22-2.正体(リカルィデ)
椅子が派手な音を立てて倒れた。リカルィデは恐る恐る背後に向き直ると、おたおたとしつつなんとか略礼をとった。
『で、でで、殿下、なななんでここ、じゃなくて、ええと、お、おはようございます、じゃ、なくて、こ、こんにちは』
しどろもどろになるリカルィデに構わず、シャツェランはつかつかと近づいてきて、床に倒れたままになっている椅子を何の気なしに戻した。
(う。お、王弟殿下になんてことを……)
自分の不始末をぬぐわせてしまった、と真っ青になったが、やはり彼は気にする様子がない。リカルィデの背後、机の上に開かれた記録に目を落とし、『……稀人について調べているのか』と呟いた。
別の意味で汗が噴き出してきた。
(まずい、向こうに行く方法を調べていることがばれる――いや、待て、メゼルの書物棟で、稀人についての資料を探すよう提案したのはそもそも彼だ)
『コレ、ええと、今探している植物のことですけど、殿下が以前仰ったように、稀人がもたらした物の可能性があるなら、ガッコウもコーバンも元は向こうの言葉だと聞いたので、響きとかが似ていないかと……』
できるだけ冷静に説明する。嘘を吐く時は、本当のことを混ぜるという宮部の教えと、相手が責任感のある人間であれば、本人の言動を思い起こさせることで、ある程度行動が縛れる、という江間の教えに従った。
目論見通り『なるほどな』と言った王弟にほっとしたのも一瞬、テーブル横に回り込んだ彼はそこにあった椅子を引いて座った。
思わず顔を引きつらせる。
『あ、あの……』
『色々煩わしいんで、逃げてきた。邪魔はしないから、うるさく言うな』
『はあ』
自分がうるさく言えるなんて元々思ってないけど、と思いながら、リカルィデは王弟、今となっては縁の切れてしまった叔父の顔をしげしげと眺めた。
椅子に深く腰掛け、背もたれに身を預けて、目をつむった彼は、相変わらず美しい顔をしている。金色の髪は長めでさらさらで、同じ色のまつ毛は長く密、くっきりした二重の目を彩っている。顎のラインは精悍で、その下の首筋と併せて男性的だ。
江間も整っているけど、印象が違う。黙っていると江間は鋭くて怖い感じで、王弟は華やかで甘い感じ。
(理由は目かなあ。エマは目じりがつり上がり気味、王弟は下がり気味。どっちが整っているかなあ)
ぼんやりと見ていて、彼の目の下にクマがあることに気付いた。
『ええと、お疲れでしたら、ちゃんと休まれた方がいいと思います。その、こんなとこじゃなくて』
『……』
目を開いた王弟に、無言でじろりと睨まれて、『お、大きなお世話だったら、ごめんなさい』と再び冷や汗を流す。
『で、でも、疲れていると、ろくなことを考えないから、とりあえず食べて寝てしまいなさいって』
『……ア、ミヤベか?』
『え、あ、はい。よくそう言われて、寝台に押し込まれます。けど……』
なんでわかった? と首を傾げたリカルィデの前で、シャツェランは右手を両目に当て、『……どこまでも癇に障る』と低い声でつぶやいた。
そして、ビキリと音を立てるかのように全身を硬直させたリカルィデに、その覆いを外さないまま、『お前のことじゃない』と言って、長々とため息をついた。
『……』
(これはあれだ、江間が時々言う「サワラヌカミニタタリナシ」という状態に違いない)
そう結論付けると、リカルィデは元の作業に戻った。
静かな室内に、ページをめくる音だけが響く。
(バイコゥの前の稀人は一人、女性か)
惑いの森で発見された時には、既に死亡していた、と記されている。
サチコもとても不安な気持ちで、コクラミの洞窟にいたと言っていた。
そうやって考えると、目の前でイェリカ・ローダを見ていながら保護を拒絶して、その上自分まで連れてあの森を自力で抜けた宮部と江間はやっぱり少しおかしいのだろう。
くすっと笑ってから、リカルィデは稀人“ヨスケ”を調べる。手にしたのはリバル村のあるホトセルナ地方の神殿史だ。
こちらには“ヨスケ”の名はない。代わりに、リバル村出身で内務処官になったタグィロが言っていた“コレ”の名前がある。植物の名前としてじゃない、人の名前として、だ。
これこそ彼が米をこっちにもたらした証拠かも、という思いと共に、興奮が湧き上がってきた。
こっちはもう少し記録が細かい。植物のコレの特徴や栽培法、その経過観察の記録。コレの収穫量の記録は年々増えていき、王や神殿へ寄進したり、近隣の村に分けたりしたとある。
人のコレと結婚したのは村人ではなく、コントゥシャ神殿に入っていた、元は貴族、しかもかなり高位の娘のようだ。村ではなく、大神殿で祝言が挙げられたとある。
そして、その七年後に彼に関する記述はいきなり途絶えた。その年の他の記録は、戦乱が広がり、村の中でも不和が起きていること、それゆえに“タ”が荒らされたこと、霧が多かったこと――。
『……』
リカルィデは、コレの栽培方法を書き写しながら、考える。
ヨスケはどうなったか? 可能性の一つは、リカルィデが最初に危惧したとおり、混乱の中異物として迫害されて殺されたというものだ。この場合、神の使いであるはずの稀人が、儀式でも何でもなくただ殺害されたとは公にしたくないだろうから、記録に残っていない。
もう一つは、タグィロの言っていた、彼らがどこかに去ったというものになるだろう。だから生死を書けない。だが、こちらの世界で稀人が王や神殿の追跡を振り切って逃げ切るのは、普通なら難しいはずだ。
にもかかわらず、もし逃げることができたとすれば……? 行く先が、あちらの世界だった可能性はないか?
宮部が、稀人には潜在的に元の世界に戻る力があるのではないか、と言っていた。その条件は――稀人その人と、霧。だが、神殿に入るための禊をしていた川で、宮部も江間も霧に包まれたのに、帰れていない。では、他にも何か条件があるのだろうか。
『……』
(……サチコ、なんで死んじゃったんだろう。もう少し生きていてくれたら、そうしたら、ミヤベとエマが来たのに)
木炭を走らせる手を止めて、死んでからじゃなくて生きて帰ってほしかったのに、とリカルィデは育ての親の姿を思い浮かべる。
黒く豊かでまっすぐな髪。よく頭の上の方で一つにくくっていた。同じ色の瞳を包む目は、長く美しく、笑うと糸のようになって、ますます優しく見えた。
「ふふ、ありがとうございます。こういう目を日本では一重と言います。そういえば、ディケセルの方は二重の方が多いですね。殿下もです」
そう言って、少し節の目立つようになった指でリカルィデの頭に優しく触れ、「私も殿下の目がとても好きですよ」と笑ってくれた。
リカルィデは細い指で、同じ場所に触れる。
(ねえ、サチコ、サチコ以外に頭を撫でて笑ってくれる人ができたよ。しかも二人も、だよ? エマとミヤベって言うんだ。二人ともサチコと同じニホン人だよ。サチコみたいに一緒に色々なことをしてくれて、自由にしたいようにすればいいって言ってくれて、いっぱい助けてくれるんだ。心配もしてくれるし、怒ってもくれる。だからかな、前みたいに怖いことばっかりじゃなくなってきたよ。サチコ以外の人ともおろおろしないで話せるようになった。店番とか任せられてるんだよ、信じられる?)
話したいことがいっぱいあって、次から次に溢れ出てくる。
(自分で料理もするようになって、タツタアゲっていうワショクを教えてもらったよ。すごくおいしいんだ。サチコにもごちそうしたかったな。あとね、雨の日に外に出てみたいって言って困らせたの、覚えてる? 雨に打たれたことないって言ったら、エマが面白がって一緒に外に出てくれた。雨ってにおいがあるんだね。知らなかった。帰ったら、風邪をひいちゃうのにって呆れながら、宮部が全身を「タオル」で拭いてくれたんだ。すぐにあったかくなって……タオルってすごいね。それからね、春告鳥を見たよ。図鑑を見て、サチコが「カワイイ」って言ってた、あの鳥だよ――)
『……あとちょっとだったのに』
心の奥底に押し込めていた思いが、ツルリと口から零れ落ちた。
もしサチコが生き続けていたら宮部と江間のことだ、きっとあの手この手で色々な人を騙して煙に巻いて、彼女に会って、セルから連れ出しただろう、リカルィデにそうしたように。
それから、こうやって一緒に色々調べたり、企んだり、悩んだり、話し合ったりしたはずだ。宮部と江間が喧嘩しても、サチコだったらきっとうまく仲直りさせられたはずだから、二人はもっと仲良しだったかもしれない。
それで彼らとサチコは協力して、向こうに帰っただろう。リカルィデも一緒に行って、サチコの旦那さんのマサチカさんやショータにも会って、みんなで一緒に――。
『……っ』
もう永久に見られない未来を想像してしまったら、涙が滲んできた。慌てて袖で抑える。
『――そこにサチコの記録はあるか?』
『っ』
寝ているかと思っていた王弟から声が響いて、リカルィデは顔を跳ね上げた。
『サチ、コ、は……』
『前回の稀人だ。二年ほど前に亡くなった。お前も会ったことがあるだろう』
『……』
心臓が止まった。アーシャルとばれたのかと青い顔でシャツェランを見つめれば、彼はふんっと鼻を鳴らした。
『お前が神殿の育てた橋者だというのは、もう知っている。大神官長も大神官ものらりくらりとし続けているが、他の神官どもが口を滑らせた』
『きょう、じゃ……』
(そう、か……この人だけじゃない、大神官長もシハラもエマとアヤが稀人だともう知っている。オルゲィとか他の人たちが気づくのも時間の問題だ……)
――だから大神官長たちは、二人と一緒にいるリカルィデの正体を隠そうと、神殿の関係者という肩書を与えてくれた。
(あの二人は少なくとも私がアーシャルだったと知っている、知っていて隠してくれたんだ)
先ほどの祈禱と憐れみの意味を悟って、リカルィデは唇を引き結んだ。
なぜ彼らがそんなことをしてくれたのかはわからない。でもそこに確かな思いやりを感じて、鼻の奥がつんとした。
泣きそうになるのを慌てて隠し、『ええと、サチコ、さま、のことは……』と続けた。
『この本には少なくとも書かれていません』
『ヨコテという名前でも?』
(この人、サチコの家の名前も知ってる……)
驚きに目を見開いた。
『え、えと、殿下、もお会いになったことがおあり、なのですよね。その、殿下から見て、サチコさまはどんな方でしたか……?』
不自然かもしれない、いや、今稀人について調べているんだから、不自然じゃない、ああ、でもそれはそう思いたいだけかも、と頭の中でぐるぐる回っている。でも抑えられない。
サチコは死んでしまった。以降、誰も彼女のことに触れなかった、まるで最初から存在しなかったかのように。肉体がなくなっただけじゃなかった、自分以外の誰の記憶からも彼女が消えてしまったことが、この上なく悲しかった――。
『とても頭のいい女性だった。様々なことに博識だったが、特に「シャカイ」、世の中の仕組みやその在り方、その歴史について、とても詳しかった。向こうで「ガッコウ」の教師をしていたのだそうだ。お前が先ほど口にしていた、「ガッコウ」や「コーバン」も、元は彼女からだ』
身を起こし、長い腕を畳んで肘を机につき、『登用試験や法治、行政における分掌、経済活動の活性化、民衆の権利と義務、その教育、避難民キャンプ……メゼルディセルに関しては、彼女の知恵を借りていない箇所の方が少ないぐらいだ』と王弟は話し始める。
『知識もだが、人として尊敬に値する人だった。彼女に教えを請うことができたのは、私にとって、領主としても個人としてもとても幸運なことだった』
人の上に立つということがどういうことか、権力とはなにか、人の権利とはどういうことか、自由とはどういうことか、それがなぜ大事なのか――
『思慮深いし、礼儀も弁えていたが、おかしいと思うことは率直に口にする人だった。王子だからと皆が口を濁すことについても遠慮はなかったな』
王弟は懐かしそうに、そして気のせいでなければ、寂しそうにサチコについて語っていく。
『逝くのが早すぎた。もう少し長生きしてほしかった。そうすれば……』
『……』
(ああ、ここにいた、ちゃんといてくれた、彼女を覚えていてくれる人、それで彼女を惜しみ、偲んでくれる人――)
『っ』
涙がポロリと零れ落ちた。泣いてはまずいと知っているから、慌てて止めようと思うのに、止まってくれない。
王弟の元々大きい、青い目が見開かれた。凝視されているのがわかるのに、涙は次から次へと滝のように流れ出てくる。
『おまえ、は……』
『っ』
呆然とした声に逃げようと立ち上がれば、椅子がまた派手な音を立てて倒れた。
『リカルィデ?』
『っ、ミヤ、っ』
書庫の入り口から今最も信頼する人の一人に名を呼ばれ、リカルィデは泣き声を返した。安心で涙がひどくなって、余計視界が効かなくなる。
駆け寄ってきた宮部にすぐに抱き込まれて、王弟から隠すように背に回された。顔を押しつけている宮部の体が、強い緊張で硬くなっているのがわかった。