21-3.シハラ・リィアーレ
アムルゼ・リィアーレを中心とする文官たちと共に、郁は本殿があった台地から、一つ上の台地へと階段を上り、そこの中心の建物『深殿』に入った。
その内部、大広間に通される。両脇には床近くから天井近くまで細い窓が並び、足首まで覆う白いローブをまとった神官たちが立ち並んでいた。奥の壁の窓からは、青と白の聖ディ山が見える。その前の日だまりに立っているのが、大神官シハラ・リィアーレだった。
アムルゼが紙に記された寄進物の種類と数量を読み上げていく。最後を寄進者であるシャツェランの名で閉めると、その紙を丸めて紐で結び、脇に置いていた青地に金で装飾された箱の上に置いた。
アムルゼの背後にいた文官が、その箱を大神官の前へと運んでいく。中にはせっけんとタオルなどの寄進物がそれぞれ何点かずつ入っているらしい。他の分は既に神殿に届いているというから、この儀式はあくまで形式的なもののようだ。
「……」
郁は集団の最後尾から人の頭越しに、シハラ・リィアーレを見つめた。
背は郁と同じくらいか、少し高いぐらい。髪は白髪、後頭部上方で団子のようにまとめてある。背筋をすっと伸ばして立つ様が祖父に似ていて、彼の話からイメージしていた通り、凛としていてとても美しい人だ。
遠目に見る限り、顔立ちは祖父には似ていない気がするが、郁の知る誰かの面影がある。オルゲィ、アムルゼたち三兄弟、母、自分の妹――知る限りの身内の顔を思い浮かべてみたのだが、誰とも違うように思う。
それでもシハラがアムルゼと話して微笑んだ瞬間、無数にある皺が優しく動き、微妙に祖父に重なった気がした。
彼女は祖父より十近く年上だったはずだ。祖父らの母が早世し、彼女が何かにつけ面倒を見てくれたと祖父は話していた。そして、そのせいで婚期を逃してしまっていたのではないか、とも。
何度も聞いたのは、オルゲィの父でもある、祖父の兄ミゲィドと一緒に、領地の山で遊んでいて迷子になった時のことだ。探し当ててくれたのは姉のシハラで、日が暮れてしまって半泣きになっていた二人を安心させるように火をおこし、暖を取らせながら、眠りについてしまうまでずっと話をしていてくれた、と。
美しく、聡明で優しい人だった、と語っていた祖父を思い出す。その顔が、不意に寂しそうなものに変わった。
「……」
郁は感傷を振り切ろうと、視線を床に向けた。
祖父のことを彼女に語るのが目的じゃない。できればいいとはもちろん思うけれど、リスクが大きすぎる。知るべきは、あっちの世界とこっちの世界が交わり、稀人が来ることを、神殿がどう把握しているか、だ。そのために、血のつながりを利用できそうなら、する。
いつも様々な感情を湛えてこちらを見る、黒い瞳が脳裏に浮かんでくる。同時に、信頼に満ちた、まだ幼い青い瞳も。――彼と彼女だけでもどうしてもあちらに渡したい。
両手の拳を知らず握りしめた瞬間、『ミヤベ』と名を呼ばれた。
『洗衛石の効能と使い方について、大神官様がお聞きになりたいと』
『承知いたしました』
立ち上がって前方へ向かえば、アムルゼとシハラが素早く目配せを交わしたことに気付いた。
(なるほど、二人ともオルゲィあたりから何かを聞かされている……)
――ならば、そこを探ることからスタートしよう。
シハラは、古代ギリシア彫刻に見られるような整った微笑を浮かべながら、郁の説明を一通り聞いた。『さらに詳しい話を』と言われ、今、郁は深殿を出てさらに奥、普段は神官たち以外立ち入り禁止のエリアへと、案内を受けている。
先頭はシハラとアムルゼで、神官十名ほどが彼らに付き従っていた。
『お加減を悪くされたとお聞きして、両親も弟妹たちもみな心配しておりました』
『一度体調を崩すと、なかなか戻らなくて……年は取りたくないものねえ』
『でもこうしてお会いできて、本当にほっといたしました』
『心配してくれたのね、ありがとう。オルゲィやあなたたちの話を聞かせてくれる?』
シハラたちはコントゥシャ神殿の大神官と、メゼルディセル領の内務処官としてではなく、大伯母と又甥として会話している。アムルゼが両親であるオルゲィやサハリーダ、弟妹たちの近況を話し、シハラはそれを微笑みながら聞いている。
「……」
かなり親しいようだ、と思いつつ、郁は首をひねる。
引き続きシハラは微笑んでいるのだが、そこから感情が伝わってこない。江間も同じように基本的にずっと笑顔だが、そこが決定的に違うように思う。
対するアムルゼも、シハラへの親愛を確かに持っているようだが、微妙に緊張しているようにも見える。大神官長が国王に次ぐ地位、そのすぐ下が大神官と聞いたから、当たり前のことなのかもしれないが。
神官たちがまとう、足首丈のシンプルなローブの裾とフードが、吹き込んできた寒風に翻った。身震いしたくなるほど冷たいのに、シハラの表情に変化はない。
近隣の山から切り出されたと思しき白い石でできた渡り廊下の両脇には、等間隔に八角柱が並び、左手の遥か彼方には聖ディ山の雪を冠した頂と、一段目の滝が見えた。
進行方向には最下段の滝が見える。渡り廊下が途切れ、滝見の四阿を過ぎたところで、先頭のシハラが滝の横の階段へと向きを変えた。
また階段、と呻きたくなるのを抑え、一段一段上がっていく。滝側の階段脇には、高さ一メートル、直径十五センチくらいの月聖岩でできた石柱が並んでいる。
風が吹いてきて、郁の外套の裾とリカルィデがくれたマフラーを浮き上がらせた。同じ風に滝の水も舞い上がり、ほてった頬を冷やしていく。青空を背景に飛沫が陽光を乱反射し、石柱の月聖岩をほのかに光らせた。
「……」
(そういえば月聖岩、月聖石の出す光ってどういう性質のものなんだろう?)
郁は階段上りのせいで痛み始めた足から意識を背けようと、石柱を眺める。
(青と金、いや、黄色の光、つまり可視光線のうち特定の波長のもの。それがイェリカ・ローダにとって有害とか? 可視光線は電磁波の一部……つまり月聖岩自体が電磁波を出す? のはあり得なさそうだから、外からの電磁波を反射する……?)
向こうにいる時に調べられれば良かったのに、と郁は胸の内に隠したペンダントに服越しに触れ、ため息を吐いた。
(生き物を殺す能力があるとはいえ、放射能を有しているとかではない……多分。きっと。だといい)
気を取り直そうと、郁は首を振った。
これまでから考えるに、イェリカ・ローダが嫌うのは透明度の高い月聖石、太陽光、土蟲についてはまだ試せていないが、大双月時の月明かり、月聖石よりはるかに劣るようだが透明ではない月聖岩。だが、太陽光由来の電磁波が嫌なのであれば、土蟲に対し、太陽光より月聖石の方が強い殺傷力を持つ理由は何だろう。
(青と黄の光だけ増幅するとか……?)
『あともう少しですよ』
物思いは、階段の終わりを伝えるシハラの声で終わった。
その瞬間、滝の奏でる轟音の隙間を縫うように、聞き覚えのあるメロディが微かに耳に届く。違和感が頭をかすめて、郁は終着点を仰ぎ見ながら、階段を上り切った。
階段の終わりに立つ警備のグルドザたちの向こうには、サッカーコート二面分ほどの面積の土地が広がっていた。
その左側の空間の中央には、入り口のものと似た、石作りの神殿があり、右手には最下段の滝へと続く清流が流れている。あの神殿がおそらくシャツェランの言っていた『高殿』だろう。
その周囲には、尖塔を備えた大小の青と金の建物が散らばっている。よく見れば、奥の崖には、窓のように規則的な四角い穴が開けられていた。あの内部も利用されているのかもしれない。
その上へと山肌が続いて行き、空近くに聖ディ山の白い頂が見えた。あまりの高さに、こちらを圧迫してくるように感じてしまう。
高殿から延び、川の上に渡された橋の向こうには、崖を削って作られた階段があって、その上にはまた別の建造物があるようだった。
『こちらです』
高殿に入り、奥に進んでいく。何回も角を曲がった突き当りの高さ三メートルほどの両開きの木戸が、神官たちの手によりシハラの目の前で押し開けられた。
ドーム状の屋根の下の空間も円形だった。微妙に薄暗く、その中央、天窓越しの光に照らされた円卓に、四人座っている。
先ほど別れたシャツェランとゼイギャク、見るからに高位の神官と、シハラと同じようなローブ姿のもう一人。江間は……いない。
彼らを認識するなり、郁の全身に警戒が広がった。シャツェランがこちらに目を向けようとしないことで、何かあると確信する。
『シャツェラン殿下、御身ご壮健のご様子、心からお慶び申し上げます』
『伏せっていたと聞いたが、元気になったようだな。何よりだ』
シャツェランの輝かしい微笑に、変わらない微笑を返したシハラは、寄進への礼を口にした。
儀式めいた言葉の応酬が続くのを聞きながら、郁は表情を消しつつ、この空間に何があるのか探ろうと神経を集中させる。
シャツェランの横にいる老人は、おそらく高位の神官だ。シハラと同じ服装だが、月聖石の首飾りがさらに豪華なことを考えると、彼こそが大神官長なのだろう。
その横、ちょうど郁の真正面の場所にいる、フードをかぶった人間の気配を、郁はそうとわからないように窺う。
王弟と大神官長と同席していながら、顔を隠すことを許されている、もしくは隠すよう言われている――その理由はなんだ?
シハラの王弟への挨拶が終わると、次はアムルゼと郁が挨拶をする番らしい。シャツェランの横の人物は、郁の予想通り大神官長で、郁はアムルゼの所作を記憶して、その人に対し、跪礼を取る。
『階段だらけで疲れただろう、席に着きなさい。何、気にしなくていい、私たちも洗衛石とやらの話を聞きたくてね』
しわがれた声で、シハラのみならず、アムルゼと郁に着席を促した老人は、戸惑いと恐縮を露にしたアムルゼに、気安い言葉をかける。
『それに君たちのような年若い者が一緒の方が、彼女も緊張をしないで済むだろうから』
(――彼女? 年若い……)
大神官長は自分の横、郁の正面に座る人に目を向け、小声をかけた。郁が探っているその人が細い手で、顔まで隠していたフードを取り払う。
「……」
その下から現れたのは、佐野、だった。