21-8.サクラコ
「……」
明け方、まだ暗さが残るうちに久々にすっきり目覚めた郁は、目を瞬かせる。
昨日あれから、郁はリカルィデと「想像と違い過ぎる」とシハラについて愚痴り合い、祖父の女性を見る目について二人で品評しあって「ない」という結論を出し、果ては、その祖父を捕まえた祖母の桜子は「彼を救う女神だったに違いない」とか言いながら、本当に部屋に届けられた夕飯を食べ終えた。
そして、シハラの秘書のようなことをしているらしい神官ケデゥナ・リィアーレに連れられて同じ棟にある湯浴み場に行き、そこに貯めてあるお湯でせっけんを使って髪や体を清めた。
メゼルなどにも共用の湯浴み場があるにはあるが、性別を隠している郁は中々使えない。鉄師たちにもらった金盥を使って、いつも家でちまちま体を清めている郁は、湯浴み場で贅沢にお湯を使い、髪を洗い流しているうちに感動で泣けてきて、リカルィデに変な物を見る目で見られた。
それから部屋に戻り、二つあるベッドをくっつけて一緒に寝転がって、お互いの今日について話した。
「じゃあ、土蟲の被害は神殿でも調べてるってこと?」
「うん、二種類が同じ種なのは神殿でも気づいてたんだ。大きい方がイェリカ・ローダだという点を除いて、オルゲィに送ったのと同じ内容を話したら、地方の神殿に対策を連絡して、出来るだけ対処してみるって……なんかおかしいんだよ」
「おかしい?」
「うん、だって私だよ? 一応王弟の従者ってことになってるけど、文官見習いですらない、しかも子供。なんでああも真剣に話を聞いて、すぐに動いてくれるんだって思わない?」
「……王弟の口添えがあったから?」
「にしたってさ、ちょっと行きすぎな気がするんだよ」
「まさか……ばれた?」
「それも違う気がする……」
首を傾げながらも、リカルィデは「明日は米と稀人について調べてみる」と言って、自分の方の話を閉めた。
促されて、次に郁が話し始める。
佐野と引き合わされたと告げれば、処刑されたはずの彼女が生きて保護されていることに、リカルィデもひどく驚いた。
「つまり、ミヤベとエマでサノを試したってこと? 記憶が本当にないかどうか? ……あったら、どうするつもりだったんだろう」
「佐野さんのほうは、一番穏やかな扱いで神殿で軟禁――体を縛られたりはしないけど、神殿から出られなくする、外部と接触できなくするとかだと思う。そのつもりで私だけ別ルートで連れて行って、人気のないところで会わせたんだろうし、彼女に接する人もこれまでかなり限られていたみたい。私のほうは、彼女が私を稀人だと指摘した場合、それを弱みとして、何かしらの要求を突き付けてくる気だったんじゃないかな」
『……』
言葉を詰まらせたリカルィデに、「シャツェランは悪人じゃないけど、素で人を道具として扱える人間なの。そういう生まれで立場だから仕方がないことだけど、リカルィデ、油断しないようにね」と言えば、彼女は難しい顔で考え込んだ。
同じ生まれで立場だったはずなのに、この子とは大分違うな、と急速に背が伸びている目の前の少女を眺める。
「そういえば……戻って来た時、エマと喧嘩していたでしょう? サノが原因?」
気を取り直したのか、そう水を向けてきたリカルィデの観察力は相変わらず素晴らしい。が、今回はありがたくなかった。
考えないようにしていたのに、結局彼とのやり取りを全部吐き出すことになって、挙句聞き終わったリカルィデに、「エマはエマで無神経だし、ミヤベも相変わらずだ」と白い目を向けられる羽目になった切なさときたら。
「ちゃんと話しなよ。多分誤解があると思う」
「……」
「ちゃんと話せって、ミヤベもエマもいつも言うじゃん! 大体ミヤベは、自分の気持ちを説明する言葉がいつもぜんっぜん足りてない!」
そう言われると返す言葉がなくて、江間と話すと約束させられた時の情けなさも、中々だった。
それでも、話してなんだかすっきりした。問題が解決したわけじゃないのに、と不思議な気分になりながら、そのままリカルィデと一緒に寝てしまったのだが、そのせいかもう何年も覚えがないほど、すっきり起きることができた。
「……」
(そういえば、誰かに愚痴ったのって、いつ以来だっけ……? お婆さまもお爺さまも体調が悪かったし、友達もずっといなかったし……)
『ぅんー…』
郁が起きたせいで、リカルィデの布団がずれてしまった。寒さのせいか、顔を顰めた彼女に慌てて布団をかけ直す。ピンク色のあどけない唇がもにょもにょと動いたのを見て、くすっと笑った。
最近この可愛い口から、すごく生意気な言葉が出てくるようになった。江間は反抗期と嘆くが、嬉しそうでもある。郁としても、遠慮がなくなってきた証拠のような気がして嬉しい。昨日みたいにやり込められると、「十も年上なのに私って一体……」という気分にはなるけれど。
「……」
頬にかかった金色の髪をそっと横に流すと、彼女の口元がふよっと緩んだ。つられて笑って、郁は静かにベッドから足を下ろす。
窓の外を見れば、まだ夜明け前だ。東の黒々とした森の上に見える地平線の際がほんのり光っている。残りの空は夜の名残の青に覆われていた。
(江間は起きているだろうか? まだ怒ってる……?)
そっと左腕の感触を確かめる。
「他はどうでもいいって何度言ったらわかる?」
昨日のような恐ろしい顔と声を、江間が郁以外の人に向けるのを見たことがない。やっぱりとことん相性が悪いのだろうと苦笑してから、それでも、と思ってしまった。
自分はきっと嫉妬しているのだろう。シハラが彼と佐野について言及した時、耳を塞ぎたかった。そうかもと思っていたのに、本当にそうだったと知りたくなかった。
前はこんな風じゃなかった。そして、それが意味するのは……――。
「……え゛」
不意に窓の外に人影が見えた。音を立てて立ち上がり、身構えた郁は即硬直する。
「な、なんで……」
微妙な歪みのあるガラスの向こうでにっと笑い、ちょいちょいと手招きしているのは、大神官シハラ、その人だった。
慌てて窓辺に近寄って、窓を押し開いた。身震いするような冷気が吹き込んでくる。
『一体、何をしてらっしゃるんですか』
『朝の祈祷が終わったから、散歩しているの。起きているなら、付き合いなさい』
『……表から来ればいいでしょう』
『それじゃ普通過ぎてつまらないじゃない』
『……着替えますので、しばらくお待ちください』
(この人、本当に祖父の姉なのか……)
もう何度目か判らないため息をつき、急いで身支度を済ませると、郁は獣の皮でできたブーツを持ってきて窓から出た。
目を丸くするシハラに『普通じゃつまらないんでしょう』と言えば、彼女は声を立てて笑った。
東から日が薄く顔を出し、森の上に漂う霞を照らし始めた。神殿の敷地の東を流れ落ちていく滝から薄い水蒸気が風に乗って舞い上がり、まだ弱い日の光を拡散する。
『……コトゥド、結婚できたのねえ』
横を歩く郁をしげしげと眺め、ものすごく意外そうにつぶやいたシハラに、郁は吹き出した。
『あの子、どうしようもなく真面目だったでしょう? グルドザになると決めてからはずっとスオッキだのなんだので、女の子にも興味がなくて……だから、あんなバカ女に引っ掛けられて、あっちに行く羽目になったのよ。育て方、完全に間違えたわ』
『バカ女……』
とはトゥアンナのことだろう。そこも含めて何もかもあたっているとは思うが、祖父に少し同情したくなってくる。
『コトゥドのお嫁さんはどんな人?』
『……言葉の勉強をしている人でした』
シハラは弟である祖父の人生を想像しようとしている、できるだけリアルに――。
彼女と祖父はもう半世紀以上会っていない。世界すら隔てられてしまった。遠い記憶の中の彼と、離れてしまったその後の彼を結び付けるかのような話題を振ってくる彼女に、胸が詰まった。祖父が彼女をずっと慕っていたように、きっとシハラのほうも祖父を大切に思ってくれていたのだろう。
『違う世界の言葉に興味を持って、彼に、祖母曰く“散々付きまとった”そうです。祖父は“毎日毎日筆と紙を持って押しかけてきて、話せ、書け、あれはなんと言う、これはどういう意味、と話しかけられまくった。ニホンの女はなんて妙なんだと思った。気付いたら、言葉が少しわかるようになって、笑えるようになっていた”と』
郁の話を聞くシハラの目は、皺の中に埋もれてしまいそうなほど、細められている。
その顔を見た瞬間、泣きそうになった。郁と同じように祖父を偲んでくれる人はこの世にもういないと思っていた。
『祖母は元々結婚する気自体、まったくなかったそうです。けど、まっすぐで誠実で優しくて、でも不器用で……どうしても祖父が良い、絶対に逃がせない、と思ったのだそうです』
『納得したわ。それぐらいでなければ、あの恥知らずなトゥアンナから、あの子を引き離せたりはしないもの』
『私もそう思います』
『会ってみたかったわ……』
『会えていたら、祖母もきっと喜びました』
シハラと祖母は、きっと気が合った気がする。
『彼女の名前を教えてくれる?』
郁が告げた祖母の名前を、シハラは大事そうに口の中で何度か繰り返した。
『じゃあ、あなたの名前は? 「ミヤベ」はリィアーレ、家の名でしょう?』
そこまでわかるのか、と郁は諦めを含んだ苦笑を零した。
『「郁」と言います』
『アヤ、光――』
そう言って、シハラは本物の光を見るように、目を細めて郁を見た。
陽の姿が大きくなるにつれ、森の木々の間を漂っていた霞が空へと昇華していく。
「……」
シハラの歩き方はただの散策じゃない。目的地がある。そう気付いたが、郁はそれに触れぬまま彼女について行った。