2-4.バルドゥーバ人
江間の気配が変わった。彼の踏み込みに足並みをそろえ、死角となる木立の中から飛び出すと、それぞれの担当へと木の棒を振るい落とす。
『うがっ』
『ぐ』
言葉どころか目線を交えることもないまま、強盗は呆気なく成功した。悪だくみをしている割に随分と情けない、と後頭部を強打されて転がっている神官二人を半眼で眺めつつ、郁は彼らの荷を物色する。
食料、水筒、金、熔かしてしまえば足がつかないだろう金銀の細工物、三叉のスオッキを含む短刀が三本。二人で運ぶのに邪魔にならない分だけ、持ってきたバックパックに放り込んだ。
郁が一番嬉しかったのは『神木』だ。これで夜イェリカ・ローダをやり過ごすことができるはずだ。
「なあ、服、脱がすか?」
「こっちに来てから禁欲続きのわりにあの三人になびかないと思っていたら、宗旨替えか」
「……お前、俺を何だと思ってる。てか、そんな話じゃねえ」
うんざりした顔で郁を一瞥すると、江間は「こっちの人間が俺たちに対して平和的じゃないなら、こっちの人間に成りすます方がよくないか?」と目を細めた。
「……」
(そのつもりだが……)
何も知らない中、得られたわずかな情報だけで、自分の安全を適切に確保すべく判断を下していく江間に、郁は改めて警戒を覚える。
「こっちの人間に成りすますには、こっちの服がいる。けど、こいつらのこれは多分制服、つまり何らかの組織の人間だ。そんな人間の服を身に着けるのは、それはそれでリスクがある」
江間は困ったように眉をしかめた。それだけのことでひどく幼く見えた。
「……もらう。その下のを着て、上着は持っていく」
実家の押し入れの中の長持には祖父のグルドザの制服と一緒に、彼のものと思しきサイズの巻頭衣が二枚あった。そしてそれより遥かに小さい巻頭衣が三枚――おそらく向こうで自殺したという、トゥアンナの侍女の服だ――が入っていた。
それらの服を思い出し、上着の下の巻頭衣はこちらでの普段着だと見当をつける。上着は神官の祭服か何かだろう。場合によっては街中で役に立つかもしれない。
郁は神官の背に手をかけて、そこに隠されているはずの結び紐を探す。代わりに木製のボタンを見つけて、眉を跳ね上げた。
「ボタン」は、昔祖父の父が応接した稀人がもたらしたもののはずだ。普及したんだ、と微かな感慨を覚えながらボタンをはずし、一枚の布状になった服をはぎ取っていく。
「初めて見る服のわりに脱がせ方、造りを知っているんだな」
「優れた観察眼だとほめてくれ」
(嫌なやつ)
笑顔でさらっと探りを入れてきた江間に、郁は一瞬で動揺を飲み込むと、意趣返しを兼ねて、大きいほうの一枚を乱暴に彼へと放り投げた。細身のほうに自ら袖を通し、祭服二着についてはバックパックに詰め込む。
「……気が乗らなさそうだった割に抜かりがないな」
同様に着替え終わった江間が例の八の字の拘束具の片側を一人の右手に、残りをもう一人の左手にはめている。
「こいつら、どう見たって慎ましやかに生きてますって恰好じゃねえしな。大体中途半端な善人ほど始末に困るものはないだろう。強盗犯は強盗犯らしく、強いて盗む。ちゃんと悪者になろうぜ。あ、これも金になりそうじゃね?」
「同意するが……悪者、ね。そんな拘束をする人間が吐く台詞じゃなくない?」
「……俺、お前のそういうところ嫌い」
「お互い様だ」
眉をひそめながら、江間は一人の神官が身につけている悪趣味な金の耳輪を奪い取り、さらに靴を剥ぎ取る。「白癬菌がいないといいな」と真顔でつぶやいているが、彼は正しい。いや、水虫のことではなく、強盗をするなら徹底しよう、と郁ももう一人の靴を脱がした。こうしておけば、死なないまでも、裏切り者の彼らの自由はさらに減る。
「……」
それから郁はちらりと江間を見ると、溜息を吐き、先ほど奪った神木のうち数本を取り出し、火にくべた。
「宮部は自分でやるし、自分もやるんだよな……」
「?」
新しく手に入れた荷を持って立ち上がった郁を見ながら、江間がぼそりと呟いた。
「何でもない。さっさと逃げるぞ」
「……了解」
幼い頃とても大事に思っていた彼によく似た、あの子が消えた木立を一瞥すると、郁は江間の後を追った。
炎の明かりから離れると、目は再び暗がりに慣れた。樹冠の合間から降り注ぐ青と黄の月光で、森の中はひどく幻想的だった。起点の異なる二つの月明かりに、木々は濃淡の異なる二つの影を地表に落としている。辺りに響くのは虫のような鳴き声と、二人が枯葉を踏みしめる音。その中を早足でディケセルの応接使から遠ざかっていく。
風が吹き始め、ざわざわと森が揺れる。その音に不安が煽られた。そろそろ目的地、月青岩の密集地に着いてもいいはずだが……。
「江間?」
いきなり立ち止まった江間が郁の前に腕を出した。横を見上げてみれば、彼はひどく険しい顔をして、揺れる木々の奥を見つめている。
「逃げるぞ――何か来る」
言い終わらない内に、彼は郁の腕を握って走り出した。
疑心暗鬼だった郁の耳にも、小さく地鳴りが聞こえてきた。
それはどんどん大きくなって、こっちへとまっすぐ向かってくる。必死で走っているのに、欠片も遠ざからない。それどころか徐々に近づいてくる。方向を変えてもダメ――完全に追われている。しかも組織立った『人間たち』に。
「しっかりしろっ」
月明かりと樹影の黒が交差してひどく走りにくく、もたつく。音はいよいよ持って鮮明になってきた。複数の人間と何か大きな生物がたくさん、こずえをなぎ倒しながら進んでくる。
「宮部っ」
木の根に足を取られ、ついに転んだ。
(ダメだ、速さも体力も違いすぎる……っ)
息を乱しながら、倒れた先でぎゅっと拳を握れば、枯葉と土が手に食い込んだ。
「いいから行けっ。こっちはこっちでなんとかする。足止めしてやるから、あとはうまくやれっ」
自分を見て戻りかけた江間にそう怒鳴ると、郁はバックパックから先ほどの神官服を取り出した。バックパックを前に抱え直し、その上から神官服を被る。
「っ、バカ、何で戻って来るんだっ」
「バカはお前だっ」
「いいや、お前だっ、バカもバカ、大バカだっ」
なぜか戻ってきた江間に郁は慌ててもう一枚の服を被せた。手が震えるのを必死で動かして、最後にフードを被せ、自分もそうした。
“追手”はもうすぐそこだ。足元の大地からは異様な振動が、耳には獣の息遣いが響いてきている。
『ヤルツィヤ首司祭どのとお見受けした、探しましたぞ』
(これ、が『蜥蜴兵』……)
土煙と闇と騒音の中から現れた一団の異様な姿に慄然とする郁の横で、江間が音を立てて唾液を飲み込んだ。
目の前の生物はその名の通り向こうの世界のトカゲの形をしていた。ただ、体高は馬の一・五倍、体長はその倍くらいある。それが六体ほど。
背には赤のチュニックの上に網状の金属でできた鎧、向こうの世界のチェインメイルにそっくりなものを身につけた男たちがいる。
足元には薄汚れた巻頭衣をまとった裸足の男たちが二十人ほどいて、興奮しているトカゲたちを宥めていた。走ってきたのか息は上がり、足は泥にまみれている。
バルドゥーバ兵の胡乱な視線を感じて、郁は覚悟を決める。早鐘を打つ心臓を抱え、唇を舌で潤すとディケセル語を発した。
『……いかにも』
横の江間が息をのんで自分を見た。前方と横、双方に神経を極限まで尖らせる。
『そちらはバルドゥーバの……、っ』
そこまで続けて、今度こそ心臓が止まった。トカゲのうちの三頭に、数時間前別れたゼミ仲間たちの姿があった。