20-11.彼“女”たち(ゼイギャク)
賓客の滞在先とされている建物の裏口、中庭に続く扉を押し開くと、朝の湿り気を含んだ冷涼な空気が、ゼイギャクの全身を包んだ。
夜明け前の薄明かりの中、足を踏み出す。あたりは少し靄がかかっていて、息を吐き出すたびに、白い呼気が靄に溶けていく。
シャクシャクと足もとで音がするのは、昨晩のひどい冷え込みで、霜が降りているせいだろう。
靄の向こうに、影が二つ見えた。一つは体を伸ばし、一つはだるそうに屈んでいる。
『おはようございます、シャツェラン殿下。珍しくお早い』
『早いも何も、どうも寝てらっしゃらないようです』
『……シドアード』
ゼイギャクの声に、シドアードが呆れを含んだ応えを返し、シャツェランが気まずそうにその彼を咎める。
『それはいただけませんな』
『わかっている』
口をへの字に曲げたシャツェランの顔は、ひどくあどけない。ゼイギャクは時が二十年近く戻ったような錯覚を覚える。王都セルの城で、シドアードを稽古相手として、当時ディケセル王の次男であったシャツェランにスオッキを教えていた日々だ。
あの頃、ゼイギャクの腰程の高さにあった彼の頭は、今、ゼイギャクのはるか上にある。背丈だけではない。今や彼は王弟の立場にありながら、王を凌ぐほどの力を持つようになった。
『まあ、お年頃ですから、悩みもあるんでしょう。というか、少しは悩んでもらわないと、オルゲィのため息が増えますよ』
『そういうのじゃない。というか、お前も独身のくせに、人にばかり言うな』
『私は気楽な身なので』
『決めた、今日こそお前から一本取ってやる』
シドアードを睨み、剣とスオッキを構えたシャツェランに、シドアードが笑いながら応じる。
靄の中、金属と金属の勝ち合う音が響く。
自分の手元から出して久しい弟子二人の動きを、ゼイギャクは静かに、けれど鋭く見守った。
朝日が射してきて、朝靄が消えていく。辺り一帯が、金を帯びたオレンジに染まる。
若々しく、しなやかな二つの肉体が、ぶつかっては離れ、手足を自由に動かし、舞うように絡み合う。
悪くない、とゼイギャクは思う。ただ、おそらく二人でいつもやりあっているのだろう、慣れが見え隠れするのが気になる。
『……』
ゼイギャクの鋭い耳に、足音が響いた。足運び、間隔、音の重さ――刺客などのものではない。
(これは……)
ゼイギャクは思い当たった人物像に、微かに眉を跳ね上げる。その人物に慌ただしく走って来るイメージがなくて、ゼイギャクは眉間に皺を寄せながら、音の方向を振り向いた。
背後にもう一人、追いかけてくる。こちらは歩幅が長く、足運びが一定で、重心も安定している。血慣れていないとゼイギャクは見ているが、やはり訓練はそれなりに積んでいるようだ。こちらも害意のある動きではない。
『おはようございます、ゼイギャク様』
木立の中からまず姿を現したのは、予想通りの人物だった。だが、いつも落ち着いている彼女は息を弾ませて、さらに意外なことに、顔に明らかな微笑みをたたえている。
『っ』
『……突然の客ごときで隙を作ったら、殺されます』
背後から鈍い音と呻き声、そして、シドアードの呆れが聞こえた。
『ゼイギャクさま、月聖石を頂戴できませんか?』
何の脈絡もなく、勢いよく言われたゼイギャクは、眉を跳ね上げる。彼“女”、宮部らしくない性急な物言いもだが……。
『……』
ゼイギャクの背後で、二度目の呻き声が聞こえた。
『違うだろ、貸してください、だ』
追いついてきた江間が、宮部に苦笑する。そして、ゼイギャクに向かい、
『もし月聖石のお守りか何かをお持ちでしたら、少し貸していただきたいのです』
と言い直した。
『突然申し訳ありません、お邪魔してしまって。毎朝訓練をなさっていると宮部に話したら、飛び出して行ってしまいました』
『……かまわないが、何に使うのかね?』
若い頃妻から贈られたペンダントを、ゼイギャクが上着の内から引っ張り出せば、江間の隣で宮部が目を輝かせた。ひどく幼い印象を受けて、ゼイギャクはまたも面食らう。
『失礼いたしました。今、土蟲をしら――』
『軽々しく月聖石をくれなどと口にするな』
話し始めた宮部を遮ったのは、シャツェランの不機嫌そのものの声だった。ゼイギャクの背後から姿を現わす。
『確かに。ゼイギャクさまが求婚された、と衝撃を受けました』
続いて、シャツェランの横に並んだシドアードが、
『ミヤベ、昨日の地図に続いて、中々の問題発言だぞ』
とくつくつ笑えば、宮部は目を丸くした。いつにない素直な反応に、ゼイギャクのみならず、シャツェランも眉間にしわを寄せる。
『求婚? って、結婚の申し込みだっけ? ……なるほど、月聖石だからか』
『知っていて、腕輪につけたんじゃないのか』
『そこまでは。装飾店の主人に婚約の証につけることが多いとだけ』
シドアードと江間の会話に、シャツェランは面白くなさそうにそっぽを向いた。
『度重なるご無礼をお許しください』
それでようやく宮部は我に返ったらしい。頬を染め、略礼をとった。
『それで、何があったんだ?』
柔らかく響くシャツェランの声に、宮部はまたぱあぁっと顔を輝かせると、息をのんだ彼にかまわず、『土蟲の被害を減らせるかも』と屈託なく話しかけた。
その宮部の襟首をつかんで、一歩後ろに下がらせると、江間が落ち着いた、低い声で補足する。
『詳細はあらためて報告いたしますが、月聖石に土蟲を殺す効果があるのではないかと疑い、色々な石をお借りしたいと思ってお願いに上がりました』
『月聖石で死ぬ……――イェリカ・ローダのように、ということだな?』
シャツェランの顔が瞬時に鋭く尖り、宮部の顔がうって変わって真顔になった。
目を丸くしていたシドアードは、すぐに意味をくみ取ったらしい。信じられないものを見る目つきで、江間と宮部を見た。
『その辺を含めてもう少し調べますが、仮にそうだとしても、バルドゥーバのような使い方は』
江間は宥めるように宮部の肩に手を置くと、切れ長の目をシャツェランへと向けた。
『……そう約束しない限り、動かないというわけか』
『飢饉は防ぎたいので、そこまでは動きます』
シャツェランの問いを暗に肯定した江間は、にこやかに笑って見せるが、その目には挑むような色がある。シャツェランはその彼を睨むように見つめ返した。
『……』
唇を引き結び、沈んだ様子で視線を伏せてしまった宮部を一瞥すると、シャツェランは長々と息を吐き出す。
『いいだろう。だが、バルドゥーバの出方によっては、保証できない』
『まあ、それはそうですね』
あっさりと頷いた江間の横で、宮部もほっとしたように息を吐き出した。
『これも貸してやる』
『い、や、それは……』
首から外した、朝日の中でなお輝きを放つ月聖石のペンダントを、シャツェランから無造作に差し出され、江間は顔をひきつらせた。
シドアードも『それ、確か銘のある石じゃ……?』と引いているが、『いいから持っていけ』とシャツェランは、横にいた宮部の首にそれをかけてしまった。
『――後で報告しに来い』
自ら光を放つ首飾りを目を丸くして見つめる彼女に、微かに笑いかける。そして、真顔に戻り、『……また明日、でもかまわない』と小さくつぶやいた。
宮部は、借り物の二つの月聖石のペンダントを、好水布と呼ばれる肌触りの良い布にくるんで大事に懐にしまう。そして、何が楽しいのか、口元を子供のように緩め、そのままの顔で江間を見上げた。
つられるように江間が、ひどく甘やかに微笑み返す。彼の計算された作り笑いしか見たことがなかったゼイギャクは、軽く目をみはった。
『それではいったん失礼いたします』
略礼を取った二人のうち、シャツェランが江間の肩を掴んだ。
『お前は残れ』
「は?」
『せっかく早起きしたんだ、付き合え』
『い、やあ、起きたというか、ずっと起きていただけというか……なんせ、せっかくの師弟の訓練にお邪魔するのは、遠慮させていただ――』
『気にする必要はない、なあ、ゼイギャク』
江間には助けを求めるように、シャツェランには頷けと脅迫じみた目で見られて、ゼイギャクは片眉をひそめた。
『……歓迎する』
結局、江間の変わりに変わった剣術を見たいという誘惑も手伝って、ゼイギャクはシャツェランに軍配を上げる。
その答えににやりと笑い、勝ち誇るように江間を見たシャツェランの顔を、ゼイギャクはじっと観察する。
シャツェランの領内の諸事を取り仕切っているオルゲィ・リィアーレから、シャツェランが江間をひどく気に入っていて、夫妃になるのでは、と噂になっているとは聞かされている。
確かに主――ゼイギャクは王ではなく、既に彼を主と定めた――は江間を気に入っているようだが、そういう気はないように思う。
(むしろ……)
『宮部、お前からもなんとか言ってくれ』
焦った江間が話しかけた先、宮部の顔を見るシャツェランの様子こそ、ゼイギャクには気にかかる。
(そういえば、メゼルで出会った時、護衛にシドアードをつけるかどうかで、殿下にあからさまに歯向かったのもミヤベだった……)
『ええと……頑張って?』
首を傾げた宮部の答えに絶句した後、肩を落とした江間は、「テツヤアケ、キチョウナノニ……」と何事かをぶつぶつ言いながら、自棄気味に「カタナ」と呼んでいる武器を手に取った。
人悪く笑ってその彼の後を追いながら、シャツェランはちらりと宮部を振り返った。
『……本当なんでしょうか?』
弾むような足取りで駆け戻っていく宮部を見送って、シドアードがつぶやいた。
数ガケル先では、江間が体を伸ばしていて、シャツェランがその彼に何かを話しかけて笑っている。
『土蟲の話か? 後で報告が来れば、わかるだろう。これまでのミヤベの行動を考えるに、証拠として土蟲を持ってきて見せるはずだ』
『それはそうなんですが、なんというか、何かが違う、と思いませんか? 昨日の地図の件でも思ったのですが……』
と言って、シドアードは今度は江間へと視線をやった。
『イェリカ・ローダは、神に疎まれた不浄の生き物で、だからこそ惑いの森にいるのだ、そこ以外にはいないと思っていました。それが、実はその辺に何気なく転がっている生き物の中にもいる、ということですよね、エマたちが言っているのは』
あいつらの目には、何がどう映っているんだろう――。
『……』
シドアードの困惑に微妙な恐怖を混ぜた呟きに、ゼイギャクは目を閉じる。
夜空に浮かぶ二つの満月に付いた染みのような影が、徐々に大きくなり、ゼイギャクの視界を覆いつくしていった。
背に数本の矢が刺さり、肩と脇は深く傷つき、全身既にボロボロ、頭から吹き出した血で視界もままならなくなっていた。この状態で“空をしろしめすもの”と対峙することは不可能、と妙に冷静に考えていた記憶がある。
まだ幼いアーシャル王子だけでも逃がす方法はないか、と考えていた時だった。燃えさかる赤い輝きが、ゼイギャクの目の前を横切ったのは。
あの畏怖すら覚えるほど鮮烈な炎が、彼らに重なる。
シドアードの、そしてアドガンの指摘通りだ。
彼らは、“稀人”は、違う。知識などの些細な問題ではない。異様――彼らは、我々の常識を、倫理や道徳を、価値観を平然と蹴散らし、踏み越えていく。
同じ人の形をしているのに、中身が決定的に違う、そう思ってしまう。
宮部に江間、バルドゥーバにわたった福地たち――そうして彼らがもたらす結末は、一体どういうものだろう。
『恐ろしいか?』
『……正直に言えば』
『私も恐ろしい。だが……』
≪このまままっすぐ八ガケル、洞窟に飛び込め≫
“空をしろしめすもの”による殺戮の最中、跪いていたゼイギャクを掴んで立たせた、細い指の感触が、左の二の腕に蘇る。
ごり押しでディケセルの応接使となった、双月教の首司祭と補祭を襲った人間の手際は、見事なものだった。ゼイギャクがそう思っていたように、生き延びた神官たちも、彼らの報告を受けたバルドゥーバも、稀人を狙う何者かに襲われたと信じている――それが自らを死んだように偽装した、稀人自身によるものであったとは夢にも思わず。
ならば、あの時ゼイギャクたちを見捨て死なせてこそ、“稀人”である自らの存在を完璧に隠し遂せただろうに。
彼らがなぜ危険を冒してまで、アーシャル王子を攫ったのか。ゼイギャクはその理由を利用するためだとずっと考えてきた。
だが、ここにきて、そうではないのかもしれないと思うようになった。彼らはまるで本当の家族がするように、彼“女”に接しているし、何より……、
≪私は、私のできることをしたい≫
ずっと道具として利用されてきた彼“女”の顔から、あれほど色濃かった、死を望む影が消えていることが、その証拠に思えてならない。
『……エマの「カタナ」を見たか?』
『? はい、敢えて刃を潰している、あの妙な剣ですよね』
『あれで人を殺せると思うか?』
『まあ、当たり所が悪ければ、ですね。殺傷能力はどうしても低くなります』
『つまり、そういうことだろう』
静かに話すゼイギャクを、シドアードは真剣に見ている。
『そして、そういう彼らであれば、我らに見えないものが見えている、殿下の助けにもなるはずだ』
『……はい』
ゼイギャクの目をまっすぐ見たまま真顔で頷くと、シドアードは賑やかに剣と刀を交える江間とシャツェランを振り返った。そして、器用に片方の口の端を引き上げる。
『昨晩のでうんざ、十分ですっ』
『お前も道連れ、じゃない、お前にも出会いの機会をやろうと言うんだっ』
『っ、何度も断っただろっ、じゃなくて、お断りしたはずっ』
『私のせっかくの嫌がら、配慮を無下にするなっ』
『っ、今嫌がらせって言った! っく、仰ったくせに!』
『つっ、気のせいだ』
『ちっ、殿下の出会いを邪魔しちゃ悪いっ……んで、ごめんですっ』
『お前がそんな殊勝な性格か! っと』
『ああやってると、普通の男子ですけどね、どっちも……というか、むしろ幼いかも』
ため息を吐くと、シドアードは『集中しろっ、また怪我するぞっ』と雷を落としながら、剣と刀を突き合わせるシャツェランと江間に歩み寄っていった。