22-6.呼ぶ権利(江間)
『お前な、苛つくにしてももう少し取りつくろえ。できるはずだろうが』
佐野と別れて大神殿長の棟から出、川の流れを左手に歩き出せば、シャツェランが文句を吐き出した。
『なぜ私が逆に気を使う羽目になるんだ』
『十分努力しているかと――フュバルとやらに本当に記憶がないか、確かめるのにも付き合ったでしょう』
『……』
苦々しい顔で睨んできたシャツェランを、江間は皮肉を交えて横目で睨み返す。目線の高さもほぼ同じで、やりやすいと言えばやりやすいが、その分イライラも増す。
だが、苛立ちの本当の原因はシャツェランでも佐野でもない。ここのところ江間を差し置いて常に宮部といるシハラでもないし、菊田なんかでもない。宮部の置かれた状況をなんとなく知っていたくせに、守りたいと思っていたくせに、その資格がないと言い訳して放置した挙句、惑いの森で彼女を一人で死なせかけた江間自身だ。
佐野を前にしたことで、ここのところかつての自分のふがいなさを突きつけられている。
「……」
今いる台地の端まで来て、山肌に張り付くように上下に広がる神殿の建物群を見下ろし、江間はため息をついた。
さっき大神殿長の棟に入った時に漂っていた薄い朝靄はすっかり消え、東の空には明るい太陽が輝いている。遠く、地平線の際に惑いの森が見えた。
同じ光景を見ていたシャツェランが、おもむろに口を開いた。
『エマ、フュバルをどうすべきだと思う? 楽才があるのは確かだが、これまでのところそれ以外に使えるとはあまり思えない。だが、稀人である以上、記憶が戻ればまた違う可能性がある。無理を押してでも、メゼルに連れていくべきだと思うか?』
江間はシャツェランが嫌いじゃない。
話のテンポも合うし、冗談も通じる。察しもノリもいいし、機転も利いて馬が合う。けれど、こういう発言を聞くたびに、王である彼にとって“稀人”はあくまで手駒なのだと実感する。
『神殿は何と?』
『大神官長曰く、稀人はディケセル王に引き渡すのが正式だが、そうなれば、即バルドゥーバに逆戻りになるのが目に見えているから、例外として留め置いていると。だが、どうもフュバルがここにいるとバルドゥーバに伝わったらしい。セルが引き渡せと求めてきたようだ』
シャツェランは呆れと愉悦半々に、『シハラが月の石の触れはあれから一度もない。それがない以上稀人な訳がないと言い放ったそうだ』と続けた。
『食い下がった使者に、『まさか強引にバルドゥーバに連れていった先の稀人の保護を怠り、挙げ句だから探しているなどとぬけぬけと言いにおいでになったわけはありませんわよねえ』だと』
『……目に浮かぶ』
宮部の大伯母にあたる手ごわい女性を思って笑いを零した後、江間は眉間に皺を寄せた。
再びバルドゥーバに行くことになれば、佐野は殺される可能性が高い。あの福地と寺下だ。自分たちのために前回も処刑を見逃したとすれば、今回も同じことをするだろう。むしろ、つじつまを合わせるために、積極的に殺しにかかるかもしれない。
先ほどプリンを口にして嬉しそうに笑っていた後輩の顔を思い浮かべて、長々と息を吐き出す。
『お前、フュバルと恋仲になる気はないか? メゼルに連れ出す口実になる。現状彼女を扱いあぐねている神殿も、本人がその気になれば喜んで乗ってくるはずだ』
『ない』
江間の躊躇に気付いたのだろう。半ば真剣に、半ばからかいを含んで聞いてきたシャツェランに敬語を捨てて即答した。が、彼は気に留めないらしい。
『中々可憐な娘だと思うが?』
『そう思うなら、ご自身でどうぞ』
『異世界に来て心細い思いをしている娘に対して、随分と冷たい話だな』
『むしろ温かいでしょう。彼女のために殿下ほどのいい男をその気にさせようとしているわけですから』
結局その話かよ、と露骨に嫌な顔をすれば、シャツェランはたいして面白くもなさそうに、肩をすくめた。
『アヤは結構同情しているようだったが? わざわざ故郷の菓子を作ってやったりしているじゃないか』
『アヤが誰かわかりかねます』
笑顔を張りつけたものの、こめかみに青筋が立ったことは自覚できる。
『ああ、お前には呼ぶ資格がなかったのだったな、ミヤベだ』
「……」
思わず顔を歪めてシャツェランを睨めば、彼は人悪く笑った。その笑いの意味を量る。
彼は今、宮部が宮部、つまり自分のはとこであり、幼馴染であり、稀人でもあるという事実を、江間に対して露骨に突きつけてきた。これまでは知らない顔をしている江間に付き合ってか、敢えて強くは持ち出してこなかったのに。
昨日のリカルィデの件も絡んでいるのかもしれない。シャツェランの中で何かが変わった、と確信して、江間は警戒を強めると、にこりと笑った。
『殿下はその資格を自ら放棄なさったと伺っていますが』
『……』
江間の意趣返しに、シャツェランは顔をしかめると『そこまで聞いているのか』と、おもしろくなさそうに呟いた。
江間は最下段の滝へと再び歩き始める。その脇の階段を下りて、一つ下の台地にあるシハラの居住棟に行くつもりだ。
『殿下、勝手に動かないでくださいよ』
同時に歩き出した横のシャツェランを、シドアードが追いかけてきた。
『悪いな、シハラ大神官のところに行ってくる。エマがいるからお前は休んでろ』
「……」
シハラじゃなくて目的は俺と同じだろ、と悟った江間は、思いっきり嫌な顔をしてシドアードに訴えたが、『言い出したら、聞かないんだ』と肩をすくめて返された。
『っ、嫌がるにしてももう少し隠せっ、無礼すぎるんだ、お前は!』
『シドアード、連れて行ってくれ、兄弟子なんだろっ、諦めるなよっ』
『あーはいはい。登の九刻には予定があるから、それまでに殿下連れて戻ってこいよー。殿下も四の五の言わずに、戻ってきてくださいねー。アムルゼの胃に穴が開きますよー』
手をひらひらと振ったシドアードにあしらわれて、江間は顔を引きつらせた。
滝の音が大きくなっていく。水の香りがする。
階段で警備にあたっているグルドザからシャツェランが敬礼を受けるのを見、階段に足を踏み入れた。
滝を落ちていく水が風にあおられて上空に舞い上がり、虹が生まれては消え、また生まれる。キラキラと光る七色の向こうに澄んだ青空が広がって、ひどく美しい。
「……」
(――一緒に見たい)
ずっと焦がれてきた人の、綺麗な物や珍しい物を見つけた時の横顔と、その後自分を見上げてきた時の顔が、まざまざと脳裏に浮かんで足を止めた。
最近彼女は色々な表情を見せてくれるようになった。拗ねることがあるなんて考えたこともなかった。泣き顔を見せてくれるなんて昔は想像もできなかった。隠そうとしないで笑う声があんなに明るく澄んでいるとは知らなかった――。
(部屋に着いたら散歩に誘おう)
そう決めて、江間は滝横の階段を再び降る。
宮部にとってシハラとの時間が貴重なことは理解している。親しそうに誰かと話している横顔を見られることも嬉しい。だが、自分に向けて笑ってくれる顔もそろそろ少し見たい。
慣れた様子で先に下っているシャツェランに追いつく。
『この階段を毎日行き来している神官どもは、下手なグルドザより頑丈そうだな』
『シハラ大神官は八十近いと聞きましたが?』
『あれは私の記憶のある限り、まったく年を取っていない』
『……中身も昔から同じ?』
『……ああ。体調を崩していたと聞いて、さすがのシハラも老いたのかと思ったが、ただの気のせいだった』
何を思い出したのか、シャツェランが遠い場所を見るような目をして、身を震わせる。 やっぱりあれは魔女だ。直後に、宮部の何十年後の姿かも、と思いついて、江間も身震いした。
(――宮部だ)
目的の台地上、滝の傍らの広間にある四阿の脇に彼女の姿を認めて、江間は口元を緩める。
これだけ離れていてもわかるのは、ずっと追ってきたからだ。姿も仕草も声も香りも滑らかな肌も、彼女に属するものは脳に焼きついてしまっていて、消える気がしない。
いい加減諦めなくては、と思っていた頃は、それが苦しくて仕方がなかった。荒れまくって酒も散々飲んだし、遊びまわりもした。後腐れがなさそうな女であれば、適当に寝たりしようともした。それでも結局離れられなかった。
そんな自分をリカルィデは「ストーカーってやつじゃない?」と言うが、あたっている、と自嘲しながら、足を速める。
「……」
宮部の方も気づいてくれた。目が合って少しだけ顔が綻ぶ。
(あれ、本気でかわいいんだよなあ)
と今日もやはり感動してしまって歩みを止めたところで、横のシャツェランがぼそりと呟いた。
『いつからだ?』
山のふもとから吹き上げてくる風に、彼の金の髪が巻き上げられた。彼の青い目は、江間と同じものを見ている。
『……六年ぐらい前。多分見かけてすぐ』
『一目惚れするような見た目じゃないだろう』
自分も似たようなことを思っているくせに、失礼にも程があるだろ、と江間はむっとする。
『試験の日でした。時間がないのに、道に迷った赤の他人の婆さんを案内する羽目になってて、馬鹿な奴がいるな、と』
『それで惚れる理由がわからん』
『俺もです。でも次に見かけた時、考えるより先に話しかけてました』
『まったく理解できない』
呆れたような視線を受けて、江間は肩をすくめた。