21-1.バル河
(空に壁があるみたい……)
郁はホダの背の上から、森の樹冠の向こうにそびえたつ聖ディ山を仰ぎ見る。
遠目に見えていた山は今や、仰ぎ見なくては全容が視界に入らないほどになった。まるでこちらに迫ってくるような圧迫感を覚える。
始まりの神コントゥシャを祀る大神殿は、その聖ディ山から流れ落ちる滝の流れが惑いの森から流れてきたバル河と交わるあたりにあるそうだ。
神殿の敷地内のこの広大な森は参拝者以外、そして参道以外立ち入り禁止で、一行は前夜、森のすぐ外側にある街の宿に泊まった。宿や飲食店、物産店などからなる賑やかな門前町だ。そうして、今日まだ暗いうちに神殿に向けて出発し、今は人気がまったくない林道を進んでいた。
この森は惑いの森と起源が同じだそうで、大人が四、五人でようやく抱えられそうな古い木々が、そこかしこでのびのびと枝を空に伸ばしている。松に似ているけれど、葉は先半分が赤く、残りが緑色をしている。
(光合成もしくは光合成と似た仕組みを持っているのは確かだろうけど、クロロフィル、カロテノイド……光合成色素も共通なのかな。こっちの世界とあっちの世界、似た生き物と明らかに違う生き物がいる理由はなんだろう)
ホダの上から周囲を眺め、二つの世界のつながりについて、ぼんやりと考える。人間とイェリカ・ローダ、あっちの世界にもいるものといないもの――。
「滝が見えたぞ」
江間の声に視線を行く手に戻した。雪を冠した聖ディ山の山肌を白い滝が流れ落ちているのが見えた。森の中の空気は、湿り気と冬の冷気を含んでいて、時折鳥や獣の鳴き声が響いてくる以外、静寂そのものだった。
前を行く人たちの歩みが止まった。最後尾から参道の前方を見れば、人の間に水のきらめきが見える。
『ここでホダを下りて、バル河の中でテシャギを受けるんだ』
『テシャギ?』
『ええと、河の水で、体の穢れ、汚れをきれいにすること。と言っても、泥とか汗とかの汚れじゃなくて……』
『神聖な場所に入るために、身を清めるという感じ? なら、訳すと「禊」ってところか』
コルトナの解説の中にあった郁の知らない言葉を、リカルィデが補足してくれた。
ホダから降りる。川幅は二十メートルぐらいだろうか。澄んだ水をたたえるこの川こそが、惑いの森に通じているバル河――この世界への入り口となった洞窟の崖下に流れていた、郁が車や服を投げ落とした河だ。
『あの橋の向こうからは徒歩になるから、あっちでホダを預かってもらうんだ』
そう言って、コルトナは川にかかった木製の反り橋を指で示し、自分と郁たちのホダを川脇の大きな家畜舎へと連れて行ってくれた。
郁は江間とリカルィデとともに一番後ろで、自分たちの禊の順番を待つことになった。その間に、見よう見まねで作法を覚えなくてはならない。
最初に入るのは、やはりシャツェランのようだ。
皮をなめして作られた靴と金属製の脛当てを取り、ゲレダと呼ばれる、裾を足首で絞った細身の袴のようなズボンを濡らし、静かに水に入っていく。
川の中で待ち受けていた神官が、首を垂れたシャツェランの頭に、湯冷ましのような器から数滴、川の水を垂らした。
川面から薄く立ち上る川霧に、背の高い、針葉樹に似た木の上から、まだ青い日の光が降り注ぐ。水鏡のように静かな流れのただ中に立ち、淡い光に包まれたシャツェランの姿は、神話の一場面のように見えた――シャツェランのことだから、寒さのあまり、心の中で毒づいているに違いないのに。
「……見栄っ張りめ」
「雰囲気台無しになったぞ、今」
「っ、エマもだよ! 二人とも、し、しんよう? にしろ……!」
「それを言うなら神妙」
真冬の冷たい水に入りながら、男女問わず見惚れさせる神々しさを醸し出すシャツェランも役者だと思うが、顔色一つ変えず河の中に立ち続ける神官が一番尊敬に値する。
順番待ちの列は静かに進んでいく。
三十分ほど経って、最後尾の郁たちの順となり、三人同時に川に入った。
周りでは禊を終えた者たちが、濡れた体を拭き、脱いだゲレタや靴などを身につけている。口々に何事かを話しているせいで、先ほどまでの荘厳な空気は失われていた。
「……」
ゲレタの裾をたくし上げ、三人は川の水に素足を浸した。細かい砂地の底は痛くはないが、水が刺すように冷たくて、リカルィデが顔を顰める。
(あ、魚がいる。ハゼみたい)
家の周りの小さな小川にもいたっけ、と懐かしくなる。
横の江間を見れば、郁の視線に気づいた彼は、「冬の朝の道場、思い出した」と言い、やはり懐かしむように小さく笑った。
「?」
リカルィデの禊が済み、郁が神官へと首を下げた瞬間、急に川霧が濃くなった。
頭皮へのひやっとした水滴の感触を受けて頭をあげれば、雫が首を伝い降りた。岸にいる人々の姿が不明瞭になっている。
すぐに江間が神官を前に首を垂れ、水滴を受けるが、その姿も急速に霞んで見えにくくなっていく。
「……」
ざわりと鳥肌が立ち、心臓の鼓動が早くなる。咄嗟に江間へと手を伸ばした。
「っと、どうした……?」
延ばした手は、彼の前腕を掴んだ。ちゃんと温かい。
「……な、んでもない」
そう言ったものの、まだ心臓が早鐘を打っている。禊が終わった彼は立ち上がると、微妙に怪訝な、でも穏やかな目をして、郁の手を取った。
「……」
その手をキュッと握り返すと、郁はもう片方の手で、リカルィデの手を握る。
「なに?」
「霧が深いから」
「さすがに迷子になんかならないよ……」
その会話に既視感を覚えた直後、神官に『戻りましょう。足もとにお気をつけください』と促され、岸へと向かう。
が、方向がわからない。
「江間」
「……ああ。離れるな」
思わず名を呼べば、低い声で返答があり、同時に手が痛いほどに握りしめられた。
霧はどんどん濃くなる。もうすぐ川面が見えなくなる。
『困りましたね。時々あるんですが、ここまでひどいのは珍しいな』
戸惑う神官の顔もおぼろだ。すぐそこにいるはずなのに。
こっちに来た時、そして、祖父の話と同じくらい濃い、真っ白な霧、まるで牛乳の中にいるかのような……――
(ひょっとして……帰れる?)
「……」
確かに感じていた、川底の砂の感覚が、足裏から消える。奇妙な浮遊感が生じた。
川面が消える。だが、頭上の空の青はまだうっすら見える。
『アっ、ミヤベっ、エマ……っ』
「っ」
バシャバシャと水音がした瞬間、足の感覚が戻った。
「え、えと、あの声……、っ」
リカルィデの呆然とした声は、いきなり途切れた。
『……リカルィデか?』
『え、あ、はい』
濃淡ある霧の合間から見えたのは、金の髪と青い目だった。リカルィデの自由な方の手を握っていて、彼には珍しくひどく焦っているように見えた。顔色もあまり良くない。
≪――霧の間だけだ≫
その刹那、郁の脳裏にメゼル城の圃場で聞いた彼の声が響いた。
『……戻るぞ』
その郁と目が合ったシャツェランは目を逸らし、リカルィデの手を引いて、早足に岸へと向かう。
数珠つなぎで引っ張られて行く足もとで、バシャバシャと勢いよく水音が立った。次第に霧が薄くなっていく。
江間を見れば、先ほどまであった緊張感はどこへ消えたのか、「幼稚園児のおでかけみたいじゃね?」といつもの調子で呟いた。
「……だね」
笑おうとしたのに、うまくできなかった気がする。
早くなったままの心臓を戻そうとしながら、郁はそっと江間の手を離した。だが、彼に握り直され、さらに指が指に絡めとられる。
――これなら、「幼稚園児」じゃないだろ。
足元で立つ水音の合間に、そんな声が聞こえた気がした。
『殿下、いきなり走り出したと思ったら、何をやっていらっしゃるんですか、って、あーあ、またずぶ濡れ』
水の中、シャツェランを追って来たシドアードの呆れの声の後ろで、シャツェランの身の回りの世話をする侍従たちが、慌ただしく布やら着替えやらを取り出している。
『前触れなく動かないでいただきたい。特にこのような霧の中では、お守りすることが難しくなります』
岸で待ち受けていたゼイギャクの咎めに、シャツェランは顔を顰める。
『霧に乗じて逃げられるのも殺られるのも癪だからな』
『っ、逃げたりしない……っ、……です』
手を引かれたままのリカルィデが、むっとした声を出した。シャツェランは彼女の手を離すと、つまらなさそうな顔で肩をすくめる。
『俺の周りの「ツンデレ率」、異様に高い気がするなー』
『? 「ツンデレリツ」とはなんだ?』
『殿下が知る必要のない、下々の言葉です』
『……』
にっこり笑う江間に、胡散臭いものを見る視線を向けると、シャツェランは郁を振り向きもしないで、着替えを促す侍従たちの方へと歩き去った。