21-11.帰還能力
「心配した心配した心配した心配した心配した」
「……ごめんってば」
「謝って済む問題じゃない!!」
部屋に戻った郁は、リカルィデにものすごい勢いで怒られている。なのに、それこそに嬉しくなってしまう。
それが顔に出たのかもしれない。目敏いリカルィデに、「何笑ってるんだ!」とぎろりと睨まれて、郁は身をすくめた。
「朝起きたらいないし。戸の鍵はかかってるし。なのに靴はないし。窓が開いてるし。中々帰ってこないし」
「だから、それはシハラが早朝に……」
「大神官ってめっちゃくちゃ偉いんだよ。この神殿で二番目にえらいの。国王と同じくらいえらい大神官長のすぐ下! なんであんなにめちゃくちゃな人なの!」
「いや、それ、私に怒られても……」
「ミヤベのお祖父さんのお姉さんでしょ! 大体ミヤベだって一緒に出てっちゃってるじゃん!」
「……はい」
一通り怒って喉が渇いたらしい。リカルィデは香草茶を口に含むと、窓辺に持っていった椅子にどさりと音を立てて座った。
「それぐらいにしといてやれよ……」
「はあ? エマだって話を聞くなり、顔色変えて探しに飛び出して行ったくせに」
「……普通に冷静だった」
「今更じゃん。顔赤くする必要もなくない?」
「……」
「大体仲直りどころか、なんかいいことあったでしょ、エマ浮かれてるもん。心配したのに損したっ!」
「もうマジで手に負えない……」
言葉通りお手上げという顔で、天を仰いだ江間に郁は笑いを零す。
「笑ってる! 反省してない!!」
すぐにまた平謝りする羽目になったが。
部屋の窓の外に立つ江間は、郁が差し出した香草茶を受け取ると、カップを両手で持って「あったかい……」と呟いた。日は出ているものの風が強くなってきていて、カップから立ち上る湯気が真横に流れていく。
「入ってくれば?」
「男は部屋に入れないって、あの魔女が言ってただろ」
「前から思ってたけど、変なところで真面目……」
「ああ、それ、嘘だって。オルゲィやアムルゼとかも普通に滞在したことあるって」
「はあ?」
「さっきアムルゼがミヤベを訪ねて来たんだよ、その時に聞いた」
「……、っ、あんっのっ、性悪魔女!!」
唖然としていた江間がそう叫び、リカルィデが笑い転げる。
「……」
シハラがあの悪魔のような顔で笑っている幻影が見えた気がした。
賑やかに話し続ける彼らの傍らで、郁は江間の横顔を、それからリカルィデのまだ幼さの残る顔を見つめた。
――話すべきことを話さなくてはいけない。
スゥっと息を吸い込み、吐き出した。
「……リカルィデ、サチコさんのお墓のことだけど」
そう口にした瞬間、笑っていたリカルィデがすっと真顔になった。江間も打って変わった真剣な顔を向けてくる。
「ないのは、ひどい扱いを受けたからじゃない。多分本当に存在しない。向こうに帰ったから」
『……』
「……おいで」
目をみはったままただ郁を凝視するリカルィデが心配で、郁は彼女を抱き寄せる。彼女が何の抵抗もなくすっぽり胸に収まったことで、余計苦しくなった。
「どういうことだ?」
「さっきシハラに案内された先に、祖父の物や祖父と一緒に向こうに行った侍女の物があった。向こうの世界からこっちの世界に戻った人たちの遺品を収めている場所らしい」
「遺品? 戻った人の? つまり……死んだ後、戻ってきた? お前の爺さん……?」
「正確には遺体とそれに伴っていた物と言うべきかも」
目を見開いた江間に、郁は「同じように、こっちに来た稀人も死後向こうに戻るらしい」と言い足した。
「……」
江間は固い顔で口をつぐむと、おそらくはリカルィデとは別の理由で考え込む。その内容を警戒しながら、郁は続けた。
「最初に世界を渡る場合の条件は、まだはっきりしない。多分霧は関わっていると思うけど……。でも渡った後、つまり稀人となった後は、誰もが潜在的に元の世界に帰る力を持つんじゃないかと思う」
「俺や宮部は条件さえそろえば元に戻れるということか」
郁は「多分」と頷きながら、自分の体を見つめる――『異物』という言葉が頭に浮かんでくる。
「条件は稀人本人と死……はごめんだから、別の方法で何とかしたいな」
口元に曲げた指をあて「霧……」と呟いた江間が再び視線を向けてきた。
「なあ、宮部、神森の境の川で出た霧、何か感じなかったか?」
心臓がドクリとはねた。
「江間、も何か感じた?」
「少し妙な気がした。なんか落ち着かないというか……ってことはお前もなわけだ」
少しどころじゃない、こっちの世界に来た時と同じ浮遊感を覚えた――。
だが、郁はそうとは言わず、「あの濃さも異様だった」とだけ返した。あの時、江間と郁に何か違いはあっただろうか、と慎重に思い返す。
「シャツェランもどっかおかしかったし、あの霧はやっぱ意味があるのかもしれない。けど、俺たちは帰れていない。となると、何かまだ他に条件がある……?」
江間が誰に聞かせるともなくぶつぶつと呟き始めるのを聞きながら、郁は目を眇めた。
(稀人が帰るための条件の一つが霧であることを、シャツェランはおそらく知っている)
あの時、服が濡れるのもかまわず彼が自ら川の中に飛び込んできたことや、メゼルで霧が発生した日のやり取りを考えると、まず間違いないだろう。
彼は他の条件も知っているのだろうか? 知っていて郁たちを帰さない? 利用する為に?
(いや、それより問題はサチコさんだ。彼女を日本に帰していたら、もしかしたら彼女は助かったかも――)
わかりにくいだけで、本当は優しいはずの幼馴染の照れたような笑い顔を思い出して、郁は眉間に深く皺を寄せた。
「シャツェランなら、帰す方法を知っていたら彼女を帰したはずだ」と言う昔の自分と、「いや、しない。その方が為政者としては合理的だ。事実昨日だって彼は私たちを道具として扱ったじゃないか」と思う今の自分がいて、混乱する。
(……違う。一番の問題は彼に彼女を返す意思があった場合だ)
その場合に考えられる、一番優しくて一番残酷な可能性に気付いて、郁は唇を引き結んだ。
帰る方法はあった、それを使って帰すこともシャツェランなら可能だった、それでもサチコさんが帰らなかったとすれば、その理由は……――リカルィデにだけは絶対に悟られてはいけない。
「……」
郁は相変わらず何も言わないリカルィデをぎゅっと抱きしめ、その背を宥めるようにさすった。
「…………アヤのお祖父さんの、何がこっちに来ていたの?」
どこかぼうっとした声で、腕の中のリカルィデが呟いた。
「名前の入ったスオッキと遺骨……向こうでは火葬、亡くなった人の体を焼くの。そして、焼いた後残った骨を遺骨と言うのだけれど、それ。お葬式が終わった後しばらくして消えたの」
「……消えた時、どうだった?」
「霧が出ていた。ほんの少し前まで確かにあったのに気付いたらなくて……もういいかなって思った」
江間が音を立てて郁を見た。
祖父が亡くなって郁に残ったのは、彼の骨を祖母のもとにやらなくては、という義務感だけだった。他には何もなかった。
なのに、それすら消えた――そう気付いた瞬間から、郁は時間の感覚も体の感覚も、わからなくなった。
何もする気が起きなくて、でも祖父母しか鳴らす人のいなかった、もう鳴るはずのないスマホが鳴って、ようやくあの世から呼び出しが来たのかと嬉しくなって出たら、祖父でも祖母でもなくて、ひどく悲しくなった覚えがある。そこから、なぜか江間の声が響いてきて……。
真っ青な顔で自分を見ている江間と目を合わせ、郁は苦笑を零した。
「……私と一緒だ」
「うん」
どこを見ているかわからなかったリカルィデの目が、郁の顔で焦点を結んだ。
「サチコは……向こうで家族に、マサチカさんやショータに見つけてもらえたかな」
「……わからない」
「じゃあ、向こうに行って、探して、家族のところに連れて行きたいな」
「そうだね。一緒に探そう」
その瞬間、リカルィデに表情が戻った。くしゃりと歪んで、泣き笑いを顔に浮かべる。
「ミヤベ、ありがとう」
「私もありがとう。リカルィデがいてくれなかったら、ここまで来られなかった。祖父がどこに行ったのか、永久にわからないままだった」
(この子は私と同じだ。死なないでくれてよかった。惑いの森で連れ出せてよかった。一緒にここまで来られてよかった――)
もう一度ぎゅっと抱きしめれば、リカルィデも抱きしめ返してくれる。
「……俺もそこに入りたい」
拗ねたような江間の声に、涙目のままのリカルィデが郁の胸の内でぷっと音をたてて笑った。
「エマもありがとうって、ちゃんと思ってるよ?」
「私も感謝してる」
窓枠越しに二人で江間へと腕を伸ばせば、彼の長い両腕に揃って抱え込まれた。
雪を冠した山から冷たい風が吹き付けてくる。だが、苦にはならなかった。