21-4.“フュバル”と鏡像
「……」
思考が再開するまでの時間を永遠のように感じた。
小さめの丸顔、細い顎、大粒の目と大きな黒目が印象深い、かわいらしい顔立ち。皆の注目を受けて、照れと恥じらいを見せるのも同じ。西洋人のように緩く癖をつけていた栗色の髪の名残は、耳の辺りから下に残っている。
間違いない、郁と同じ研究室の、一年後輩の彼女だ。
(死んでいなかった、生きて、今、目の前にいる……――ドウヨウスルナ)
目を見開きそうになるのを、郁は即座に抑え込んだ。自分を見つめる黒の目と青の目が、脳裏に浮かぶ。
(騙せ、絶対に失敗するな――佐野が、誰が何を言おうと、絶対に白を切り通せ)
この場で稀人だとばれれば? 彼らが、大神殿がどう利用しにかかってくるか、わかったものではない。何よりリカルィデだ。自分たちと一緒にいる彼女の素性に辿り着かれてしまうことだけは、絶対に避けなくては――。
「……?」
背筋に汗が流れることを感じながら、郁は全力で無表情を装う。
その上に、怪訝そうに見えるはずの色を貼りつけた。大げさにし過ぎてはいけない、「この若い娘は一体?」という程度だ。
その間も郁は、佐野の顔を注視する。心臓が痛い。情けない話だが、その彼女が何の意図を持って、ここにこうしているのか、もしくは居させられているのか、どう動くかさっぱりわからない。
『あの、申し訳ありません。わざわざ、ご、ごそくろ、頂きまして』
声も間違いない。だが、危惧に反して、佐野は郁だけを見ているわけではない。ひどく不安そうに視線を忙しなく揺らし、おどおどとしている。潤んだ瞳と相まって、庇護欲を掻き立てられるが……。
「……」
戸惑って見えるように、軽く眉根を寄せ、郁は曖昧に頷く。
佐野、なはずだ。けれど、こういった周囲をうかがい、怯えるような様子を、彼女が見せることはなかった。
彼女は江間と同じく陽キャだ。自分の能力や性質、見た目に自信を持ち、他者とのコミュニケーションを好み、性格も明るい。気性も可愛らしく、素直で、思ったことを率直に口にし、アクティブに行動するはずだ。
(ひょっとして、私に気付いてない? いや、確かに髪はバッサリ切ったけど、一年以上平日は毎日のように顔を合わせていたのに、目の前にいて気付かないなんてことがある?)
内心本気で戸惑っているのは、この際好都合ということにして、郁は軽く首を傾げながら、視線を周囲の人間へと向け、彼らの意図を探る。
(彼らは佐野が佐野、つまり稀人だと知っているのだろうか? 知っていて、私に会わせている? 私たちの正体を探るために……?)
大神官長にもゼイギャクにも、特段の反応はない。横のシャツェランの顔にも変化はない。が……、
(――あれは演技だ)
雹の降った日に収めることにした怒りが、再び首をもたげるが、素早く押し込める。
アムルゼは、と彼に視線を向ければ、そもそもこちらを見ていなかった。
(シハラ、は……)
『……』
緑が微妙に強い、はしばみの目と視線が絡んだ。その瞬間、シハラ・リィアーレの口の両端がにぃっと弧を描いたのを見て、郁は軽く目をみはった。すぐに表情を戻したが、疑念が湧いてくる。この人は本当に祖父の姉なのか――。
『彼女はフュバルと言います』
孫を見るかのような目で大神官長は、佐野を紹介した。
(フュバル?)
頭の中で疑問の嵐が吹き荒れるが、顔に「はあ。そう言われても……」という表情を貼りつける。
その間も郁はそうとばれないよう、全神経を彼女に集中させる。
(眉の動きは? 目は? 口元は? 頬は? それぞれの動きは自然か? 連動に歪さはないか? 瞳孔の大きさは? 瞬きの回数は? 視線はどこを向いている? 揺らぎは? 身じろぎの程度はどうだ? 指先の動きは?)
嘘を吐く者、隠し事をする者、謀る者、後ろ暗さや悪意を持つ者の気配を全力で探っていく。
『あ、あの、すみません、む、無茶? 無理? を言って』
そう言いながら彼女は郁に向けて頭を下げた。ターゲットはやはり自分だったと警戒を強める一方で、その仕草に懐かしさを覚えた。
(日本人、やっぱり佐野だ。だが、フュバル? ……はバル河に属する存在というような意味だ。一体どうなっている? そもそも彼女は福地たちと一緒にバルドゥーバに行ったはずで、その後処刑されたのでは?)
『「ええと」これ、この前、分けてもらっ……いただいて、私の記憶、だと「せっけん」という名前で』
手の内の香油入りの『洗衛石』を見せ、たどたどしさの残るディケセル語で話しかけてくる。そこに含まれる日本語に、やはり佐野だと確信する。だが、何か話が噛み合わない。
佐野は悲しそうに円卓に視線を落とした。長く密な睫毛の下に、涙が滲んでいるのが見えた。
「……」
疑念の理由は違うが、不自然にはならないはず、と素早く計算すると、郁は眉根を寄せる。
『だから、これ、作ったという人に会ってみたかった、です。そうしたら……「何か思い出せるかも」』
消え入りそうだったが、佐野の最後の言葉は完全に日本語だった。
理解できるが理解できない――思い出せる? つまり今思い出せない……。
記憶喪失という言葉が浮かんできて、郁は眉をさらに寄せた。胡散臭すぎないか、と思ってしまう。
『確かに私です』
余分な情報を与えまいと、短く答えた郁に、佐野は目を丸くすると、がっかりしたような顔をした。そういうところこそ本当に佐野だった。感情がそのまま表情に出て、愛らしい。
彼女は素直で、良くも悪くも流されやすいところがあった。嫌がらせめいたことをされたことがないわけじゃないが、すべてこっちに来てからのことで、彼女が中心だったことも、手が込んでいたこともない。
(基本は単純で善良なはずの彼女が誰か、私を陥れるために、こんな手の込んだ芝居をするだろうか? 誰かに言われたとしても、ここまでうまくできる? ……では、本当に記憶がない?)
疑問が頭の中で爆発しているが、そうと悟られないよう、郁は細心の注意と共に困惑を顔にのせる。余計な情報を与えぬよう、沈黙を貫く。
『私、何も覚えてない、です。自分の名、もわからなく、それで「せっけん」じゃなくて、せ、せんえいえき? を知れば、思い出せるかもしれない、と思って……あ、あの、しばらくお話ししても、いいですか?』
佐野のリスを思い起こさせる黒目がちの瞳が、すがるように郁に向けられた。その中に、惑いの森で見たような悪意や、大学で時折感じた見下しがないのを察して戸惑う。冷静に考えれば、それもどうなんだという話なのだが。
『……許可をいただければ』
郁は覚悟を決めると、無表情にシャツェランを見遣る。青い瞳が平坦に『許可する』と返してきた。その裏を読む。苛つき、疑心、落胆――何に対してだろう?
『ありがとうございます!』
一瞬見入ってしまうような可愛いらしい笑顔で、シャツェランに元気にお礼を言っているあたりも、佐野以外の何者でもないのだが……。
計算の上、郁は微妙な困惑を混ぜて、佐野に向けて愛想笑いを浮かべてみせた。
『あの、お名前は』
『ミヤベです』
シャツェランたちの神経が、自分たちに集中したのを敏感に感じ取りながら、郁はしれっと言い放つ。
佐野の眉根が寄った。
「……どこかで聞いたことがあるわ」
内心で「そりゃそうだ」と思いつつ、佐野の日本語のつぶやきを聞き流す。シャツェランの反応を見たい気がしたが、抑えた。
『その「みやべ」というお名前、お聞きした、気がします』
『そうですか』
こちらふうの発音ではなく、完全な日本語発音で、佐野は郁の名字を繰り返し口の中で唱えている。
『どこかで、お会いしたことは、ないでしょうか?』
『“どこか”をご提示いただければ、心当たりを探ることもできますが』
少しだけ申し訳なさそうな顔をしながら、郁は再度佐野の反応を探る。
だが、探っているのは、郁だけだ。佐野にそんな気配はなく、しょんぼりという表現がぴったりの顔には、惑いの森で見たような攻撃性もない。
(そういえば、研究室の見学に来た彼女と初めて会った時はこんな感じだった)
菊田をはじめとする先輩たちに「どうせ江間目当てだろう」と絡まれて、困っていた。
『……あなたの知る「せっけん」は、どんなものでしたか?』
『え、あ、いい香りがして、その、「お風呂」は、「ええと」、お湯に入って、体を洗う、です。じゃなくて、洗います? あ、洗ってから入る、正確には。その、体を洗う時、使った、と思うです』
身振りを交えながら、一生懸命ディケセル語を話す佐野を見て、郁は顔を曇らせてしまった。
(本当に記憶がないとすれば……? 処刑されたとされているのが彼女であれば、彼女のバルドゥーバでの生活は、あまり良いものではなかったことになる。そのショックで、ということだろうか?)
神殿やシャツェランは、フュバルを稀人だと知っているか、少なくとも疑ってはいる。彼女がどういう経緯でここに来たか、ある程度理解もしているはずだ。だが、彼らはそれを郁に提示することはおろか、佐野本人にすら教えていない。
「……」
合理的な判断だと思う一方で、ひどく不快な思いが湧き上がってきた。
彼女に記憶がないとしたら、ひどく不安だろう。自分が何者で、何が起きたかはわからないのに、自分の本来の場所がここでないことだけは分かる、というのは。
だが、それは神殿にとっても、シャツェランにとっても、重要視されるものではないのだ。稀人はあくまで駒でしかない――そう思い知らされる。
郁はついに本音のまま、眉間を強く寄せた。
『……洗衛石には、色々な香りがありますから、試してはどうでしょう?』
「え?」
『匂いは記憶と強く結びついていると』
惑いの森で推測した通り、バルドゥーバは強国で、同時に恐ろしい国だった。そうと予想していたのに、という後ろめたさもあって、予定になかった言葉を出してしまう。
『……やってみるわ。ありがとう』
目をみはった佐野に、無邪気に笑いかけられて、郁は内心でため息を零した。おそらく本当に記憶がないのだろう、これはこれで厄介なことになった。
ただ、シャツェランたちの意図はこれでわかった。
彼らは佐野が稀人であると知っている。問題にしているのは、彼女に本当に記憶がないのかという点だ。
そのために、本命の稀人である江間の存在を隠しながら、佐野に本当に記憶がないか、バルドゥーバに通じていないかを、郁と引き合わせることで、探るつもりだったのだろう。
(相変わらず人を道具扱いか)
と郁は乾いた笑いを口の端に乗せた。
シャツェランにとって、今の郁の価値は、幼馴染でもはとこでもなく、稀人ということにあるらしい。
だが、対等な存在ではないという点では、変わっていなさそうだ。十年前、喧嘩別れした晩に気付いてしまった彼の感覚を再確認して、郁は悲しいような、ほっとしたような微妙な気分になった。
(まあ、人を人扱いしない奴には、こちらも配慮の必要がない。そういう意味では気楽だな)
そう気を取り直すと、郁は佐野に向けて、江間の微笑を真似した。
シャツェランと神殿が佐野をどう扱うつもりか、わからない以上、何がどう転んでもいいように、この状態の彼女と最低限の信頼関係を、結んでおいたほうがいい。
『では、フュバルさま、後で手持ちの洗衛石をお持ちします。試作、試しに作ったものもありますから』
『じゃ、じゃあ、またお話、できる?』
『ご希望があれば』
嬉しそうに上気した佐野の顔に、控えめに笑い返せば、シャツェランの顔が微妙に歪んだのが視界の端に入った。
『その際は私も同席させてもらおう』
『どうせき……は、すみません、わかりません』
『「私も一緒、に、話、を聞く。心配、だから」で、通じるか?』
「あ、ありがとうございますっ。じゃなくて『ありがとうございます』ですね」
わざわざ日本語を使い、安心させるように柔らかく微笑んだシャツェランに、佐野は顔を真っ赤にし、はにかむように礼を述べた。
「……」
(そういえば、彼女、冗談めかしつつも、「イケメン最高」「古風に言うと、いわゆる面食いなんです、私。どうせ一緒にいるなら、奇麗な顔の人がいいじゃないですか」と堂々と口にしていた)
シャツェランが無駄に愛想がいいのはいつものことだが、先ほどわざわざ「心配」と口にしたことを考えるに、彼も郁同様、佐野の信頼を得ておこうとしているらしい。
『あの、殿下が、私の言葉を、知る、ご存じなことも、とても……「ええと、心強いってなんていうのかしら」、嬉しいです』
『私はできるだけあなたの助けになりたいと思っている』
彼と郁のどちらがより好んでもらえるか。佐野の潤んだ目と染まった頬を見るまでもなく、明らかに勝負にならない。
(となれば、江間がいるな。けしかけよう)
そう思ったところで、もやっとした感情が出てきた。
『なあ、ミヤベ?』
『御心のままに』
人を道具と見なし、感情を弄ぶという点で、シャツェランと同類になってしまうからだ、と性急に結論付けて感情に蓋をすると、郁は無表情にシャツェランへと頷いた。
目が合うと睨んでしまいそうなので、敢えて顔は見ないようにした。
アムルゼが立ち上がるのに合わせて、郁も辞去の挨拶をする。
『送りましょう』
シハラが一拍遅れて立ち上がり、郁たちを見た。その顔には相変わらず古代ギリシア彫刻のような微笑が貼りつけられていて、感情が読めない。
アムルゼとシハラが、並んで扉へと歩いていくのを追いかける。
扉が開かれ、シハラがアムルゼに『滞在中、また遊びにおいでなさい』と温かみのある言葉をかけ、アムルゼが承諾を返し、廊下に出た。
握ったこぶしを胸にあてる、ディケセル版の会釈にあたる動作をして彼に続いた郁に、シハラの目が向いた。理知の色の強い、緑の濃いはしばみ色の瞳だ。
唐突に距離が縮まった。息を止めた郁の目の前で、彼女の両の口角がすっと上がり、目がひときわ強く弧を描いた。
『気に入ったわ――大嘘つきちゃん?』
「……」
(……ああ、わかった、この人をどこで見たか。祖父じゃない、オルゲィでもアムルゼ兄弟でもない、)
『光栄です』
――鏡の中、だ。
郁はまったく同じ、含みのある笑いを浮かべると、シハラの目を見つめた。
『私の棟の客室を用意するわ、そこに滞在なさい』
声を小さく漏らして笑ったシハラは、ローブの裾を翻し、奥へと戻って行った。