づいている。自分の顔が青ざめていくのがわかった。
「お前……一体なんなんだ?」
そうして向けられたのは、存在を丸ごと疑う、残酷な視線――
「わたし、は……」
宮部郁、ミヤベアヤだ。でも、実の親は郁を、妹が望むまま郁、カオルと呼ぶ。
≪だって、アヤって可愛らしいじゃないですか。お姉様はカオルの方が似合います≫
感じるまま言っているだけと思っていた妹のあの発言は、実は悪意そのものだった。
十年前、親友だと思っていたシャツェランも郁ではなくその妹を信じ、それまでの呼び名だったアヤが嘘だと、カオルが本名、真名だと信じ、郁を嘘つきだと罵った。
その後、郁をアヤと呼んでいた人たち――友達も知人も、みな妹と仲良くなって、自分から去った。新たに誰かと親しくなりかけても、必ず妹が現れる。新しい友人など一人もいない。
唯一、自分をアヤと呼んでくれていた祖父母が死んだ今、下の名の呼び方を知る人は、もう誰もいないかもしれない。
そもそも郁はもう誰からも必要とされていない。そこにいる存在として認識されていればまだましなほうで、多くの人は郁が死んだとしても、良くて「あの人、死んだんだ」程度だろう。
役所の書類にも、大学の名簿にも、「宮部郁」そう記されている。でも、この世で誰一人として呼ばないその名は、存在していないのと同じではないのか。そして、その主も――。
「……」
急に全身の感覚が消えた。ここでぼろを出すわけには行かないとわかっているはずなのに、出してしまえば何もかも崩れるのに、足が地に付いている感じがしなくなった。耳鳴りが始まって、外界の音がすべて聞こえなくなる。揺れ出したのが自分なのか世界なのか、わからない。
祖母に次いで祖父がこの世を去ってから、頻繁に出てくるようになった感覚をやり過ごそうと、郁はぎゅっと目を閉じた。
「……っ」
平衡感覚を失った体が、歩行の中途でぐらりと傾ぐ。
「バカ、ちゃんと歩け」
だが、傾いだ体は、郁を追い詰めた張本人によって支えられた。ぐっと二の腕を握られて、体勢が垂直に戻る。
「……」
二の腕に温かみを残したまま、彼は無言で郁の横を歩く。視線は不自然なほどまっすぐ前方にすえられていた。
かさかさと足元の落ち葉が立てる音だけが、しばらく月夜の森に響いていた。
「……なぜ」
なんとか動揺を収めた郁がようやく絞り出した声は掠れていた。
「ばれたら困るんだろうが。てかお前な、人の質問には答えないくせになんでとか聞くな」
横目にじろりと郁を睨み、嫌そうに答えた江間に呆気にとられる。
「江間って……馬鹿、なのか」
「改めて確認するまでもねえだろ。つーか、人が温情出してやったってのに、馬鹿呼ばわりかよ」
「……」
すねたような答えに、郁はまじまじと隣を歩く男の顔を見つめた。
そういえば、この男はイェリカ・ローダに襲われていると知りながら、一人で郁を助けに来た。グループから抜けると言う郁にわざわざ付き合った。強盗にも乗ってきたし、その神官たちを拘束する時は、危険が来れば、最低限逃げられるようなやり方をとった。トカゲに追いかけられた時だって、見捨てて逃げればいいのになぜか戻ってきた。さっき郁がディケセルの神官のふりをしていた時もそうだ。郁の正体を暴いて、自分がバルドゥーバに取り入ることもできたのに、結局黙っていた……。
≪あー、最近大学来ねえから、悪い、佐川先生に頼み込んで、電話してもらった。お前、その、大丈夫……じゃないな。あーと、その……今一人か? ……なら行く。線香ぐらい上げさせてくれ≫
(ああ、違う、彼はずっとそんな風だったっけ……)
「感じわりぃな」
よほど間抜けな顔をしていたのだろう。江間はそんな郁に顔をしかめる。
その顔に懐かしい顔が重なった。郁が知る中で最も人の良かった祖父コトゥドだ。
「痛っ」
「アホを見るような目で人を見るからだ」
頭を叩かれた郁はその場所に手をやり、江間の目を見つめた。その目はまっすぐこちらを見返してくる。
「……」
その視線に、郁はやはり彼が嫌いだと再確認する。
彼の精神は、郁が尊敬する祖父と似て高潔で、心は敬愛する祖母桜子に似て他者への思いやりに溢れている。祖父母のようでありたいと願っているのに、郁は到底そこに行きつけない。この点でも決して彼に届かない。
視線を伏せると目をつむり、静かに息を吐き出した。
「江間」
彼の名を呼んで改めて目を合わせ、郁は覚悟を決める。
「江間の言うように、私はこの世界を知っている。言葉もさっき試した限り普通に使えるようだ」
「なん」
「教えてもらった」
「……誰にかは言わねえのかよ」
露骨に胡散臭そうな顔をした江間を、郁はひたすら見つめる。
「言わないこと、嘘をつくことはこの先もある。でも、受けた恩は必ず返す。それだけは誓う」
「……」
フードの下、茶に染められた髪の間から見える、切れ長の黒い目が丸くなった。
「さっき黙っていてくれてありがとう」
立ち止まって、姿を再び現した黄と青の二つの満月の下、互いを見つめ合う。
その間を森の湿った夜風が緩やかに流れていった。同じ風が頭上の梢をさわさわと揺らす。
愚かなことをしていると思う。妹やシャツェラン、友人たちがそうだったように、江間もいつか郁に価値がないと悟る時が来るだろう。そして離れていく。でも、今彼に対してそう誓えないなら、自分はそれこそただの愚か者だ。
「……あー、くそっ」
先に視線をそらしたのは江間だった。彼は髪をがしゃがしゃっとかき上げ、うめき声を上げた。
「卑怯だろ、その言い方。何気に嘘つくって言い切りやがったし」
そむけた顔のうち唯一見える場所――耳朶が赤くなっているのを見つけて、郁は知らず笑いを零した。
≪自分がすべきであると思うことをしなさい≫
裏山に沈む夕日を見つめていた祖父。馬鹿みたいに人のいいこいつにあんな顔をさせたくない。
「っ、なに笑ってんだよ。あっ、てことは何か、お前、俺を裏切るつもりだったのか?」
「積極的にそうしようと思っていたわけじゃない。けど、いざとなったら、そうできるとは思っていた。私はこちらの言葉を知っている、江間は知らない、そして江間は私が言葉をできることを知らない――簡単そうだろう、騙すの」
「性悪な……」
顔を引きつらせた江間に「何を今更」と頷けば、彼は言葉を詰まらせた後、「開き直んなよ……」とがくりと肩を落とした。
向こうの世界のふくろうのような存在なのかもしれない、辺りの森からジャーゴジャーゴという、喉をつぶした猫のような声が響き始めた。