20-12.在りし日(リカルィデ)
宮部は土蟲の籠が置かれた机に突っ伏し、王弟の月聖石を持ったまま手に寝てしまった。向かいの小窓から光が差し込んで、彼女のさらさらの髪を茶色く光らせる。
「……危ないなあ」
彼女が握る石は、光がない場所でもそれ自体が強く青と金に輝く。大きさと言い、質と言い、ずっと城にいたリカルィデすら見たことがないような上質のものだ。
『……』
そのペンダントの金具に刻まれているのは、自分の祖父でもある先王の第二夫人、王弟の母親の名だと思う。となると、彼がこれに価値を見出していない可能性は低いだろう。
(そんなものをあっさり貸してくれるということは……)
と考えて、リカルィデは眉をひそめた。
手にしていた紙と、神木の炭でできた筆記具を置き、彼女へと歩み寄る。
リカルィデには親しく、長く付き合った人がいない。だから想像もできないのだ。何年も毎晩会っていたのに、実際には出会ったことのない幼馴染とは、一体どういう存在なのだろう。その人と十年ぶりに再会した気持ちは……? 十年越しに仲直りした今の心境は……?
リカルィデはそのペンダントを宮部の手から丁寧に取り除くと、好水布に包んで机の上に置いた。
なんとなく髪を撫でれば、柔らかい手触りを残して、するっと手から逃げていく。
(サチコとおんなじだ)
まっすぐな髪だからだろうか。
「っ」
ノックが響いて、リカルィデはびくっと体を震わせると、咄嗟に先ほどの紙を懐にしまった。
「ただいま」
江間の声にほっと息を吐き出し、扉に足を向ける。
(木槌の音ならもっと優しいんだけど)
庶民が利用するような部屋の扉には木槌がないから仕方がないと言えば、仕方がないのだが、リカルィデには扉を叩く音は少し乱暴に感じる。
「おかえり」
鍵を開けて出迎えれば、江間の鋭い印象のある目の下には、うすいクマができていた。
彼は「おはよ」とリカルィデに笑いかけると、すぐ室内に視線を移す。そして、まっすぐ奥に歩いていった。
「あー、やっぱ寝ちまった……」
『……』
何を狙っていたのか、なんとなくわかるリカルィデは、宮部の寝顔を覗き込んで肩を落とす彼に目を眇めた。
でも、となんとか思い直す。
(前、エマは私にはミヤベのことを相談できると言っていた。頼られている証拠じゃないか。それに、エマとミヤベだ。彼らの仲が良いがいいのは、悪いことじゃないはずだ。まだうまく通じてないけど、多分だけど、お互い好きなんだし、私だって、二人が優しい顔で微笑み合っているのを見るのは好きだし、王弟殿下のことだってあるし)
そうリカルィデは自分に言い聞かせる。
「……残念だね。ミヤベ、めちゃくちゃ可愛かったのに。いつもよりずっとたくさん笑うし、子供みたいにふにゃって笑うんだ。スキンシップ?も多かった」
昨夜に続いて朝から機嫌が悪かったリカルィデが、仏頂面を続けるのが難しくなるくらいにこにこしていて、土蟲を前に月聖石を試し、色々な考えを話してくれた。リカルィデの意見をちゃんと聞いてくれたり、目が合って目の端を優しく緩めてくれたりするのはいつものことだけど、普段と違って、頻繁に頭を撫でできたり、抱きしめてきたりする。
「子ども扱いするな!」と怒ったのに、いつになく素直に悲しそうな顔をされて、「だって可愛い。嫌ならやめるけど……」と言われると、「べ、別に、どうしても嫌というほどでは……」と答えるしかない。しかもそれで嬉しそうにされると、やっぱりちょっと嬉しいし。
(…………あれ、なんでだろう? ミヤベが見せてくれる好意は、ただ嬉しいと思えるのに)
勝ち誇るようにしていたリカルィデは、生じた疑問に目を瞬かせる。
「何へらへらしてんだよ。いくらお前でもやらないからな」
「へ、へらへらしてない! 大体エマのものってわけでもないじゃないか」
「……俺の婚約者だ」
「“ふり”だろ。好きだってミヤベにまだ伝わってないじゃん」
とりあえず疑問を脇にやって、ふふんと笑ってみせれば、江間は面白くなさそうに口の両端を下げた。
ため息を吐きつつ、江間が寝ている宮部の頬をつつけば、彼女は口元をふよっと動かした。ひどく優しい顔でそれを見つめた後、彼はもう一度大きく息を吐き出す。
「徹夜明けはいつもそんな感じだ」
「いつも?」
「研究で大学に泊まり込んだりするんだ」
「で、エマはそれに“いつも”付き合ってたわけだ」
「……」
しまったという顔をした江間に、リカルィデは追い打ちをかける。
「他の人にこんな顔見せたくない?」
「……」
「なんだっけ? ストーカー?っぽいよね、エマ」
「…………最近、俺、かっこ悪くない?」
「ミヤベが関わるといつもだ」
「……かもな」
肩を落とすと、江間はまだ汗の滴る髪をかき上げた。
「汗、拭いて。風邪をひく」
「口調が宮部にそっくりになってきた」
リカルィデが差し出した好水布こと「タオル」を受け取り、彼は苦笑を零した。
お湯で湿らせたタオルを頭に載せてガシガシと拭きながら、「それで、月聖石、どうだった?」と江間がリカルィデに聞いてきた。
「ミヤベから聞かなくていいの? すごく喜んでたよ、エマに伝えなきゃって」
「……その話で十分かも」
息を止めた後、江間は顔の下半分を手で覆った。
「ミヤベのことになると、簡単にデレるよね、エマって」
半眼を向ければ、彼は「いや、宮部からももちろん後で聞くけど」と顔を引きつらせる。そして、真剣な顔をした。
「リカルィデの力を買ってるんだ。だからお前の目から見た結果も聞きたい。宮部もそうだと思うぞ?」
思わず口をとがらせる。
最近色々面白くない。江間が「ハンコウキ」と言うけれど、何もかも「なんで」とか「嫌だ」とか言いたくなる。心配されるのも何だかイラつく。でも、逆らいきれない気もして、それで余計腹が立つのだ。
今だって、江間の目はすごく優しい。自分が口を開くのを待っていた時のサチコと同じ目だ。
顔をぷいっと背けつつ、口を開く。
「……どの月聖石でも大きいのは死んだ。光が強い石ほど早く死ぬ。小さいのは変化がなかった。でも、この二つは元は同じ種だと思う。ええと、カイボウ?をしてみたんだけど、大きさと翅の有無以外、体のつくりがそっくり同じなんだよ」
「体が違ってくる原因は何だと思う?」
「ミヤベは共食い、特に小さいのが大きいのを食べた場合に、変化が起きるんじゃないかって。今大きいのと小さいのそれぞれに、それぞれ二種類の体を刻んで食べさせてみてる」
そう言って、リカルィデは机の上に並べた四つの小さな箱を指さした。
「それで、最初の大きい土蟲がどうやって発生したか、なんだけど……」
リカルィデは先ほど懐に隠した紙を取り出して広げた。
「これ、地図じゃないか……」
「うん、さっき私が描いた」
昨日、特にシドアードが見せた反応を思い出したのだろう、江間の空気に緊張が混じった。
「なんで知ってるんだよ」
「セルの書物庫で見た。古いのも新しいのもいっぱいあったよ。私、透明人間っていうんだっけ? いない人間扱いだったから、入る……ええと、制限?がある場所でも、基本入りたい放題だった」
セルの城に巣食うバルドゥーバ派は、蔵書師たちにも圧力をかけていた。しょっちゅう書物庫で過ごしていたというのに、リカルィデに話しかけてくる人はほぼおらず、人目を忍んで話しかけてくれるようなった人は、すぐいなくなってしまう。そのうちに、みな目すら合わせてくれなくなった。
唯一入れなかったのは一番奥の間だったが、それ以外はリカルィデがどこに入り込もうと、どこで何を読んでいても、みな完全にスルーする。
「ずっとみんな私のことなんかどうでもいいんだって思ってたけど……蔵書師たちなりに気にしてくれてたのかもって今は思うよ。サチコだけじゃ、この世界のことはきっとわからなかった」
リカルィデが創世神話を読んでいたら、目の付きやすい場所に同じ年代の叙事詩が置いてあったり、中庭で捕まえた虫をかごに入れて調べていた時は、翌日にセルで見られる生き物の図鑑が置いてあったりした。
リカルィデが好きな博物学や民俗学の本が、しょっちゅう新しく入ってきていたのも、多分同じことだ。
サチコに教えるふりをして、横にいるリカルィデに向けているとしか思えないことも色々語ってくれていた。
イゥローニャ族の文化や言葉だって、リカルィデが読んでいる本と同じ内容を、書架の裏側で本の整理をしながら独り言のように聞かせてくれた蔵書師がいたからこそ、覚えられたのだ。
地図もそう。地理の知識を持つことでできることと、それゆえの危険性をぼそぼそと呟きつつ、収蔵されている部屋の鍵を開けてくれた人がいた。
「彼らが手助けしてくれた知識がお前を救ってくれて、そのお前に俺たちが救われてるわけだ。俺たちも感謝しないとな」
江間に真っ直ぐ言われて、嬉しいのは確かなのだけれど、同時にその真っ直ぐさがなんだか気に入らない。リカルィデは、ぶっきらぼうに地図を指した。
「これがメゼルから大神殿に行くまでの道、このバツ印が土蟲を採ったところ。それで、この黒く色を塗った部分が、惑いの森」
「本来のイェリカ・ローダの生息地……」
「それで、ミヤベが記録してた、九、へいほうめーとる? ええと、一定の広さの土地当たりの土蟲の数がこれで、そのうちの大きいのと小さいのの割合がこれ。ミヤベはサンプルの数が少ないって言ってたけど、なんとなく、ええと、けいこう?が出てると思うんだ」
「森に近いほど、大きい土蟲の割合が高い……」
「大きいのの割合は、ここが一番高いんだ。この十年位でどんどん惑いの森が広がってきて、十トケルぐらいまで迫っているって」
江間は好水布を首にかけると、リカルィデの書いた地図を手に取って、「一トケルは確か大体二キロだったな……」と難しい顔でしばらくそれを眺めていた。
「……よくやった。お前、すごいな。サチコさんもきっと自慢に思ってる」
そして、破顔すると、リカルィデの頭を撫でた。