21-2.コントゥシャ大神殿
一行は川の上に渡された、木製の橋を渡っていく。
『……』
アーチ状に反り返った橋の頂上で、下の川を覗き込めば、あれほど濃かった霧は完全に消えていた。
『落ちるなよ』
声をかけてきたのはシャツェランの兄弟子であり、メゼルディセル領の第一師団筆頭兵士団長のシドアードだ。シャツェランに命じられたと、『神森でわざわざ狙うかねえ』と首を傾げながら、郁たちのもとにやって来た。
陽気に響く声の中に、微妙な警戒を含んでいるのは、先ほどの『逃げる』というシャツェランの言葉が頭にあるのだろう。
『コルトナ、なんか不審な点はあったか?』
『いえ、特には……』
『だよなあ』
そんな会話を交わしながら、彼らは郁たち三人の両側につき、橋向こうに広がる木立を警戒している。
そうしてまた三十分ほど歩いた頃、神殿に向かう方向とは別に分かれ道が現れた。少し奥に小さな池があり、その中央の島に屋根がドーム状の白い石造りの建物がある。周囲ではぼんぼりのような形の、青と黄の背の高い花が咲き乱れ、風に揺れていた。明るい日差しを透かし、建物の壁に青や黄色の光が踊っている。
『……』
『ディケセル王家の廟だよ。神殿での礼拝が終わったら、後で参拝しに戻ってくることになると思う』
リカルィデの目がそちらを向いたのを見て、コルトナが柔らかく話しかける。
(そう言えば、今日はリカルィデと接する時のあの妙なテンションがないな)
と思いながら、郁も廟を眺めた。認めたくないが、自分の父方の祖先もあの中に祀られていることになる。
『……リカルィデ、“お母さん”のお墓参り、したことある?』
二年近く前に亡くなった、リカルィデの育ての親であるヨコテサチコさんは日本人、稀人だ。コントゥシャ神の御使いとされる稀人と、同神を祀り、稀人の来訪の予言や応接などに責任を持つ神殿は、縁が深いはずだ。であれば、ここではなくても、この近くに墓地があったりしないだろうか?
『……お墓、ないんだ。亡くなった時、“皆”がやってきて連れて行かれちゃって、聞いたらそう言われた。どこにやったのか、全然わからない』
目を見開いて郁を見たリカルィデは、問いの意味を正確に察したようだ。泣きそうな顔をして、首を横に振った。
『そう、それは余計悲しいね……』
リカルィデの小さな頭を撫でると、昔の自分の頭を撫でているような錯覚を覚えた。
祖父が亡くなって葬儀を終えて、しばらくした晩のことだった。あの時もひどく深い霧が出ていた――。
「……」
霧とシャツェラン、祖父とサチコ、郁が会ったことのない、トゥアンナの侍女のリョーナ。処刑されたという、郁たちと同じ研究室の誰か。菊田でなければ、おそらく佐野だが、彼女はどうなっただろう……?
郁は視線を伏せる。
『うん。でも……今「自由」、だし、その、ミヤベやエマに会えたし……って、やめろって言ってるだろっ、エマっ!!』
『んなかわいいこと言う奴は、反抗期でも許す』
『それは賛成』
『ミヤベまで!!』
江間と二人でリカルィデの頭をぼさぼさになるまで撫でくりまわし、横から交互に頭と頭をくっつけて、コルトナから羨ましげな視線を受ける。
シドアードは横で苦笑していた。あの我がままシャツェランに付き合えるのだ、やはり面倒見のいい、兄貴分の気性なのだろう。
古い森の向こうに、背後の山から流れ落ちる滝が四つ見えた。一番上ははるか高く、霞んでいて、角度を変えながら二番目、三番目と続き、最後の滝の落下地点で滝つぼになみなみと水を湛えた後、川になって参道の西側へと流れていく。
最下段の滝の左側斜面を階段状に削った土地の上に、柱と尖塔、青と金色の塗りの目立つ、石造りの建物が林立している。
建物の間を縫うように細い階段が上へと続いていくが、その先は所々尖塔が見えるだけで、どれぐらいの広さの土地があり、どんな建物がどれぐらいあるか、下からはまったく見えなかった。
『ここからが実質の大神殿だ。ここから先、三つの台地がある。まずは最下段の本殿に行く』
前を行く人たちが皆滝つぼから広がる水辺で膝をつき、聖ディ山に首を垂れ、何事かを口にしている。
『何を言っているんですか?』
『神の加護への感謝と自身の望みだ』
教えてくれたシドアードに続いて膝をつきながら、神への感謝……は分からないので、とりあえず生きていることを感謝することにした。
(あとは……)
「……」
横にいるリカルィデと江間を見れば、リカルィデは目を閉じ、顔を伏せて、真剣な顔で何かをつぶやいていた。奥の江間は昂然と顔をあげ、目の前の光景を強い視線でじっと見つめている。
その黒い目がすっと動き、郁をとらえた。郁は息を飲むと、慌てて顔を伏せる。
(ええと、望み、望み、自分の……――ちゃんと向こうに返したい)
浮かんでくるのは二人の顔だ。どの神様に祈ればいいのか、相変わらずわからないから、祖父母を想い浮かべ、郁は目を閉じた。
そのまま左手に曲がり、最初の台地に続く階段に足をかけた。両脇には惑いの森でよく見かけた月聖岩でできた柵があり、時折日差しに青や金の光を煌めかせる。
上に上に続いていく階段を登り切って、また別の階段に移り、を繰り返す。
「……」
数百はあろうかという段を登りきると、着いた場所は想像よりはるかに広く開けた台地だった。
目の前の、尖塔を備えた大きな石造りの建物が、先ほどシドアードが言っていた本殿だろう。周辺には食事処や休憩所、本殿に入るまでの待機所、神官やここで働く人々の宿舎など、大小様々な建物があったが、今はまったく人の出入りがなかった。
王族など高位の人間の参拝時には、安全確保のために、参道を封鎖すると言っていたから、ここも同じなのだろう。
一行の最後に、郁たちも本殿に入った。参拝者はまずここに入り、身支度を整え、コントゥシャ神が祀られている奥へと礼拝に進むことになるという。
本殿の正面ホールは、直径が三十メートルはありそうな円形をしていた。天井はドーム状で、所々にガラスがはめられていて、外の陽光が内に注いでいる。ガラスが歪なせいだろう。虹色に光っている場所もあった。
(色ガラスにしないのは、日の光を尊ぶ習慣だからかな)
そんなことを考えながら、郁は巻頭衣の懐に入れておいたハンドタオルを取り出し、汗をぬぐった。中々息が整わない。
郁と同様、周りの人たちも呼吸が乱れていて、荒い吐息と途切れがちな話し声が石造りの建物の壁に、柱に、天井に反響しては消えていく。
『飲む?』
床石の上にへたり込んだリカルィデに、竹に似た形状の植物を加工して作られた赤い水筒を差し出すと、受け取るなり性急に飲み干した。その後、息絶え絶えに何かを言ったが、多分お礼だろう。
『シドアードやコルトナが背負うって言ってくれたんだから、おとなしく甘えてもよかったのに』
『ぜったい、に、やだ……』
リカルィデはずっと城にいて、まともに運動したことがない。大分ましになったとはいえまだまだひ弱で、実際ここまで来るのに恐ろしく時間がかかった。それでも最後まで自力で登り通すあたり、本当に頑固だ。
(まあ、気持ちはよくわかるけど)
変なところで自分との血のつながりを感じて、郁は思わず苦笑を零した。
少し離れた場所では江間がコルトナと話している。郁とリカルィデの荷物や外套を持っていたのにも関わらず、彼のほうは少し息が弾んでいるぐらいで、余裕しゃくしゃくなのがちょっと悔しい。
その彼より癇に障るのが――、
『情けないな』
(わざわざ嫌味を言うために来たのか、この男は)
先頭で最初に上り切って休憩していたからか、向こうからやって来るシャツェランの顔は平静そのものだ。
「……」
馬鹿にされるのも癪で、郁は荒いままの息と染まった頬を鎮めようと、静かに深呼吸を繰り返す。
リカルィデも悔しそうな顔で立ち上がったが、よろけた。その彼女を咄嗟に支えたことだけは褒めてやるが、いちいち腹立たしい。
『……』
そのいけすかない相手に顔をしげしげと見られて、郁は思わず眉を寄せた。
「っ」
頭にタオルがバサッとかかった。
『――ご用件は』
『用がなきゃ来るな、という風に響くが?』
その下からシャツェランを見れば、彼は口元に笑いを浮かべつつ、郁の横に並んだ江間を睨んでいた。
『お忙しい殿下の御身を慮ってのことです』
『本音は、寄るな、あたりのくせに』
『さすがご聡明でいらっしゃる。あ、見るな、も追加で』
苦虫をかみつぶしたような顔をしたシャツェランに、今度は江間がにこりと笑った。
シャツェランが何を言おうと、江間は良くも悪くもそれを否定しない。会話の内容も仲が悪いのか、逆にいいのか、さっぱりだ。実にいい神経をしている、と郁は呆れの息を吐き出した。
『確かに私は聡明でもあり、忙しくもある。そこを理解しているなら、文字でも何でも覚えて、もっと役に立て』
『読めないなりに、役に立とうとしてるじゃないですかー』
『足りん』
『努力を認めてやらないと、配下の心は離れていくんじゃないですかねー』
『配下という殊勝な心構えをしていないくせに、よくもぬけぬけと』
(ほんと、よくやる……)
棒読みでシャツェランに応じる江間に呆れながら、ふとリカルィデに目をやれば、さっきまで赤くなっていた顔が青くなっている。
この世界的にはこっちの感覚が正常だ、と郁がため息をつけば、江間との掛け合いに飽きたのか、シャツェランの青い目が郁に向いた。
『これから本殿に礼拝に行く。その後、私とゼイギャクたちは、高殿で大神官長と会談を行う。エマは私と共に来い。アムルゼらは深殿の大神官に寄進の報告に行くから、ミヤベは一緒に行って、進物の仔細を説明して来い』
大神官シハラ・リィアーレとの面会がいきなり決まって、郁は息を止める。
(ひょっとして……おじいさまの姉と知って、会わせようとしてくれてる……?)
知らず幼い頃好きでしょうがなかった、シャツェランの美しい色の瞳を見つめた。
『リカルィデはどうする?』
「……」
彼が視線をすっとそらし、郁は目を眇めた。
違う。生まれのせいもあるだろうが、そもそも彼は血縁の情が理解できるタイプじゃない。となると――何かある。不自然にリカルィデに気を配っているのも、多分そのせいだ。
『え……えええと、どう、どうって、ええと』
『神殿の記録を見せてもらうのは? コレの情報を探すんだろ?』
『では、話をつけておこう』
『あ、ありがとうございます。あ、あの、ついでに土蟲の話、もいいですか……?』
『かまわない。お前の希望をできるだけ叶えるよう、伝えておく』
江間が出した助け舟に、リカルィデのみならず、シャツェランも押し隠した安堵とともに乗ったことで、郁は確信する。
引き離したいのは、リカルィデではない。ならば、ターゲットは自分と江間、どっちだ?
「……」
江間を見れば、鋭い視線で目配せが返ってきて、郁も小さく頷き返した。
シャツェランの意図は分からない。だが、祖父の姉、シハラ・リィアーレに会えるのはありがたい。ついては、謹んで“王弟殿下”の思惑に乗ることにしよう。