21-12.比較(シャツェラン)
フュバルのお気に入りだという滝見の祠で、シャツェランはシドアードを従え、彼女の横笛を聞く。
四方のはめ殺しのガラス窓と天窓からふんだんに注ぐ光を受ける彼女の姿は、幻想的ですらある。その背後、北側の窓からは聖ディ山の蒼い山肌とそこを流れ落ちる二つの滝が見えた。
美しい空間に、聞いたことのない調べ――昨日初めて聞かされた時は鳥肌が立って、あるまじきことに呆けたように聞き惚れてしまった。
だが、同席して同じ音楽を聞いていた江間は少し目を丸くした程度で、あとはごく普通の顔……どころか「早く終われ」と思っていたように思う。あいつはその辺の感覚がひどく無粋らしい。
それは今日シャツェランの護衛として同席しているシドアードも同じなようで、彼は今あくびをかみ殺した。シャツェランと目が合って、ばつが悪そうに肩をすくめた彼に、半眼を返す。
(……まあ、こうも長いとそれも仕方がないか。体を動かす方が性に合っている人間には確かにきつい)
長い間座り続けているせいで凝り固まった首を小さく動かし、シャツェランは目を眇める。
それでも大人しくフュバルの誘いに応じておく必要がある――彼女はこちら側に取り込んでおきたい。
陽だまりの中、ほほえみながら笛を吹くフュバルの姿は、魅力的と分類していいものだ。
髪は長く、生え際からしばらくは黒、その先が茶色、豊かで艶がある。背は郁に比べてかなり低いが、女性らしい体つきをしていて、着ているローブ越しにも柔らかさが想像される。顔立ちは幼い印象があるが、唇は赤く色づいているし、何より目が印象的だ。黒目がちの大きな目は常に潤んでいて、庇護欲を掻き立てられる。
(――彼女はバルドゥーバに渡った稀人の一人、サノで間違いない)
シャツェランは微笑を顔に貼りつけつつ、見聞処長であるアドガンから届いた報告書の内容と、目の前の彼女を照らし合わせる。
佐野はバルドゥーバで処刑された。
音楽に秀でて、バルドゥーバの社交界で人気を博し、陽の位のアゾルヴァイ家子息に嫁することが決まっていたが、疫病を流行らせた疑いをかけられ、処刑が決まったという。
が、その実は既に女王の伯母を夫人としているアゾルヴァイがこれ以上力を持つことによって、自らの地位を脅かされることを彼の地の蛇宰相が恐れたためだろう。
僻地に行かされた菊田より過酷な扱いになった背景には、バルドゥーバにおける疫病の被害がディケセルよりはるかに大きかったことと、宰相派の稀人である寺下の強い意向があったようだ。
佐野はバルドゥーバ宮殿前の広場で、双頭の怪物ドルラーザに喰われ、処刑は完了されたことになっているが、逃げる佐野らしき人物を見たという噂が奴隷を中心に広まっているという。
宰相が事実無根として片付けようとしているようだが、疫病が収まりきらなかったことも、逃げる佐野を目撃したと思われる者たちが次々殺されたことも、噂が終息しない原因なのだろう。
(テラシタがアヤやエマと同じ稀人である以上、疫病がサノのせいでないことを知らぬわけがない。つまり彼女はサノを殺したくて殺すことにした……)
シャツェランは、寺下ののっぺりした顔を脳裏に描く。
シャツェランの機嫌を伺い、自国の宰相の機嫌を取り、自身の地位を保つために価値がない者は虫けらのように扱い、自身をなんとかよく見せようと計算しているのが透けて見えていたあの女だ。
『……』
湧き上がってきた嫌悪に目を眇める。
バルドゥーバの稀人たちの今の状況を予想して、郁と江間が彼らから離れたかはわからない。だが、権力争いに巻き込まれることを懸念して、稀人であることを伏せているのは確かだ。
上出来だと思う一方で、神経を疑いたくもなる。どこの誰が、別の世界に来てすぐ手駒にされる危険性に気付き、そのために保護されること自体を拒むと決められるというのか。そのための手段を構築したのは二人だとしても、発端は江間ではなく、絶対に郁だ。実に可愛げがなく、不遜そのもの。
『……』
それからふと、あの喧嘩がなかったら郁は自分を頼っただろうか、と疑問に思った。
『……ええと、いかが、でしたか?』
演奏が止み、音の余韻が空間に広がって消えた。陶酔したように演奏していたフュバルが、シャツェランにはにかみながらたずねてくる。
『実に素晴らしかった。こういう時はニホン語で、「心が洗われるようだ」と言うのでしたか』
『ふ、ふふふ、ありがとうございます、本当に、幸せ』
シャツェランの計算した笑顔と日本語に、フュバルが照れ笑いを浮かべるのを見て、つくづく思う。本当にかわいらしい、どこかの誰かに見習わせたいものだ、と。
(あいつはこっちの意図と感情を瞬時に見抜く。その上で自分の内心を隠して、隙のない対応してくるからな。機嫌を取れとか愛想を振りまけとは言わないが、せめて驚いた顔でも悲しそうな顔でも見せるなら、もう少しやりようがあるのに……)
昨日、予告なくフュバルに会わせた時の郁の様子を思い返して、シャツェランは顔をしかめた。
郁のことだから、間違いなくシャツェランの意図に気付いているはずだ。
『あの、殿下? すみません、何か、「ええと」ご、ごきげん? を壊す、「じゃなくて」損う、ようなこと、ありましたか?』
『……まさか。それより喉が渇きませんか? お茶にしましょう』
『はい』
シャツェランの誘いに疑問を忘れ、笑顔で応じてくるフュバルは、自分が確実に主導権を握れるという意味で、一緒にいて安心できる。
これならば、記憶がないならないなりに使えるだろうと踏んで、シャツェランは彼女の利用方法を頭の中で計算する。
(彼女が特に秀でているのは楽才、外見と人好きのする性格。バルドゥーバやセル、諸外国との駆け引きの材料にするか、手元で使うか……もう少し他の才を見極める必要があるな)
『私、準備、してきます』
そう言って外に声をかけに行くフュバルを見送って、シャツェランは息を吐きだした。
『……まだ続きます?』
『美しい音楽じゃないか』
『それは認めますが、すみません、何分無教養なもので』
セルで長く続く武官の家の出身のシドアードはそう言いながら、椅子の上で伸びをした。
『……』
視線を彼から窓の外に移し、シャツェランは昨日の郁の顔を思い返す。
フュバルと名乗る佐野に出会った瞬間も、彼女は表情をコントロールしきった。その後も関わりを訊ねる佐野に、本当のことも嘘も言わないではぐらかし、冷静に彼女を観察していたように思う。
洗衛石を申し出た辺りは、記憶を取り戻させようとする意図あってのことだと思うが、それでどうするつもりなのか、これまた郁の顔からはまったく読めなかった。
『あの態度だとな……』
思わずぼやきが漏れた。
勘でしかないが、郁と佐野の関係はオルゲィが推測したようにあまりいいものでなかったのではないか、と思う。
そんな相手といきなり会わされてどう思ったか、郁の態度ではわからない。だが、彼女が一瞬だけ自分を見た時、その目がいつかの別れの晩に重なった。怒りと失望、悲しみを含んだ、あの目だ。
『……』
落ち着かない――シャツェランは眉間に皺を寄せると、足でトントンと床を踏みつけた。視界に入るシドアードが、片眉を跳ね上げたのがわかる。さしずめ『殿下もイライラしているじゃないか』とでも思っているのだろうが、原因は音楽じゃなく、郁と大神官シハラだ。
あれからシハラは郁を勝手に連れて行ってしまった。
自分の従者だと強く主張すれば、当然連れ戻せるが、相手はこの神殿を実質取り仕切っている大神官で、しかも得体のしれない、癖だらけのシハラだ。彼女にそんなことをすれば、何が返ってくるかわからない。
郁の祖父がシハラの弟だということを、彼女が知っているとは思えないから、『駆け引きの道具がないとお困りになりますものね』と言っていた通り、自分への抗議だと思う。
(アヤも道具扱いされたと思っているのだろうか)
あの目はだからだろうか、と思いつく。
(ひょっとして、フュバルがエマを気に入るようだったら、彼女を彼に押し付けてやろうと考えていることもばれている……?)
徐々に眉間のしわが深まっていく。
『シャツェラン殿下、お待たせしました』
サッ茶と香草茶を持ってきた侍女を、フュバルがにこにこと笑って案内してきた。その顔に、そういえば郁は本当に笑わなくなった、と思うともなしに思う。
『フュバルさまはお座りください』
『せっかく、ですし、私もお手伝いする、させて? ください』
そう言って侍女と一緒に働こうというフュバルの感覚は、寺下より郁や江間寄りらしい。シャツェランは小さく息を吐き出した。
フュバルが稀人である以上、どんな扱いをするにせよ、こちらの手札にできるよう抑えておきたい。ただ、アゾルヴァイ家子息とは個人的に慕い合っての関係だったと聞く。ならば、記憶のないうちにこちらの誰かと恋仲にしてしまうか、と思いついたシャツェランが、真っ先に思い浮かべたのが江間だった。
郁ほどではないが、江間もフュバルに会った瞬間平静を保った。
予想外だったのはその後だ。彼女が記憶を失っていること、そしてそれゆえ不安がっていると知れば、江間のことだ、間違いなく親身になるはずだと思っていたのに、これまで茶会などで会わせた女性たちに対するよりは微妙にマシという程度でしかなかった。
元々知り合いだったことを考えると、もっと同情すると思っていたので、正直意外だったのだが、それでも案の定フュバルは江間を気に入ったようだった。
『あの、今日はエマや他の方は……』
今も少し頬を染めて、彼の名だけを出してたずねてくるあたり、間違いはない。
『今人をやっていますから、エマはもう少ししたら来るかと』
シドアードの答えに、フュバルは幸せそうに『嬉しい』と微笑んだ。
フュバルは江間と同じ稀人でこの通り善良、見た目も性格も仕草も郁よりかわいらしい。何より江間に対して、郁よりよほど素直に好意を示している。
(エマにとっても悪い話じゃないはずだ)
シドアードと彼女の会話を聞きながら、シャツェランはそう再確認する。
『一緒に連れてこようと思ったのですが、散歩にでも出てしまったようで』
朝早々に消えたという江間は、多分郁と一緒にいるだろう――シャツェランは内心で苛立ちを募らせる。
自分と違って、彼が気楽にフラフラとうろつけるのが、自由に好きな相手といられるのが、ひどく気に入らない。昨日の面会後の郁の様子を知ろうにも、シャツェランは彼女の姿を見ることすらできないと言うのに。
いっそ江間を側近に取り立てて、見習いなどという気楽な身分でなくさせ、縛り付けてやろうかと真剣に思う。
『失礼いたします。殿下がお呼びと伺い、参上いたしました』
『こんにちは、フュバルさま』
江間と郁がそろって滝見の祠に現れたのを見た瞬間、その思いは一際強くなった。